梅雨入りというにはまだ早く、六月の初めの乾いた風は窓から吹き込んでさらさらと教室のカーテンを揺らしている。遠くでは運動部のにぎやかな練習の声が聞こえ、空は雲ひとつない晴天だというのに俺は放課後の教室に居残りだ。ハアとため息をついて窓辺から視線を落とすと、前の席に座って俺の机に頭をのせた及川はダメだよおと指を振った。

「だめだめ岩ちゃん、岩ちゃんは俺とちがって控えめな顔面偏差値なんだから、ため息なんてついて幸せまで逃げたらますます女の子逃げちゃうよ!」
「おう、クソ川オメーやかましいから先帰っていいぞ」
「ぁだッ……! いいぞって言いながら左手が全然帰すつもりないよね?! いだっ、だだだ岩ちゃん、ほっぺのびる、のびっ、う゛っ」

及川はあいかわらずひとりで騒がしかったがまあいつものことなので俺は気にせず手元のプリントにシャーペンを走らせた。つい数日前まではインターハイの練習で体育館に詰めていたので英語の課題がすっかりギリギリになってしまっていた。英文法の先生に頼みこんで伸ばしてもらってようやく放課後中の提出に伸ばしてもらったところだ。

面白がって残っていたクラスメイトの何人かも俺たちふたりを残してもう帰ってしまったし、さっさと終わらせてしまおうと英文の続きを和訳する。

「岩ちゃん、それ単語じゃなくてこことセットで構文になってるからこっちの意味だよ」
「そうなんか」
「そそ」

幼馴染の及川はふざけた顔と性格をしているが一応勉強はできるのでこういうときは便利だ。(顔も性格もイケメンだよと主張が激しいがちょっと言ってる意味がわからない)どのみち月曜でお互い部活もなく、ちょうどいいからと居残りに付き合わせた。おかげでA4のプリントもあともうすこしだ。

帰りにアイスの一本くらい奢ってやってもいいななんて考えていれば、ふわりと初夏の風が舞いこんで気持ちよさに思わずあくびが出た。ふあああ、大きくひとつやって、すこし迷い、それから頬杖をついて目を瞑る。

教室の外から見ればそれはきっと、課題に飽きてうたた寝をする生徒にでも見えるのだろう。
でも実際はそうじゃない。

「――岩ちゃん、」

さっきまでふざけていた及川の声はワントーンほど低く、わずかに緊張を孕んで俺を呼んだ。試合中に聞く真剣な声ともかすかにちがう声音は確認をするようにほんのすこし間を置き、それから沈黙の肯定を受けとって俺に手を伸ばす。

数週間ぶりにそうするせいか唇にふれた感触ははじめ戸惑っていたが、そのやわらかな気持ちよさに馴染んでからはちゅ、ちゅう、と次第に欲しがるようなそれになった。愛おしむように角度を変えられると心地よさに背中が粟立ち思わず目を開けそうになるけれど、そのたびにぎゅ、と瞑って及川の好きにさせる。岩ちゃん、岩ちゃん。及川の掠れた声は何度そうしても足りないというように切羽詰まって、耳元で俺を呼んだ。


及川とはじめにこういうことをしたのは、やはりふたりで宿題だかなんだかをしていた高一の夏だ。及川の部屋でちゃぶ台を広げて向かい合い、たしか俺たちはいつものように他愛もない話をしていただろう。どんな子が好みだとか、そんな話題だったように思う。

「でもやっぱり岩ちゃんはけっきょく俺の顔がスキだよネ」
だとか及川がアホなことを言ったので、俺はそのデコを思いきりハネたのだ。

「いたいッ! ヒドイ! 岩ちゃん、ヒドイ!」
ヒドイ、ヒドイ。俺よりもデカい図体して及川はあんまり拗ねる。だからすこし静かにさせようと思ってなんとはなし、軽い気持ちでぽんと言った。

「まあでも俺、おまえの声は好きかもな」

さして深い理由はそこになかった。国語の朗読をする真面目な声だとか、試合中の真剣な声音、あるいは朝起きたばかりのぽやんとしたまぬけさ。そういうのは、わりと好きかもしれない。それくらいのことだったのだ。けれどつかの間まばたいた及川はやがて、ふと微笑んでじゃあといった。

じゃあ、――じゃあさ、岩ちゃん
「目を瞑ってるあいだだけ、俺の恋人になってよ」
そういって、その掌で目隠しをして、及川は俺の頬にくちづけた。左に熱いものが触れ、
「……岩ちゃん」
特別にひそめられたその声で真っ赤になったそのときから、『目を瞑ったあいだだけ恋人同士になる』俺たちの歪な関係は始まったのだ。



す、と離れる気配があってゆっくり目を開けると、身を離した及川はもうさっきと変わらない普通の表情で、自分のシャーペンをくるくると弄んでいた。ほんのすこし前までの熱はその顔色からすっかり引いていて、ただ俺の心拍数がほんのすこし早いばかりで、だから目を開けるこの瞬間が俺はあまり好きじゃない。

唇を噛んで頭を落ち着けていると、廊下を二、三人の女子が行き過ぎてこちらにきゃあっと華やいだ悲鳴をあげた。前の席で優雅に脚を組んだ及川はニコニコとそちらに手を振っている。センパイとかいう声が聞こえたからおそらくは下級生の女の子だろう。上履きの音がきこえて及川は俺を離したにちがいない。そんなことにも気づかず没頭していた自分がますます恥ずかしい。

気まずさをごまかすようにシャーペンの芯をゴリゴリとプリントにぶつけると、及川は
「あついねえ」
と言って透明の下敷きを扇いだ。



***



パキリと前歯で噛めば氷がキンと冷たく、安っぽいソーダの甘さはいつの間にか乾いていた喉に気持ちいい。初夏の下校路をゆきながら食べる棒アイスは格別だ。課題を手伝った礼にと岩ちゃんが割って半分くれたダブルソーダは格別の格別だ。最寄駅すぐのコンビニを出て、アイスが汗をかいてしまわないようにふたりで食べあるく。

先週までは部活のインターハイがあったからこんなふうにのんびりするのは久々、ジャージでなく制服で帰るのもいつぶりだろうか。夏服に改めた薄いワイシャツは国道線を時おり車がゆくたび涼しくて、川辺に緑の繁った北川の町にはすっかり初夏の匂いがしていた。これからすぐに梅雨がくるなんて嘘みたいな晴れ空のした、今日は気持ちがいいから住宅街行きのバスにも乗らずに岩ちゃんと下道をいく。

岩ちゃんは俺がソーダの半分を食べるころには一本を終えて、もう袋に棒をしまうところだった。この人は昔から冷たいのも熱いのも食べるのが早い。ちらりとこちらを見て
「おい、溶けンぞ」
といちいち心配するのも昔っからだ。(でも他の人にはここまで世話焼かないってことも俺は知ってる)思わずデレッとしていればそんな俺に苛立ったのか手首をつかんでバクリとひとくち奪われた。

「! っちょ、岩ちゃんヒドくない?!」
「るせえ、おまえがちんたらしてっからだ」
「でもさあ〜〜?!」
「ほら、溶けるって」
「……うう」

これ以上やられないように道路側を向いていそいそとアイスを食べながら、内心つかまれた左手首がすこし恥ずかしかった。岩ちゃんはときどきこういうワイルドなことやらかすので心臓にわるい。俺が女の子だったらこんなの一瞬で恋していた。(いや今だって充分してんだけど)

味もよくわからないまま水色の氷を口に放り込んでふうとひと息つくと、信号で立ち止まった岩ちゃんはぼそりと、
「及川、ジャンプ読んでくか」
さっきの自然さとはちがうかすかな遠慮を含んだ声でいうので、俺はちらりと横目でうかがってウンとうなずいた。返事を聞いた岩ちゃんの左手はわずかに力を込めてコンビニのビニール袋を握り直していて、あんな風に気軽に人のアイスを奪えるくせに今さら自分の部屋に呼ぶのに緊張しているのがなんだかアンバランスだ。

それにしても、思わず頬がゆるむ。ジャンプスクエアに移ってしまった俺が月曜のジャンプはあまり読まないって知ってるくせに、飽きもせず同じ言葉で誘う単純なところがかわいい人だった。




二階の岩ちゃんの部屋に上がると勝手知ったる俺は窓辺のベッドに寝そべり、岩ちゃんはいつものようにポットに入った麦茶を持ってきて俺のお尻をクッションにして座る。

子どもが大きくなって好きなパートに出るようになった岩ちゃんちのおばさんは家を空けていることが多いからいつもたいていふたりで気楽だ。西日が差して暑ければ窓を開け、それで足りなければ足元の扇風機をつけて首を回す。

腰かけた岩ちゃんがペラペラと今週のジャンプをめくり、俺は横からなんとなくそれをのぞく。岩ちゃんがときどき肩を揺らして笑うたびのぞきこみ、ちょっとエッチなページでその顔色を見上げて怒られ、あるいは及川これ、と見せられた大ゴマで爆笑する。なんてことないけどそういうのが楽しい。

銀魂終わりそうだよねとか新連載のなにがおもしろそうだとかそんな話をだらだらとして、コップについだ麦茶を二、三杯空けるころ、ジャンプを閉じた岩ちゃんはだらりと俺の肩にもたれてふうと息を吐く。ベッドの上で寝転んだり座ったりを繰り返して、いまはふたり並んでかけていた。

「及川」
「ん」
「すこし寝るから」
「ウン」

てきとうに起こして。言い残して岩ちゃんは身体の力をすうと抜く。俺は後ろから手を回してその頭をそっと撫でた。目を瞑るこの人は俺の恋人。瞑っているあいだだけは俺のものだ。

「岩ちゃん、大好き」

ささやくとすぐそばの耳はぴくりと震えて、頬にはかすかに赤みがさした。岩ちゃんはこのときの顔がとてもかわいい。

あの気の強い岩ちゃんが、俺に触れられるのを黙って待っているのだ。堪えるように太い眉をぎゅっとよせ、幼い頃のかくれんぼで一緒に隠れたときのように、オニに見つからないようぎゅーっと自分の目を瞑って、けれど落ち着かないまつ毛をそわそわとさせて、岩ちゃんが俺を待っている。

思わずしばらくうっとりと見つめて、それから身をかがめてちゅっとキスをした。ん、と短い声が漏れる口をふさいで、わずかに強ばった身体を抱き締める。がっしりと筋肉のついた身体はどこもかしこも硬いのに、触れ合ったそこだけはふにふにとやわらかいので不思議だ。岩ちゃんはすこし汗っぽくて、石鹸と太陽の混じったような健全な匂いがした。

「岩ちゃん、好き、岩ちゃん、」

教室ですこししただけは足りなかった分をとりもどすように、何度も何度もキスをする。岩ちゃんの唇は俺が知ってるどんなものよりもおいしくて、どんなことよりも気持ちがいい。ちゅう、とやるたび背すじが震えて、この人のことをまた好きになる。

歪だけれどこんな関係になれたのは行幸だ。本当は子どものころから俺の世話ばかり焼く岩ちゃんのことがずっと好きだった。

こうなった初めはほとんど冗談のつもりで、しかしどこか祈るような思いで目隠しをしてくちづけたのだ。いつものようにふざけんなと岩ちゃんが殴ってくれれば、それはいっときの冗談で済ませることができたはずだった。けれど岩ちゃんが真っ赤になって黙り込んでしまったのでそれから続いてしまった。

「ん、んん、ふ、……」

すこし欲が出て舌を入れると、岩ちゃんは途端に声をもらしはじめた。寝るって言ったくせに、抱き締めた心臓はバクバクと脈打っているのがよくわかる。ちらりと見下ろして、俺は腕の力をふとゆるめた。差し入れた舌をふと抜いてもう一度、ちゅ、ちゅと小鳥みたいなキスをする。制服の上からわかるていどに岩ちゃんは反応してた。本当はこれ以上のことをしてやりたいけどきっとそうすれば驚いた岩ちゃんはその目を開けてしまうだろう。そうしたらようやっとつかんだこの関係もなんだか終わってしまいそうで、だから俺にはこの先が踏み出せなかった。

それにこうしている今だって俺にはわけがわからないくらいに幸せなのに、それ以上を望むなんてどうしたらできるだろう。

名残惜しくしばらくくりかえして口もとをぬぐい、俺は岩ちゃんの身体をはなして先ほどのように肩にもたれさせた。幾度か深呼吸をして、そうして、ゆっくりとくちをひらく。



「……岩ちゃん、おはよう。すこしは寝られた?」



目を開ける瞬間ほんとうは、いつもほんのすこしだけ期待する。
目蓋を持ち上げたそのとき、そこにいるのが恋人だったらいいのにと、ばかみたいに何回でも、祈る。

けれど目を開けるとそこにいるのはやはりいつもの幼馴染の及川で、俺の視界はじわりとゆがむのだ。

『岩ちゃん』

それはさっきまでとおなじ声のはずなのに、しかしどこかが決定的にちがっていた。幼馴染の及川は決して俺を好きだとは言わないし、切羽詰まったように、愛おしむように俺を呼んだりはしない。

問いかけにおうと短く答えてごまかすように伸びをしながら、俺の顔はきっと笑ってしまうくらいに赤いだろう。何事もなかったような顔をしているのはいつも及川だけだ。あるいは本当に、及川は冗談の延長でこんなことをしているのかもしれないけれど、それを聞いてしまえばこの関係が終わってしまいそうで俺にはできなかった。

今だって夢を見ているみたいに幸せなのに、目を開けているあいだも恋人でいてほしいなんていったいどうしたら言えるだろう。ため息をついて俺は及川にもたれた。

明日も明後日も、きっと俺は目を瞑る。そうしてまた飽きもせずに祈るだろう。


いつかふたり、見つめ合えたらどんなにか






(2015.0605)