しょうゆラーメン、500円。 『迷ったらこれ!』店主も勧める定番だ。あっさりとしたスープにほどよい硬さの太麺、厚切りチャーシュー、玉子とメンマがのったシンプルな味。しかしシンプルだからこそトッピング次第でいかようにもアレンジできる。ワンコインから広がる無限の可能性。 とんこつラーメン、580円。 濃厚な背脂と細麺のハーモニー。青ネギと紅ショウガのアクセントが加わってますます風味豊かになった一品。お好みでニンニクを足すもよし、残ったスープにご飯を投入するもよし、ガッツリといきたいときはぜひこちらを。 味噌ラーメン、540円。 懐かしいスープにほどよく絡む中太麺。ドーンとのったもやしの歯ごたえとコーンの甘さ。もはや説明は不要。しょうゆラーメンに惹かれ、とんこつのブームを過ぎ、そしていつか思い出したように食べたくなる約束のラーメン。 ずらっとメニューの並ぶ券売機の前に立つと、いつも迷う。本音を言えば俺が一番食べたいのは味噌ラーメンだ。でも味噌を選ぶにはどうにも抵抗がある。青葉城西高校の制服は白基調、バレー部のジャージに至ってはほとんど全身が白だ。万が一跳ねたら大変なことになる。 となりでさっさと食券を買い終えた岩ちゃんならジャージに染みのひとつふたつあっても泣く女子はいないがバレー部主将の及川徹が同じことをすれば一晩中泣き腫らす女の子がいたっておかしくない。(「ちょっと! 岩ちゃん蹴らないで! ……なに? ヨコシマな気配を感じた? イヤだな岩ちゃん俺はいつでもクリーンだよ、ホントだって」) 渋々と店先のカウンターに座った岩ちゃんにふうと息をつき、入口横の券売機に向き直る。 幼馴染みの岩ちゃんはいつもしょうゆを選ぶ。雨の日も晴れの日もしょうゆ。夏でも冬でも飽きもせずしょうゆだ。服についた染みを落とすのがタイヘンなんだからとおばさんに怒られても岩ちゃんは自分を曲げたりしない。 男なら黙ってしょうゆなのだそうだ。俺だって男だけど全然わからない。味噌もとんこつも塩も食べたい。学校の授業と放課後の練習を終えた帰りでもう腹ペコだ。 ……塩? そうだ、塩も捨てがたい。忘れられがちだけど鶏ガラの染みこんだスープがとてもおいしい。後半のニンニク増し増しは病みつきになってしまう禁忌の味だ。しかも塩ならたとえジャージにこぼれてもほとんど目立たない。サイコー、塩、サイコー。 勢いのまま伸ばされた指先は、しかしボタンに触れる寸前でふと止まる。本当にそれでいいのか? ここで安直に塩を選ぶことは一種の逃げになるのではないか? そんな考えが俺の指を止める。(「アダッ!! 岩ちゃんわかった決める、決めるよもう決めるから殴んないで!」) 手のひらで後頭部をさすりながら、もう片方の手はピッとボタンを押した。塩も充分に魅力的だったが結局は味噌ラーメンだ。 だってどうせこれから岩ちゃんに怒られるのだ。せめてラーメンくらいは好きなものを食べたい。 「味噌ラーメンひとつ。お願いします」 言いながらのろのろとカウンターに食券を置く。ちらりと右を見やって、諦めたように丸イスに座る。 散々迷ったのはもちろんどれを食べるか悩んでいたのもあるけれど、それに加えて岩ちゃんのとなりに座りたくないという気持ちもあった。 「及川。帰り、いつものラーメンな」 部活の終わりに岩ちゃんがぼそっと耳打ちしたときからその機嫌が悪いのはわかっていたし、その理由にもだいたいは心当たりがあったのだ。 カウンターに置かれたコップを俺の前に置き、岩ちゃんはやはり口を開きかけたが、しかしそこでちょうど先に頼んだしょうゆのどんぶりがきた。 「しょうゆラーメン、お待ちどおさまです」 喉の奥で唸るように舌打ちをして、岩ちゃんは箸を取り出しラーメンに向き直る。すこしでも麺が伸びるのは絶対に許せない岩ちゃんだ。食べてる最中にゴチャゴチャ話しかけるといつも怒られる。 俺はすこしほっとしながら自分の分のどんぶりを受け取った。ホカホカの湯気にお腹が鳴るのと、ほとんど同時にいただきますの箸を割る。 待ちわびたひと口目は、空っぽの胃に染み渡るようにおいしかった。 「いつものラーメン」と岩ちゃんが言った最寄駅前のラーメン屋は、決して行列のできる名店というわけではなかったが、くどすぎない味つけでいくらでもスルスルと入ってしまうのが魅力だ。 二口、三口と止まらず箸が伸びる。七月の店内は冷房が効いていたけれどじわじわと汗が浮かんできた。気にせず食べる。小学校の給食でときどき出たのと同じような味がする。 端にのっていたバターをとろりと混ぜるとまた途方もなく幸せな味になる。コーンの甘さが最高に活きてくる。麺をすする合間に食べるもやしがあっさりとしてまたおいしい。 半分ほど夢中で食べたところで、岩ちゃんがどんぶりを大きく持ち上げるのが視界に映った。幼馴染みはもうほとんどを食べ終えている。それが終わったらいいかげん話をしないといけないことは、俺にだってさすがにわかっていた。 岩ちゃんは怒っている。ここ数日の、俺の部活の練習態度に怒っている。態度といっても、べつにやる気がないとかそういうわけではもちろんない。先月のインターハイで白鳥沢に敗れて以来、最後の春高に対する士気はますます上がったところだ。 むしろ、先月のインターハイを終えてから俺のトスが変わったことに岩ちゃんは憤っているのだろう。インターハイ、正確に言うなら烏野高校戦で中学の後輩飛雄と対戦して以降、練習試合でも紅白戦でも、ここぞという場面で俺は意識的に、岩ちゃんにはあまりボールを上げないようにしてた。 あのとき烏野高校に勝てたのは、飛雄が最後のセットポイントをもっとも信頼するスパイカーに託すということが読めたからだけれど、でも二セット目をとられたのは反対に俺が岩ちゃんに頼ることを向こうに読まれたからだ。 岩ちゃんはもちろん俺が誰より信頼する選手だけれど、でもそれは同時に自分の弱さでもあるのだと気づかされた。この先の大会でもしまた飛雄と当たることになれば、――あるいは他の場面でも、その弱さは相手がつけ入る隙になるかもしれない。いくらチームのエースとはいえ、だからこそ肝心のとき岩ちゃんにボールを集めすぎないようにしようと練習をするようになった。 一応岩ちゃんにはバレないようにさりげなくやっていたつもりだったけれど、まあ、気づかれるのも時間の問題だっただろう。一、二週間が過ぎる頃には岩ちゃんは何かおかしいという顔をするようになり、それから数日はイライラしたようすを見せ、そうしてとうとう今日俺をつかまえた。 岩ちゃんは石よりも頑な、しょうゆと決めたらしょうゆで融通の利かない頑固だ。ふたりで何か話をしたいときは決まってこの店を選ぶ。七月でも、外がそこそこに暑くても必ずそう。融通が利かなければ、応用も利かない男なのだ。(たとえば冷やし中華のあるお店とか、ラーメン以外とか、もっといろいろあるだろうに)けれど自分にはないそんな不器用なところが昔から俺は好きなのだからもうどうしようもない。 残りのスープを飲み込んで、ふう、と顔を上げる。それで、と箸を置いた岩ちゃんは言った。 「――それで、及川、どういうことだ」 「どういうことって、」 なにがととぼけようとして、そうする前には無理だとわかってた。超絶信頼関係なんて茶化して言うけれど、実際岩ちゃんに俺の嘘は通用しない。というより、本気でたずねている岩ちゃんに俺はどうしたって嘘がつけないのだ。(きっとそういうところも含めて岩ちゃんは俺の弱みなのだろう)ひと口分残っていたコップの水を飲み干して、それから重たい口を開く。 思っていたことをゆっくりと、ぽつぽつと話すと、岩ちゃんは話が進むにつれて眉間の皺を一本ずつ増やしていった。今にもこいつをぶん殴りたいけれど、場所が場所だからなんとかワキマエています、という顔だ。きっとそういう顔をすると思ったから俺は話したくなかった。 のろのろとした話を終えると、黙って聞いていた岩ちゃんは開口一番、このバカ、と言った。 「バカ、バカ及川、偏差値5、バカ、バーカ」 「なっ!! これでも60はあるよ! 60は! 四捨五入すれば!!」 「うるせえ、お前なんざ3で充分だ」 「下がってる!!」 ハアアア。岩ちゃんは心底呆れたため息をついて振り返る。 「んっとに、バカだな、お前は」 「バカバカって、岩ちゃんさっきからそればっかり、」 「何遍でも、俺を頼れよ」 「!」 不意に低められた声はあまりに真剣で、真摯で、まるで撃ち抜かれたように心臓が大きく震える感覚があった。岩ちゃんは試合のときとおんなじ顔をして俺を見つめている。 「お前がトスを上げるなら、俺は何遍でもそこに跳ぶ。どんな場面でも、そうだ。……それに、相手に読まれたって止められないように、――お前にもう弱みなんて言われねえように、俺は強くなってやる」 二度 、三度とまばたいて、それからふ、と思わず?が緩む。 「んだよ、人が真面目に話してんのに」 「うん、いや、――ううん」 ごめんねと言いながら、ひとりで抱えていたことはもうひどく馬鹿らしことに思えていた。 岩ちゃんは、融通が利かなくて、応用も利かなくて、とびきり頑固だけれど、こうと決めたらこうする男だ。しょうゆと決めたらしょうゆ。今の言葉もだからおんなじだ。岩ちゃんは俺に言ったことを必ず守る。これだからこの人は信じられる。 この人ばかりを頼っちゃいけないと思っていたさっきまでの俺は、岩ちゃんのことを信じていなかったのとおんなじだ。 「ごめんね、岩ちゃん」 もう一度くりかえすと岩ちゃんはそこまで怒っちゃいねえよと戸惑ったけれど、それからふと言葉の意図を汲んだように俺のおでこをピンと弾いて、これでチャラだと短く言った。 重たい話なんて何事もなかったように替え玉を注文する横顔を眺めながら、嬉しくて、ほんのすこしだけ、泣いた。 +++ 劇場版を観に行ったらこんなようなことを思ったので落書き (2015.0928) |