夜露に濡れた青い草はら。風に乗ってやってくる潮の匂い。わずかに香り始めた路傍の金木犀。

アスファルトを踏みしめるたび肺を満たす、九月の空気が心地いい。すこし前まではこの時間でもうだるように暑かったのに、今では薄めのウィンドブレーカーを羽織ってようやくちょうどいいくらいだ。夜走るにはやっぱりこれくらいの季節がいいと、川原のランニングコースを及川と並んで走りながら思う。

ちらりと目をやると、ひたいにわずかに汗をかいた及川はこちらの視線に気づいてにこりとした。
「気持ちいいね、岩ちゃん、……ってイテッ! なんでたたくんだよ!」
なんでって、お前と思考がかぶってちょっとムカついたから。
「ヒドッ! そういうの理不尽っていうんだよ!」
「うるせえ、てか口に出してねえのに勝手に読んでんじゃねえ」
「ううっ、岩ちゃんはおじさんになってもリフジンだ……」

頭をさすりながらのろのろと走る及川徹は幼馴染の元チームメイトで、東京に出て十年以上が経った今はまた同じチームでついでに同居人だ。大学で別れて互いにプロのバレーボールクラブに進み、何度か同じチームになって、また何度かは別のチームになった。まあ腐れ縁の見本みたいなものだ。

数年前三十を前にしてふたりともまだ独り身だったので、それじゃあどちらかに彼女ができないかぎりといって今は同じマンションで暮らしている。

それなりの家賃で交通の便がよければ場所はどこでもよかったけれど、その中でも東京の西側を選んだのはこの川べりのランニングコースが近くにあるからだ。河川に沿って続く数十キロの舗装路に春は絢爛の桜が咲き、夏は緑が茂って、秋は静かな虫が鳴き、冬の朝は眠気覚ましにぴったりの風が吹く。

不動産屋さんの車を停めてアスファルトに降りてみて、ふたりで顔を見合わせてここがいいと決めた。そうして引っ越して以来週に二、三度は走りにきている。


「公園のほう、通っていこうか」
橋の下を通りながら及川が言った。うんとうなずいて俺はつま先を右手の芝生に向ける。

公園というのはこのコースの途中に沿ってつくられたアスレチック群のことだ。二階建てのひときわ大きい秘密基地みたいなアスレチックの周りに丸太の橋や縄のハシゴ、それからブランコや滑り台が並んでいる。さすがにもう遊具で遊べるような歳でも体型でもなかったけれど、公園には自販機とそれからときどきノラ猫の姿があったのでしばしば休憩ついでに立ち寄っている。

公衆トイレの脇を通ってすこし行くと見えてくる公園は、ときおり中高生がたむろしていることもあるが今日は無人だった。

かわりに堂々とベンチの上に座る三毛猫をひとなでして逃げられ、笑う及川をかるく小突きながら煌々とまぶしい自販機でペットボトルを買う。夏場は五○○ミリのスポーツドリンク。春と秋はたいてい二五○の緑茶で、冬はココアかコンポタかジャンケンで決めてふたりで一本を分ける。

初秋の今日はすこし迷ったがスポーツドリンクのボタンを押した。涼しくなってきたせいか及川の調子がよく、いつもよりやや速いペースできているからこのままいくとすこし長距離になりそうだった。

「及川、……ん」
「ああ、ありがと」

ベンチに掛け、タオルで軽く汗をぬぐって及川は俺の差し出したペットボトルを傾けた。
かたわらの自販機に照らされた横顔は三十を過ぎても未だにきっちり整っていて、数ヶ月前に髪をすこし短くしたせいでよけいに若く、ほとんど青年のように見える。(ウザったかった前髪やらなんやらがいくらかマシになったと思うけれど、それを口に出せば途端にこの幼馴染がつけ上がるのは目に見えているから口にはしない)

「……っぷは! あ〜、きもちい」
ひといきに半分近くを飲み干して、及川は満足げに息を吐いた。ニコニコと笑う顔は、ひどく幸せそうに見える。
(――幸せそう、だ)

ハイ岩ちゃんと差し出されるボトルを受け取りながら、ぼんやりと思った。
及川はたいていヘラヘラ笑っていて、楽しそう、幸せそうに見えた。もちろん例外といえる時期もときどきはあったけれど、だいたいはそうだ。ファンの女の子に囲まれているときも、遅く起きた休日にふたりで食卓を囲む朝も、あるいはこうして並んで走る夜も、及川はいつも嬉しそうだった。
でもそのどこにも本当の充足はないことを、きっと及川より俺のほうがずっと前から知っていた。


自分ではこの男を幸せにしてやれないとわかったのは、果たしていつのことだろうか。
はっきりとした確信を得たのはいつだったのか、ときおり振り返ってはみるけれど判然とはしない。高校のバレーボールを終えたときだったのかもしれないし、中学で伸び悩む及川に喝を入れたときだったかもしれない。あるいは俺たちがバレーボールを始めたころから、その予感はいつもすぐかたわらにあったような気もしている。

子どもの頃は、自分がトオルを幸せにするんだと思っていた。
白くてやらかくて細っちくて、四歳のトオルのほっぺたは触れるととろけてしまいそうなくらい気持ちがよくて、いっつも天花粉の匂いがしてた。
女の子みたいにかわいいのにいっちょまえのワンパクで、転んではすぐにあーんと泣いていたから俺がそのたびヘンな顔して笑わして、そんなことがずっと続くんだと思っていたのだ。

手足が長くなって背丈が伸びて、お互いの身長を何度か抜き合って成長してからもその気持ちにはほとんど変わりがなかっただろう。
男の子は女の子を幸せにしてやるもんなんだとアニメやマンガで言われても俺にとってそれはやっぱりトオルだったし、(今考えれば子どもらしい傲慢だけれど、)トオルだって俺がいれば幸せだと思っていた。

でも俺じゃ及川はだめだった。
思春期らしくキスしてみたことも、十七、八の向こう見ずさに任せて裸で抱き合ってみたこともあった。普通の恋人みたいにつまらないことで喧嘩したり、仲直りしたり、休日にどこかへ出かけたりしたこともあった。ふたりでいるとき及川はいつも、ことさら幸せそうに見えた。

そうしてそれはただそう「見える」だけなのだと、バレーのコートに立つたび思い知らされた。
サーブを空に上げ助走に駆ける数拍。しなやかに膝をつかい、トスを上げる瞬間。試合が決まってチームメイトに駆け寄るとき。そういうとき及川が見せる表情は、嫉妬するほどに生々しく、うつくしかった。

頭のわるかった俺はその当時いったい自分が何に妬いているのかすらわからなかったけれど、あえて言うならそれはきっとバレーボールそのものへの嫉妬だっただろう。及川はコートの外で俺といるときあんな顔はしなかった。

喜びも苦しみも、誰よりも及川に与えたのはバレーボールだった。
自分の才覚にどれだけ悩み苦しんでも、どんなに練習が酷でも、及川は決してコートを離れようとはしなかった。ほんの束の間の勝どきのために、及川はいつも必死でもがいていた。何十、何百、何千。どれだけ磨いても満足せずにサーブを続けるその姿はしばしば敬虔な信者の祈りのようであり、またあるときは、どんなに努力しても決して手に入らない相手に焦がれているようにも見えた。

そんな努力をすぐとなりで、何年も見つめていたのだからわかる。
及川が本当に望むものを、どうしたって俺は与えられない。

否、俺だけの話じゃない。たとえばどんなに美人で気立てのいい嫁さんをもらったところで、もしくはどれだけいい会社でいい身分についたところで、それはきっと同じだっただろう。

及川徹はたかだか二十メートルほどのコートの中で、ただひたすら毎日、毎日毎日毎日毎日、あがき続けることでしか幸せを見つけられない。あれは自分のバレーを追い求め続ける限り心からの満足はできず、けれど、そうすることでしか幸福を見出せないのだ。

認めるのは悲しくて、情けなくてつらくて悔しかった。自分じゃだめなんだと諦めるにはしばらく時間が要って、高校生の頃は、ときどきどうしようもなくなってがむしゃらにロードワークに出ていたのを覚えている。

つきつけられた現実から目を背けたくて、どうにかして及川の目をこちらに向けたくて、部屋に押しかけて抱けと強請ったこともある。どうしようもなく子どもだった。けれどいつまで子どものままでもいられなかった。

お前はきっとじいさんになるくらいまで幸せになれないと、春高バレーの帰り道とうとう及川に言った。及川に言ったというより、自分に言い聞かせたというのがたぶん正しい。及川本人はふしぎそうな顔をしていた。俺はすこしすっきりしていた。たぶん、誰かに潔く振られたときとすこしだけ似たような心持だったのだと思う。

大学はそうして吹っ切れて別々に進んで、ときどき顔を合わせた及川に特定の相手がいないと知るたびすこしほっとして、何年かに一度は同じ新幹線で地元に帰省して、そういうことをくりかえしてあるとき及川が
「一緒に暮らそう」
と俺に言った。「どちらかに彼女ができないかぎり」と及川は思い出したように付け加えたけれど、今さらほとんどその可能性がないのはさすがに俺だってわかっていた。うんとうなずいた夜及川は俺を抱いたし、俺だって拒みやしなかった。

及川はけっきょく俺を選んだってことだ。
嬉しかった。ただただ嬉しかった。
俺には及川を幸せにすることはできない。及川だってもうそれをわかってる。――わかる歳になった。

及川のために俺ができることは本当に、おどろくほどに少ない。
そばにいること。一緒に食事をすること。いってきますとおかえりを言う相手になること。くだらない話をすること。並んで走ること。数えてみたところでせいぜいきっと、そのくらいのものだろう。
及川はそれを承知の上で、道連れに俺を選んだのだ。
だからこそ、及川と行くのは長くつらい道だとわかっていても、それでも道行きをともにしたかった。及川がいつか心折れそうになるとき、すこしでも支えになれたなら俺にはそれでいいと思った。

「……ふう、」
スニーカーの靴ひもを結んで、十分程度の休憩からゆっくりと立ち上がる。
及川は手のひらで弄んでいたペットボトルをゴミ箱に捨てて、足の感触をとりもどすみたいにその場で小さくジャンプをしていた。
ううんと腕を伸ばし、あくびをひとつして振り返る。
『行くか』『行こう』
言葉はとくべつ必要ない。目が合ってどちらからともなく走り出す。
草むらにひそむ秋の虫は夏のそれよりずっと歌が上手かった。及川と何か話をしてもよかったが、しばらく静かにいくのもいいと思って何も言わず、河川敷を行く数人の深夜ランナーたちに紛れこむ。
雲間に差し込む月明かりの下、ふと振り返ると及川は幸せそうにほほえんでいた。幸せに見える顔で笑っていた。
――それでよかった。
幸せにできなくたって、ほとんどなんにもできなくたって、及川は俺のとなりで笑っている。
それで、よかった。

   ***

(やっぱり、岩ちゃんと走るのがいちばん息が合う)
秋のはじめの夜を、ふたり並んで行きながらそう思う。となりを走る幼馴染はついさっき休憩を終えるまではこの歳になっても飽きない特撮映画の話をしていたのに、今はとつぜん本来の年齢にもどってしまったみたいに静かだ。
まるで、俺が話をする気分じゃないのを察したみたいに静かだ。実際のところどうかは知らない。ただ岩ちゃんと走るのが心地いいことだけが確かだ。口元は自然と持ち上がる。

岩ちゃんのとなりは、誰といるより居心地がいい。
数年前、久しぶりに同じチームになったときそう実感した。それまでもチームメイトと並んで走ることはいくらでもあったけれど、その誰とだってこうはいかなかった。
岩ちゃんは俺の調子がいいとわかれば自然と合わせてピッチを上げてくれるし、反対に体調がわるければ俺よりも先にそれに気づいて今日は帰ろうと止めてくれる。軽口をたたけばあるいは乗り、もしくは雑に流すくせに、黙って走りたい気分のときは察して放っておいてくれる。
かつては大仰な呼び名だと感じたこともあったけれど、阿吽の呼吸とはたしかによく言ったものだとこの頃になって改めて思った。

この人のとなりは、なんというか、ひどく呼吸がしやすいのだ。他のチームメイトに対するときのように余計な気を遣うこともなければ、女の子を相手にするときみたいにむだに笑顔を貼り付けておく必要もない。
なにを考えているのか全部はわからないけれど、だいたい半分くらいはわかる。黙っていてもいいし、喋っていてもいい。それぐらいの距離感がちょうどいい。
東京に来て社会に出て、それなりに仲良くなった相手もいたけれど結局どれもこの居心地のよさにはかなわなかった。再会してから一緒に暮らそうと言うまで、さほど時間はかからなかったと思う。

「っ、いでッ!」
膝に走った衝撃で思わず前に手をついて、それから自分がつまずいたことに気がついた。考え事をしていたせいで暗がりに転がっていた小石を変な風に踏んでしまったらしい。足下をちらりと振り返ってそうとわかる。

「及川、大丈夫か」
「あ、うん、ありがと岩ちゃん」
「足は? 捻ってねえか」
「ん。平気だよ」

手を引かれ、立ち上がって細かい砂利を払い落とす。一応手首と足首を回してみたが妙な着き方もしなかったようで、ジャージ越しに打ちつけた膝が多少じんじんする程度だ。

「ちっと歩いたほうがいいか?」
「ううん、大丈夫」
「そうか」

うなずいてそろそろもどろうと踵を返し、岩ちゃんはもと来た道を走り始める。
頭の上の時計を見上げれば走り始めて一時間弱。引き返すにしてはいつもより早かったけれど、今日はペースが早かったからそれなりの距離をきていたし、もし今痛まなくてもあとで痛んできたらと思ったのだろう。確信はないがたぶん大体合っている。昔から自分の傷には唾をつけておけば治るだとか言って無頓着なくせに、俺が指先一寸でも怪我すれば頑なに放っておかなかった。(岩ちゃんはほんとに俺のことが大好き)
思わずにやけるほっぺたで岩ちゃんのすこし後ろを走る。見とがめられればなに気持ちわりい顔してんだと未だに殴られる。
俺が百八十センチ以上もある頑丈な男で岩ちゃんは本当によかったと思うのだ。だってこれが小柄な女の人だったら岩ちゃんはとっくのとうにDVでお縄になっている。まあ岩ちゃんは俺でなければ殴らないんだけどと、そこまで考えてよけいに嬉しくなる。
岩ちゃんは俺しか殴らない。高校の頃ささいな言い合いの中で口にしたことをなんだかんだ生真面目な岩ちゃんは未だに守ってる。幸せなことだ。……幸せみたいなことだ。
前を行く大きな背中を見つめ、俺はすうっと目を細める。

「俺はおまえに、何にもしてやれないぞ」
同居を申し出たとき、岩ちゃんは俺にそう言った。
「せいぜい一緒にいることくらいしか、たぶんできない」
すこし考えて、そうも言った。

結婚できないとか子どもを産めないとか、そういうことだろうかと初めは思った。そういうことじゃないってそれからふとわかった。高校生の頃、そのときと同じような顔する岩ちゃんを見たことがあると思い出していた。俺がバレーボールを続けることでしか幸せになれないというようなことを、岩ちゃんが言ったときのことだ。
あのときの俺にとってその言葉はまだうっすらとしたイメージに過ぎなかったけれど、それからさらに十年近い月日をバレーに捧げた二十代の俺にはあの日岩ちゃんの言いたかったことがもうわかっていた。同時に十年後の岩ちゃんの言いたいこともわかるくらいには大人になっていた。
「――うん。それでいいよ」
俺はそう言ってうなずいた。岩ちゃんはほっとしたように眉の力を抜いて、きゅうっと結んだ唇をかすかにゆるめていた。ストイックで、いかにも隙のなさそうな男がほっとしたことを隠しもせず見せてくるので嬉しくなって、その日はすこし岩ちゃんに無茶をしてしまった。
あのとき俺は岩ちゃんのボタンを外すので忙しかったし、言葉にすればなんだか泣いてしまいそうだったからはっきりとは言わなかったけれど、でも岩ちゃんはすこしだけ間違っている。

岩ちゃんは、自分がとなりにいることでどれくらい俺が救われているかわかっていないのだ。一緒にいることくらいしかできないと岩ちゃんはあのとき言ったけれど、それがどんなに意味のあることかをわかっていない。
練習でミスをしたとき、すぐに笑って流してくれるその声に俺はどんなに元気をもらっているだろう。つまずいたとき、なにげなく差し伸べられる無骨な手にどれだけ励まされてきただろう。どうしたって上手くいかないとき、自分の実力に相対して心折れそうなとき、何回この人に殴られて目を覚ましたことだろう。

――何にもしてやれないという岩ちゃんのとなりで、俺はいつだって岩ちゃんに救われてた。

じいさんになるくらいまで幸せになれないと言った岩ちゃんの言葉は、あるいは本当なのかもしれない。俺は本当に、バレーボールの中にしか幸せをみつけられないのかもしれない。けれど、それでもかまわない。
スピードをすこし上げて、俺は岩ちゃんのとなりを走る。

ヒュウッと一陣の風が吹いた。
秋の気配を乗せた、冷たくてほのかに甘い風だ。風が吹いて、雨が降って、くりかえしてやがて冬が来る。
冬がきたらコーンポタージュを譲らない岩ちゃんとココアを主張する俺とでジャンケンをして、笑いながらそれをふたりで分ける。道行きはこれからもきっとふたりだろう。走り続けた肺はそろそろ悲鳴を上げ始めていたけれど、そのことを思うと不思議と呼吸が楽になる。
息を吸って、吐いて、また吸って、足を踏み出しながらちらりととなりを振り返る。いくつになっても変わらない、むつかしい顔をして岩ちゃんが走っている。俺はふっと口元をゆるめて、それからわずかに前傾した。次のベンチを過ぎれば最後の百メートルはいつだって競争になるのだ。すこしくらい早くスタートしたっていいだろう。

足の裏に力をためて、……よーい、
「ドンッ!」
言うなり加速した俺にびくっと飛び上がり、それからずりィぞと怒鳴りながら岩ちゃんは追いかけてきた。
「クソ及川、抜け駆けしてんじゃねえ!」
バレーボールは日ごとに上達したのに、岩ちゃんの悪口は高校生のころからちっとも進化していない。きっとゴールラインを踏んだあと進化のない岩ちゃんに俺は殴られるだろう。幸せなことだ。幸せみたいなことだ。俺たちは笑いながら夜風の中を駆ける。

暗く長い、終わりも見えない道のりの途中、幸せによく似た何かはたしかにそこにあった。



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スパーク無配より再録
(2015.1205)