それは、いったいいつの記憶だろう。

キュ、キュ、とシューズの音を立ててコートを駆ける幼馴染をそとから眺めながら、ひとりぼんやりと考える。

幼馴染、岩ちゃんとは幼いころから高校三年のいままで、進路を違うことなくずっと一緒に過ごしてきた。とおるちゃんとはじめちゃんといえば幼稚園ではいつも仲良しの二人組だったし、小学校から上に行ってもほとんどそれは同じ。俺がバレーを始めたら岩ちゃんも一緒にやってくれるようになったから休みの日もたいていはクラブで一緒で、中学高校は当然のように二人でバレー部に入った。そうして高校三年に上がった今も打倒白鳥沢を掲げてふたり歩んでいる。

だから俺のそばに誰より長くいたのは岩ちゃんだし、岩ちゃんにとってもそれは同じことだとおもう。思い出はおもいだすのが大変なくらいにたくさんあるし、それくらいの時間をふたりで重ねてきたはずだ。

けれど、とときどきよぎるのだ。
暗い夜に岩ちゃんを探した、自分の部屋でその身体を抱いた、あるいは病室で約束をした、そんな記憶がよぎっては消える。岩ちゃんと学校に向かう朝、教室のうしろの席からその寝顔をぼうっと眺めているとき、あるいはなんてことのないラインを送った夜、ふとしたときにそれは思い出されるのだ。果たしていつのものなのかはわからないけれど、悪い夢を見たにしては生々しすぎるからやっぱりそれはいつかの現実なのかもしれない。そう思ってはそんなのありえないと頭を振る。

そんなことをいつからかくりかえしていた。くりかえすうち、なんだか岩ちゃんが自分からひどく遠ざかっていくような気がしていた。岩ちゃんはいつだって俺の知っている岩ちゃんで、今だって同じ目標に向かっているはずなのに、むこうのコートで練習にふける岩ちゃんは、ずいぶんと俺から遠いところにいるように見えたのだ。

「……さん、及川さん、」
「え?」
「つぎ、俺たちむこうのコートです」

呼ばれて振り返れば、後輩の影山トビオがとなりのコートを指でさしていた。ああ、とおざなりにうなずいて足を向けると、トビオは嬉しそうに俺の後ろをついてくる。

中学のころ同じバレー部で散々いじめてやったからてっきり俺のことを嫌っているかと思えば、「及川さんのバレーは好き」なのだそうだ。もっと厳密に言えば、及川さんのバレーは自分が吸収できるものが多いから好き、だろう。そういうところが生意気だし可愛くないから俺は嫌いだ。(だいたいそれって性格は嫌いってことかよと睨んだら素直にハイとうなずくあたりも特に嫌いだ)

けれどそれでも同じチームで白鳥沢に勝つためには必要にちがいないから練習は一緒にする。数ヶ月前のインターハイの時点ではトビオはまだ控えのひとりだったが、同じ一年の日向との連携や、セッターを二人投入したときの攻撃力を考えて春高の予選ではスタメンの候補に挙がっていた。だから必然、俺と練習する時間も長い。その日の部活もほとんどはトビオとタイミングを合わせるので終わって、岩ちゃんはまだ練習していくというので俺は先に帰る。

終わるまで待ってるし、なんなら一緒に付き合うと言ったのに岩ちゃんは「お前はちゃんと帰って休め」の一点張りなのだ。(自分だってこのごろ練習ばっかりのくせに)

きっぱりフラれてむしゃくしゃしたのでその日はめずらしくトビオと帰ることにした。帰り道で生意気な後輩にねちねち嫌味でも言えばすこしは気が晴れると思ったのだ。でも全然期待はずれだった。

「及川さんが部活以外で声かけてくるのめずらしいっスね」

トビオはそう言って喜ぶくらいの単純だった。いつもなら眉をひそめるはずの嫌味も悪口も、だから今日はほとんど喰らっていないみたいだった。まったく何も面白くない。あんまりつまらなかったので道の分かれる交差点で八つ当たりにキスをした。トビオは真っ赤になって黙り込んだのでほんのすこしだけ気が紛れた。人気のないその場所で唇を拭いながら、なんだか前にもこの場所で誰かと同じことをしたような気がしたけれど、思い出そうとすればそれは途端にうすぼんやりとして、誰とだったかは結局わからなかった。


それから俺がトビオを選んだことに、なにか特別な意味はなかっただろう。しいていうなら、そのときたまたま近くにいたから。御しやすそうだったし、後腐れもなさそうだとおもったから部活のあとはときどき一緒に帰って、てきとうにからかって好きなように使った。

ときおり思い出せそうで思い出せない記憶に俺はイライラしていたから、憂さを晴らすのにもトビオはちょうどよかった。好きだと心にもない嘘を適度についておけばトビオはばかだからそれを信じたし、気が向かないときは放っておけたから楽だった。

それに、――どうしてだろうか。俺にはなぜだか、そうしないといけないような気がしたのだ。岩ちゃんとのいつかわからない思い出がよぎるのと同じように、その予感はたびたび俺の胸を衝いては他人に触れさせた。そうしてそれは練習で岩ちゃんにトスを上げるたび、あるいは俺のボールを岩ちゃんが決めるたび、不思議とすこしずつ大きくなっていく。

自分でもまるでわけがわからなかったが、とにかく月末の試合に向けていかないといけないから練習をこなして、それからなにか義務感に駆られるようにしてトビオを誘った。

岩ちゃんはあいかわらず熱心に居残りをしている。俺と今度こそ因縁の相手を倒すために、チームのためにそうしていることはわかっているのに、なんだかますます俺から離れていってしまうようで不安だった。

不安を打ち消すようにまた練習に打ち込んで、毎日ひたすらにボールを上げて、とうとうやってきた決勝の日に、――そうして俺はすべてを知ったのだ。

それは、初めて白鳥沢に勝利した日だった。何十回、何百回とくりかえして、トビオちゃんがやってきてチビちゃんがやってきて、ようやく手にした勝利だった。途方もないとしつきをかけて俺たちは、俺と岩ちゃんは牛島に勝ったのだと俺にはわかった。試合を終え、主将の挨拶を済ませて裏の廊下でせがむトビオにキスした瞬間のことだ。

岩ちゃんがそれを見ていたのは知っている。岩ちゃんのずしずし言うあしおとが俺は大好きだから。知っていて見せつけたし、見ているとわかっていたから思わず頬がゆるんだ。

俺はこの瞬間を岩ちゃんに見せるためにトビオとこうなったのだとそのときにはもう理解していた。朧な記憶はこれまで何度もループを続けてきた岩ちゃんとのもので、俺がトビオにキスをしたのはだってこのループを終わらせたくなかったから。

岩ちゃんとずっと一緒にバレーを続けたかったから。

目的と手段は、きっといつからか逆転してしまっていたのだろう。初めはたしかに白鳥沢に勝つためのくりかえしだった。でもくりかえしているうち俺は岩ちゃんといつまでもバレーを続けられる幸せを手放せなくなっていた。岩ちゃんとするバレーが好きだった。岩ちゃんが好きだった。それだけだった。

「おまえのこと利用してごめんね」

トビオにはそう言ってひとり岩ちゃんのあとを追いかけた。どこにいるかはもうわかっている。

途中の自販機で岩ちゃんの好きなペットボトルを一本買って、ふたりで何度も飛び込んだ、何回もキスした交差点に向かってあるく。

岩ちゃんが起きてこないから初めてひとりで先に出た十月二十七日の朝はひどく不安だったのに、つぎの周ではきっとまたふたりで行けるんだろうと来た道をもどるときにはひどく安堵していた。


「どうしているんだよ」

日が暮れて薄暗い交差点に着くと、岩ちゃんは掠れた声でそう言った。きっと俺のために泣いていたんだと思ったらつい笑みがこぼれて、となりに座りながらポカリスエットを渡してあげる。

探していたんだとてきとうな返事をして、それからふと思い出したように以前の周で言ったことをもう一度口にする。

「ひとりで悩んだりしないで」

ほんとうは、それを言ったときのことも全部覚えていた。けれどたずねる岩ちゃんには知らない顔をして、かわりにつぎの周への言葉をつづける。

「今度は岩ちゃん、自分のために、好きなようにしてよ」

そう言えば岩ちゃんが俺を手に入れるために、俺を取り戻すためにまた時間をくりかえしてくれるとわかっていた。そうしていつまでも俺と一緒にこの時間を、バレーを続けてくれると知っていた。

「岩ちゃん、ずっと一緒だよ」

いつか言ったその言葉は俺の呪いで、そして願いだ。
キスをして、何度目かわからない光に飛び込む岩ちゃんの背中をながめながら、俺はうっとりと微笑んだ。








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0510青城オンリー無配より再録
この話で終わりです
(2015.0724)