※このお話は ・春高青城戦終了までのネタバレがあり、 ・パラレル要素(ループ要素)を含みます ・一部に匂わせる程度の性描写(及岩)、怪我の描写、影及の要素があります いずれか苦手に思われる場合は閲覧にご注意ください※ 目蓋の奥、キラキラ、キラキラ。まだ、光っている。 高校バレー最後のあの日の一球。目を瞑れば、それはいつだって鮮烈にあらわれては俺を射抜く。 俺が最後まで決めていれば試合の変わっていた一打だった。セッターの及川がまっすぐに俺を指名した一球だった。俺たちの運命が、捻じ曲がった一瞬だった。 1 「……っはァ、はっ、」 十一月の仙台はしんと空気が澄んで、吹き始めた夜風もすっかり冷たかった。Tシャツのうえに長袖のジャージを一枚羽織ってときどき流れる汗を拭いながら、国道沿いをひとり走る。 春高バレーが終わってから、ロードワークが日課になった。バレー部の練習にも今までどおり顔を出そうと思えばいつでも出せたが、形式上一応俺たち三年は部を引退した身分だ。これから一、二年生中心になってチームをつくっていくこの時期に何度も体育館へいくのは気が引けて、かといって何もせずいるのはどうにもたまらないから走りに出た。 あの日から、いつもなにかに駆り立てられているようだった。 走らなければいけない。走り続けていなければならないという焦燥がいつもどこかにあった。大学受験に向けて本格化していく授業を受けるあいだも、担任の教師が推薦やら受験やらの話をしているときも、どこで何をしていても、衝動はいつだって俺の腹の中で暴れていた。 右、左、右。突き動かされるように手足を前に出して、もがくように、抗うようにひた走る。数十メートルごとに外灯があるだけの夜道は薄暗くおぼつかなかったけれどべつにどうでもよかった。幼馴染の及川と夜走るときはすこし遠回りをしていつも明るいほうの道をいくが、今は自分ひとりだ。 及川とは時折り一緒に走って、毎日こうしていることは告げていなかった。教えれば一緒にいくと言い出すのは目に見えていたし、今の俺にはそうする自信がなかった。及川が俺のことを責めていないのは誰よりわかっていたが、俺はどうしても自分が許せなかったのだ。何百何千と打ってきた及川のトスの中、その最高のボールを決められなかった自分が悔しかった。及川の顔を見ると、その後悔と悔しさはたまらなく強くなる。 「はあ、っふ、はあ、」 息が上がって、肺はほとんど感覚を失っていた。いったいどれくらいのあいだ走っていたのかわからないが、おそらく二、三時間はとうに過ぎているだろう。それでも足が止まってくれないのだから、走り続けるほかにない。及川のあのトスを打つために、今度こそ白鳥沢、――牛島に勝つために、俺はそうしなくちゃいけないのだ。 でも、「次」って、いつなんだ? 走り続ける俺の頭に、一点の疑問が浮かぶ。足が震えて、転びかけたのを寸でで堪えた。一度芽生えた疑問は、けれどとまらずに俺を責める。 「次」なんて、ほんとうにあるのか? 大学にいって、またちがうチームで、機会はあるかもしれない、でもそのとき、及川はあのトスをまた俺に上げてくれるのか? 及川はまた、俺を選んでくれるのか? (うるさい、黙れ、黙れ!) かき消すように、逃れるようにひた走った。まとわりついてくる夜の闇から、縋りついてくる疑問から逃げるように光を目指して俺は走った。あのつぎの信号を渡ればそこにはもうすぐ家だ、帰ってさっさと寝ちまえばもうこんな夜も終わる。 そう思ってたどりついた交差点に、あいつはいた。 こんな遅くに、買い物に出るつもりか何か、いつものジャージを着て、いつもの顔で、及川はそこに立っていたのだ。 なんで、どうして、たずねる前に及川は俺に気づいて近づいてくる。 「岩ちゃん! よかった、……」 そのあとに及川がなんとつづけるつもりだったのか、俺にはわからない。 車通りの少ないはずの交差点に、こんな夜に走ってきたトラックを見るなり俺は飛び出して及川を突き飛ばしていた。身体にはドンと何かが触れた気がして、それから、ひどく遠くで、キキィとブレーキのかかる音がきこえる。 及川は無事だっただろうか。それだけを思ってぼんやりと目を開ければそこにはキラキラと光るライトがあって、まるであの日のボールみたいだとおもった。 2 「ぃっ、……てえッ!」 ガン、と鈍い熱が膝に走って、俺は痛みに気がついた。何が起こったんだとまばたけばそこには硬い渡り廊下の床と、見慣れた練習着のTシャツがある。 (……あれ?) どこか違和感を覚えながらいつのまにか床についていた手を持ち上げると、 「大丈夫?」 となりからはスッと伸ばされる助けがあった。ああ、わるいな、言いながらつかまって立ち上がり、それからハッとする。 「及川、おまえ、無事だったのか!」 「へ?」 目の前にはいつものジャージを着た及川が、きょとんとまぬけヅラをして立っていた。 (よかった、無事だった、及川は助かったんだ――!) ほっとして、ほとんど反射的に抱き締めていた。くるんと跳ねたくせ毛は頬に当たってくすぐったかったが、それでも今は親友の無事がただ嬉しい。 「ちょ、ちょっと岩ちゃん、急になにすんだよ、」 及川はおどろいたような声を上げたけれど、俺は気にもせず骨ばった身体をぎゅうぎゅうと抱いた。女みたいにきれいな顔とは反対にしっかりと筋肉のついた身体は、すこし汗ばんで火照っている。 (……汗?) あれ、と思って顔を上げた。十月の終わりの仙台は、こんなに夏の空気を残してはいなかったはずだ。身を放し、渡り廊下の廂を出て空を仰げば真上では冬の入り口と思えない太陽が照らし、そういえば俺自身もかるく汗をかいている。どうしてだろう、考えこんでいると背後の及川にぐいと腕をつかまれた。 「もう、岩ちゃん何ふざけてるのかわかんないけど、さっさと練習行くよ。ほら、」 「え? お、おお?」 引きずられるまま体育館に行って、俺は思わず目を見開いた。 四面のネットが張られたコートには同じ部活のチームメイト、それからOBの大学生たちの姿がある。たしかに春高予選の前にはときおり練習に付き合ってもらったが、それ以降は向こうにも練習があるからと申し込みはしていなかったはずだ。というかそもそも、俺たちはもう部活を引退したんじゃなかったのか。 混乱はぐるぐると頭をめぐったが、コートのかたわらに立つ入畑監督は俺たちを見つけると次のセットに入れ替わりではいるよう言ったので二人でチームに合流する。 とにかく部活が終わったら及川に話をきこう、それだけを決めて俺は練習に集中した。じっさい春高以来ボールに触れるのは久々で、及川の上げるトスを打つのはやっぱり、泣きそうになるくらい幸せだった。 「岩ちゃん、今日はずいぶん調子がよかったね」 片づけと挨拶を終え、着替えを済ませた他の連中を先に部室から帰すと及川はにこにこしながら言った。そのとなりで、俺は部誌を開いたまま先ほどから固まっている。 九月二十五日。春高の県予選の、ひと月ほど前の日付で日誌は止まっていた。毎日最後に残って二人で書いていたはずなのに、それ以降の書き込みはぴたりとない。 「及川、今日、何日だ」 たずねる声はかすかに掠れていた。パイプイスに座っていた及川は不思議そうに俺を見上げ、 「二十六でしょ」 当たり前のように澱みなくいう。 「二十六って、九月のか」 「? そうだけど、……岩ちゃん、どしたの? 疲れちゃった?」 及川は立ち上がり、俺の顔をのぞきこんでたずねたが俺は返す言葉を見つけられずにいた。 (だって、こんな、ありえないだろ) ついさっきまでは十一月だったはずなのに、これはもしかして夢だろうかと思って及川の頬をつねったが本気で痛そうにしているからおそらくそういうわけでもない。(なにすんのサ! と怒られたが自分の顔で試すのは痛いからいやだ) ひとりでじっと考え込んでいると、ほったらかしにされた及川はブスッとした顔で不意に俺の肩をつかむ。 「? おいか――ッ?!」 わまでは言い終えずに突き飛ばしていた。ガン、と鈍い音を立てて及川はロッカーにぶつかり、ひどく驚いたような顔で俺を見る。でも驚いたのは俺のほうだ。だって及川は急にキスしようとしたのだ、冗談や悪ふざけでも、そこまではするやつじゃなかったのに。 なんで、と先に言ったのはけれど及川だった。 「岩ちゃん、なんで? いつもならさせてくれるじゃん」 「いつも?」 「みんなが帰った後ならいいって、言ってくれたでしょ」 そんな覚えはまるでない。かといって及川がふざけているようにも、嘘をついているようにも見えなかった。 (いったい、どういうことなんだ) 日付のことも、及川の行動も、まるで意味がわからない。自分の頬もつねってみたがやっぱり夢じゃない。 混乱になにも言えずにいると、及川ははあとため息をついた。 「いいよ。何があったのか知んないけど、岩ちゃんが嫌ならしばらくはしない。……今日は、もう帰ろう」 「……すまん」 その日の日誌は及川が短く書いて、ほどなくして俺たちは部室を出た。外に出ると夜はまだ寒いというには早く、やはりかすかな夏の名残がある。鞄に入っていた携帯を開いてみてもやはり日付は及川の言ったとおりで、今日が九月二十六日というのはどうやら揺るがない事実だった。西暦まできちんと見たのだから、もう、ごまかしようもない。 俺は、一ヶ月ほど時間を遡っているのだ。どういう理屈かわからないがそのことははっきりとわかった。 そうしてわかったことといえばもうひとつ、俺と及川は、どうも付き合っているらしいということだ。 「ああいうことって、いつからしてるんだっけか?」 帰りのバスの中で平静を装ってたずねれば、及川はちらりと俺を見て中三からだと言った。 「中三の夏に俺から告ってそんときしたじゃん」 人目を気にするように小声で続けられた言葉は正直まったく身に覚えがなかったが、及川の言うことならそれが嘘かどうかは判別がついた。つまり俺たちはほんとうに中学三年から恋人同士なのだ。 俺はひと月を巻き戻った世界で、及川と付き合っている。 家に帰るまでにわかったそれが事実だ。このあたりですでに普段使わない頭を使いすぎたせいで頭痛が痛かったが、幸いなことに家族にはこれといった変化はないようなのでほっとした。夕食を作って待っている母親も、俺のすこし後に帰宅する父親も、上京している姉ちゃんのようすも一応聞いたがこれといって変わりはなかった。付き合っているということをのぞけば、風呂を上がった頃に及川から送られてくる他愛のないラインもいつも通りのことである。 部屋にあった学校のノートはひと月前の内容で止まっていた。ぐるっと見回してみたけれど、一ヶ月ばかりのことなので自室の風景自体はそれほど変化がない。しいていうならジャンプが何冊か少ないなというくらいだ。 そこまで調べ終えるころには、慣れない混乱の連続でもうすっかり疲れ切っていた。窓辺のベッドに倒れこむように横になり、目をつむると途端に眠気がやってくる。 起きたらいったい明日がどうなっているのかすこし怖かったが、結局「ただの九月二十七日」がきて、朝練の目覚まし時計に叩き起こされただけだった。 「岩ちゃん、おはよ」 朝六時、ジャージに着替えて家を出ると、門の前では及川が待っている。(これは、いつものとおりだ)はよ、と返して並んで歩き始めると、及川はちらりとこちらを気にしながらそっと俺の手をつかむ。(これは、いつもとちがうところだ)思わず肩が震えたが、振り払わずに黙って坂道を下る。 おそらく、及川の知る以前の俺はこうしていたのだろう。急に態度が変わったら及川は昨日のように驚くだろうし、不審に思うにちがいない。どうしたのと聞かれたところで、俺は一ヶ月後からきた別の「岩ちゃん」だなんて言えるわけもない。それならとりあえずそのまま合わせておいたほうがいいだろうと思ったのだ。 昨日のこともあってか及川はこわごわ触れているようだったが、俺がほどかないとわかると嬉しそうに何度も握ってきた。早朝の田舎道で、駅前に出るまではほとんど人もない。これくらいなら、まあいいか。以前の俺も、あるいはそんなふうに思っていたのかもしれなかった。 学校についてしばらく俺は周りのようすを見ていたが、どうやら記憶との大きなちがいは、及川との関係性くらいのようだった。 部室の鍵を開けると一番にやってくる勤勉な渡も、そのあとにぞろぞろとやってくる松川たちチームメイトも、時間ギリギリに体育館に駆け込んでくる国見もいつものとおり。約一時間の朝練も、とくに変わったところは見られない。 「今日はベルサイユ条約の話からはじめましょう」 先生は平然とひと月前の授業をし、クラスメイトもまるで普通の顔をして俺を取り囲んでいる。三、四十人近くのいる教室でなんだか自分だけがちがっているようで空恐ろしい気持ちもあったが、反面、いまの状況に順応し始めている自分もたしかどこかにあった。 だって、俺と及川はまた一緒にバレーができるのだ。どうしてこうなったかはわからないが、俺たちは春高バレーをもう一度やり直せる。今度こそ及川のトスを打って、因縁の白鳥沢に勝つチャンスがある。及川のために、俺はまだバレーができる。 とにかくそれだけ呑み込めればあとのことはかまわない。 数日が過ぎるころには、俺は二周目のこの世界に順応していた。(混乱する頭を整理するように以前のことは一周目、今の毎日のことは二周目と区別するようになっていた) 二周目の及川は一周目と同じくらい遅くまで毎日練習し、そうしてそれが終わると一周目とはちがう手のひらで俺に触れる。しばらくはしないといった言葉を及川はたしかに守ったが、一週間が過ぎるころには部員のいなくなった部室でキスされるようになっていた。 「……っふ、は、」 「岩ちゃん、やっぱりいや?」 「ん、んん……」 思っていたほど、嫌ではなかった。正直な気持ちを言えばそんなところだろう。初めのうちは不審がられないようにと黙って目を瞑っていただけだったが、毎日されているうちに麻痺した頭はすこしずつそれに慣れていった。唇を離したあと、及川がいつもとろけそうに幸せそうな顔をするのもきっと理由だろう。バレーだって幼馴染のとおるが楽しそうにやっているから始めて、俺がトスを決めるとこいつが俺より嬉しそうに喜ぶから好きになった。昔からこの顔に俺はめっぽう弱い。 学校に行って、バレーをして、キスをして、メシを食って寝てまたそれをくりかえす。 十月半ばの中間テストは二回目で、初めてすこしだけ得をした気分になった。けれどテスト期間は早めに部活を切り上げて全員帰されるから、結局はたいしたプラスでもないのかもしれない。 テスト三日目にはすっかり飽きていて、勉強を放り出して走りにでもいこうといえば及川は目を丸くして岩ちゃん今回はずいぶん余裕なんだとおどろき、それから 「じゃあうちにおいでよ」 と俺の手を引いた。自分の勉強に付き合えとでもいうのか、あるいはバレーボールのビデオでも見るのかと思ってマヌケな俺はそれじゃあとついていった。 及川と寝たのはそれが最初だ。 俺を部屋に上げると及川は冷蔵庫からミネラルウォーターを持ってきたので、煎茶じゃないのはめずらしいなと思いながら口をつけていたら岩ちゃんと呼ばれて押し倒された。とっさのことで驚いて、ペットボトルがこぼれたら畳が濡れるとそんな場違いなことを心配して慌てて蓋をしめていたら制服を脱がされた。 「おいかわ、」 呼ぶ声は及川にふさがれ、畳の上、そのまま流されるように触れられる。さすがにまずいともがいたけれど、身を離した及川のとろんと満ち足りた目を見てしまうと身体は固まったように動かなくなった。 二周目の及川は、俺の知らない男の顔で俺を抱く。 行為を終え、俺の上に倒れこんだ及川に抱き締められて気づいたのは自分がもうとっくにこいつを好きだったということだった。そうしてたぶんそれは、一周目からずっとそうだったんだろう。 及川のために脚を開くことは苦ではなかった。腹はキツかったし、持ち上げられる太腿はまるで女のようで目の前が滲んだけれど、けれどそれでも俺はどこか嬉しかったのだ。幸せだった。満ち足りていた。だって昔から及川のためならなんだってしてやりたかった。それって愛ってことなんだろう。そう思ったらぼろぼろと涙があふれて俺は及川に抱かれて泣いた。 「岩ちゃん、痛かった? いやだった?」 及川は困ったようにたずねたが、俺がしがみついて首を振るとほっと息を吐いて、俺の背中に手をまわした。 二周目の及川に抱かれたのは、けっきょく、その一度きりだった。 テストが終わると俺たちはいよいよ後半の予選に向けてかかりきりになったし、身体の負担を考えたのか、及川は俺にそれ以上を求めなかった。 そのかわりバレー部の練習は日に日に密なものになっていく。大会に向けて、及川のトスは毎日精度が上がっていった。必然それを打つスパイカーの俺たちへの要求も高くなるし、メンバーを入れ替えてのコンビネーションも何度も確認しあった。 試合の日程は一周目とすこし変わっていて、俺たちは烏野高校よりも先に白鳥沢に当たることになっていた。一戦目に勝てば、そのつぎは牛島とだ。 試合が近づくにつれ、気持ちはいやでも昂ぶった。寝つけない目を無理やり瞑ってねむり、もどかしいようなあるいはまだきてほしくないような日々がいって、そうしてようやく二十六日、待ちわびたその日はやってくる。 十月二十六日、金曜日。 集合はいつもよりすこし遅く、時計はそれに合わせたのに目が覚めたのはけっきょくいつも同じ時間だった。起きてしまったものはしかたないから支度を済ませて外に出ると、同じようにいつもどおりの及川があれっという顔でそこに立っていて、すこしおかしい。 「なんだ、おまえ、なに早起きしてんだよ」 「だ、だって、起きちゃったんだもん。ていうか、岩ちゃんだってさあ、」 「ぅっせ、ぐずぐず言ってんでねえ」 げし、とケツを軽く蹴って笑って、なんだかほっとして、今日は俺からつないで朝焼けの道をあるく。及川はしばらく恨みがましい目で尻をさすっていたが、俺が数度ゆびさきを握り直すころには 「今度こそ勝とうね」 といって、まっすぐに前を向いていた。 高校三年、二回目の春高バレー代表決定戦。一回戦目は一セットとられたが、そのあと二セットはきっちり取り返して難なく青城が制した。 迎える二回戦目は牛島若利と、もう何度目かもわからない邂逅だ。中学一年で及川を打ちのめして以来、その男は何度も壁となって俺たちを阻んできた。白鳥沢と試合のあとに及川が荒れる姿も泣くさまも、誰よりもちかくで見てきたのはこの俺だ。及川の悔しさなら俺が一番知っている。 その執念を、渇望を、プライドを、――だからこそなによりも叶えたかった。 その日、及川のトスはまた俺を惹きつけて焼き焦がした。 うつくしいボールだった。一周目とそれはおなじ、否、それ以上にまっすぐに俺を呼ぶ一球だった。ここにくる、あのとき感じたそれはただの直感だったが、今日のそれは確信だ。及川を信じて俺は跳んだ。 キラキラ、キラキラ。光の矢のような、及川のトス。ボールを打つ瞬間の音と、手のひらには気持ちのいい痛みが走る。今度こそたしかに打ち切った。そのはずだった。けれどボールは牛島の高いブロックに阻まれ、無情にこちらのコートに落ちる。来る場所がわかるからこそ意識して狙いすぎたのだと理解したとき、試合終了のホイッスルは鳴り響いていた。 及川は、やはり俺を責めなかった。及川だけじゃない。同級の花巻も、松川も、後輩も監督も誰ひとりとしてそうだ。そのことが余計に俺の背中に罪悪を積んだ。 このときのために時間をくりかえしたのに、俺はまたあのトスを決められなかったのだ。 そんな俺がチームメイトの前で涙を見せることはどうにも許されないように思えて、その日は歯を食いしばって整列と片づけを終え、家に帰ってひとりで泣いた。 まるで夢のようにおとずれた二回目のチャンスを、俺はまたしても無駄にしてしまった。今のチームでの試合はこれで終わり。俺はまた及川を勝たせてやれなかった。及川の願いを叶えられなかった。 あああ、あああ、あああ。慟哭は後からあふれてとめどない。絶望は一周目よりさらに重かった。 しばらくそのままにしていると、けれどふいに及川から着信があって、今から会えるかというので短くああと答えて電話を放る。顔中の鼻水をぐしゃぐしゃとぬぐいながら、すこし胸騒ぎを感じていた。(一周目のときには、こんなことはなかった) てきとうなパーカーをはおり、洗面所で顔を洗ってちょっと出てくる、言い残して家を出ると、私服に着替えた及川はすでに門のそばで待っている。 「はは、岩ちゃん、すごい顔」 顔を合わせると及川は笑ったが、その目だって暗がりでもわかるくらいに赤かった。すこし歩こう、及川がいうのでうなずいて、ふたりならんで歩き出す。今日の朝だって同じようにこの道を行ったのに、あのときとはすべてが変わってしまったように思えて足どりはすこし重かった。 「……このあたりで、いいかな」 互いの家からすこし離れた交差点までくると、及川はそう言って立ち止まる。俺は内心、すこしどきりとした。その場所は一周目で俺が飛び込んだ、あの交差点だったのだ。他のところにしないか、喉元まで言いかけたが、及川は自販機をながめて 「何がいい?」 とたずねるのですこし悩んでやめた。二周目の及川が、あのときのことを知っているはずもないのだ。かわりにポカリスウェットのボタンを指のはらで押して自販機からとりだした。こういう夜はたいていどちらも飲めるのを買ってふたりで分ける。 道路沿いの車避けに並んでもたれ、ひとくち喉に流し込むと疲れた身体に気持ちよかった。二、三口飲んで手渡すと、及川も同じようにやって蓋を閉める。 そうしてふうと息を吐くと、 「俺ね、バレーは高校までなんだ」 あまりに穏やかな声で及川は言った。夜を吹く風のようにそれは静かな落ち着いた声で、俺はしばらく、目の前の男がなんと言ったのかわからなかったほどだ。車が一台背後を行過ぎて、その音が遠ざかるころようやく俺ははっとする。 「高校までって、それ、どういうことだよ? 一周目ではそんなこと、おまえ、ひとことも言ってなかっただろうがよ、」 「一周目? よくわかんないけど、……でも、黙っててごめんね。うち、俺が長男だから、大学ではやめろって、ホントは前から言われてた」 「長男って、で、でも、姉ちゃんいるだろ、徹はバレーやるから旦那さんは婿にもらうって、ほら、結婚式でも、」 「あはは、そうだったら、……よかったよねえ」 「!」 震えた声で笑う及川に、俺はそのときようやく理解した。一周目、及川の家の手伝いで参加した結婚式で及川の姉ちゃんはたしかそう言っていたが、この世界ではきっと事情がちがうのだ。結婚式自体はもう数年前のことなので俺は知らなかった。 愕然とした。目の前が急に真っ暗になったようだった。俺にもう次はないのだ。及川は俺にもうトスを上げず、牛島に勝つこともない。 膝の力が抜けて、どうにもできずその場にくず折れる。及川の手はすっと伸びて俺を支えた。その腕はそうしてそのまま背中に回され、強い力で抱き締められる。 「岩ちゃん、ごめんね」 「……なんで、おまえがあやまんだよ」 「俺、だって俺、……へへ、岩ちゃんと、もっと一緒にバレー、したかった」 笑うような声で、及川は泣いていた。しんどいときほど無理して笑う癖はいやになるほど及川で、こいつのこういう顔を見ると、俺はいつもたまらない気持ちになる。踵を持ち上げ、顔を上げ、泣きっ面に初めて自分からキスをした。涙と鼻水のまじったしょっぱい味がして、 「岩ちゃんからしてくれるの初めてだね」 及川は鼻をすすりながらふにゃりと笑った。俺とこうしたあといつも浮かべる、あのとろけそうな顔だった。暗がりで抱き合う俺たちの横を、何も知らない車はまた一台通りすぎる。 なあ、及川、 「俺と一緒に、バレー、したいか」 「……? うん、したいよ。ずっと、ずーっと、岩ちゃんと一緒にバレー、したい」 「――そしたら、俺と一緒に…………」 その先を告げると及川はびっくりしたような目をしたが、それでも俺が本気なのだとわかると信じるといってうなずいた。ごしごしと顔をぬぐい、最後にひとつキスをして、大好きだよ、ささやいて耳朶を甘噛んでは離れ、及川は俺の手をぎゅっと握る。 「怖くないのか」 「すこしだけ。でも、岩ちゃんが一緒だから」 微笑む及川の向こうには、キラキラと光るライトが遠く見える。俺たちは立ち上がり、ふたり見つめ合ってうなずいた。 「岩ちゃん、ずっと一緒だよ」 光の中に消える間際、及川がそう言った声だけがたしかにきこえていた。 3 確信があったわけではけしてなかった。 ただほんのすこしでも可能性があるならそれに賭けたかったし、もしもそのまま二人終わったとしても、俺たちは互いを恨みはしなかっただろう。 そうして俺は、その賭けに勝ったのだ。 次に気がついたとき、俺は三周目の九月二十六日に立っていた。 学校の渡り廊下で、やはりそれは、及川となにごとかを話しながら体育館に向かう最中のことだ。前回の経験でわかっていたから俺はもう転びはせず、かわりに及川の肩をつかんでやったな! と笑いかける。 「及川、やったな! 俺たちほんとうに、くりかえせたんだ……!」 「? 岩ちゃん、急にどうしたの?」 「……え?」 三周目の及川は、きょとんとした顔でこちらを見つめていた。 「どうしたのって、――おまえ、まさか、覚えて……ないのか?」 「覚えてる? もう、岩ちゃん何の話かわかんないよ。そんなことより早くいこ、今日はOBの先輩たちも来てるんだから」 まったく、へんな岩ちゃん。そういって、及川はさっさと歩き出してしまう。離れていく背中に、二周目の及川はもうそこにはいないのだと俺は悟った。あのとき賭けに勝ったのは俺だけ、及川は、ここにはこられなかったのだ。 ずっと一緒などと言ったくせに、大好きだよとほざいて俺の耳を噛んだくせに、あの日の及川は、もう、どこにもいない。 立ち尽くしていると、三周目の及川は振り返って岩ちゃん早くと俺を呼ぶ。俺はつかのま拳をぐっと握り締め、それからゆっくりと廊下を蹴った。 三周目の及川は、俺とはただの友だちのようだった。 部活の終わりに以前のようキスしてこないので、しないのかと聞けば爆笑された。 「岩ちゃんてば、いつからそんな冗談いうようになったの」 同じ顔で言われる何気ない言葉は、二周目のこの男を思い出してつらかった。最初のうちは付き合っている事実に驚くばかりだったのに、俺はいつのまにかその温度にすっかり慣れてしまっていたのだ。いまの及川が俺に触れる手のひらは、友だちの距離感を決して越えはしない。 「お前の姉ちゃん、お嫁にいったんだっけ」 ふとしたとき、雑談に紛れてそのことも聞いた。春高のあとに及川がまた同じことをいうんじゃないかと思ったからだ。けれどそちらは二周目とちがっていた。及川の姉は、今回は婿をもらったそうだ。 「じゃあ、大学に行ってもおまえ、バレーは続けるのか」 「うん、そのつもりだよ。でも、」 まずは目の前の春高で勝たなきゃね。 ああ及川はやはり何周したって及川なのだと、その言葉で気づかされた。 目の前の男には、俺を好きだといった、俺のことを抱いた記憶はたしかにない。けれど、それでもこいつは及川だ。この男のためにもう一度バレーがしたいと、俺の願った及川なのだ。 そう思ったら迷いは消えて、それからはただひたすら練習に打ち込んだ。一周目、二周目をくりかえしたことにけして無駄はなかったのだとこの頃にはわかるようになっていた。他の人より二ヶ月分多い記憶は、三周目の身体にたしかに染み付いて以前よりも動きを軽くしている。 京谷たち後輩の面倒を見てやる余裕も自然と増えた。 「及川はこういうときこう上げるから、スパイクはこっちを見てると打ちやすくて、」 「おまえはこの位置にボールくると一瞬ためらうことが多いから、そういう場合は、」 下級生はどうして自分の細かい癖までわかるんだろうと驚いたが、そういうときは俺だって一応三年なんだからとてきとうにごまかした。本当は前の周で気づいたから知っていた。指導する俺を横目に、及川は練習に打ち込む日々が続く。 チームの状態がすこしずつ良くなっているのは、三周目だからこそ感じられた。一周目、二周目よりも、青城は確実に強くなっている。 今度こそはきっとと、どうしたって期待は大きくなった。 チームは仕上がってきていて、俺だって前より成長している。二回は失敗してしまったけれど、今回こそは及川に勝利を、そうして、大学に行ってからも共にバレーを続けるんだと、そう思っていた。 ――一回戦、青葉城西高校敗退。 それは、別ブロックの白鳥沢に対戦することすらかなわない敗北だった。初戦の相手は強豪ではなかったが、二セット目で及川が膝をやった。それがすべての勝敗を分けただろう。主将を失ったコートで俺たちはどうしたって冷静を欠いた。 たとえば及川がすこしのあいだ休んでどうにかなる状態なら、心配はしても俺たちは勝っていたのだと思う。けれど救護に抱えられ運ばれていく及川の顔色はとてもそんなふうには見えなかった。 実際、高校一年のころにやった怪我が再発したのだとは、試合が終わるなり駆け込んだ病院のベッドで聞いた。あのときの怪我がと及川は何の説明もせず言ったが、それを知らない三周目の自分に眩暈がした。 医師の説明を聞きながら、いつだったか烏野の主将が接触してコートを引いたとき、大黒柱を失ったチームを及川と眺めていたのを病室のパイプイスでぼんやりと思い出していた。あのとき主将は大事なく次からの試合にも出ていたが、及川はちがう。これから先の未来を聞く及川はうつむき、拳を握り締めて肩を震わせていた。 「つらいとは思いますが、日常には支障ありません。一緒にがんばっていきましょう」 及川のつらさなんてこれっぽっちもわからない医師がそう言って病室を出て行ったあと、俺は及川の冷たい手を握り、終わらせないからとその手に誓う。 「終わらせない。こんなところで、おまえを終わらせたりなんかしない。俺と一緒に、またバレーするんだ。……だっておまえ、俺にそう言っただろう」 三周目の及川はぼうっとした顔で俺を見上げ、しばらく虚ろな目をさまよわせていたが、やがてふと気がついたようにそうだねと微笑んだ。 「そうだね、岩ちゃん。俺、岩ちゃんとバレーするのが、いちばん好きなんだよ」 そういって、またあの顔をするのだ。俺がそのトスを決めた瞬間の、ふたりの部室でキスしたときの、俺と光に飛び込んだ間際の、あの幸せそうな表情を及川は浮かべる。一周目の面影も、二周目の温度も、そこにはたしかにあった。 及川の病室を出て、それからあとは気がつけば走り出していた。病院から交差点までは遠く、脚はそのうちガクガクと震え始めたがそれでも早くあの場所に行きたかった。 迷いも後悔もそこにはなく、ただ祈りだけを抱えて、俺は走る。 もしも次の九月二十六日にいけたなら、及川がまた俺を忘れているのはわかっていた。キスしたことも、抱き合ったことも、病室で俺に言ったことも、及川はきっと知らないだろう。俺がその話をすれば、へんな岩ちゃんといって、また俺を笑うにちがいない。けれど、それでもかまわない。及川が俺を忘れても、俺は及川を忘れない。及川のために、俺は何回だってくりかえす。 覚悟を決めて飛び込んだ交差点は、まるでそんな俺の覚悟を笑うようにキラキラとまぶしかった。 32 感覚が麻痺してきたのは、いつのころからだろうか。 初めの十周、二十周を越えるまでは、すこしはマシだったように思う。そのころはまだ時間を巻きもどるたび及川との別れを悲しみ、また次の出会いをよろこび、そうしてまたくりかえしていた。 及川とは付き合っているときもあったし、そうでないときもあった。最初に恋人でなくなってしまった三周目ではショックを受けたが、次に時間を跳べばそのときはまた付き合っている可能性もあるのだとわかればそれもしだいに薄らいでゆく。 光の中へ飛び込むことに、いつしか躊躇はほとんどなくなっていた。 俺たちはそれだけ負け続けたのだ。白鳥沢に阻まれ、烏野に追いつかれ、あるときは怪我、またあるときは及川の境遇さえも立ちはだかった。俺たちは何回やっても牛島に勝てない。ただ一回、たった一回の勝ちが拾えない。初戦で敗れることもあった。ごく間近の点数まで迫ったことも何度かあった。けれどどうしたってあとすこしが足りない。そのたびに俺は時間を駆ける。 もしもこのまま巻きもどさず大学にいけばなにかが変わるんじゃないかと考えることもあったが、くりかえす世界は二周目や三周目のように、何らかのかたちで頑なにそれを許さなかった。 二○一二年の同じ一ヶ月を、俺はただただくりかえしている。 「今日はベルサイユ条約の話からはじめましょう」 カリキュラムどおりに教える教師は三十二回同じ話をした。自分が自分を忘れないようにくりかえした数だけは律儀にかぞえていたが、三十を越えたこのごろはその数すらも俺を追い詰める。 中間テストも二、三回目までは見知った問題が出るのでラッキーだと思えたが、同じ答えを空欄に記入する作業になるまでほとんど時間はかからなかった。 「おまえはこの位置にボールくると一瞬ためらうことが多いから、そういう場合は、」 後輩には遡るたび同じことを教えた。俺には記憶があるけれど、他のチームメイトはそうじゃない。毎回驚いて礼を言って、そうしてまたつぎの周にはそれを忘れている。 及川だって、そうだ。 何を話しても、何回キスしても、何度寝ても及川は俺を覚えていない。重ねた時間の分だけ、俺だけが及川を好きになっていく。 及川のために時間をくりかえしているのに、俺と及川の時間は、一ヶ月ずつずれてゆく。 苦しくて、どうか覚えていてくれと縋ったこともあった。絶対に忘れないという及川の約束をばかみたいに信じたこともあった。でもだめだった。 「岩ちゃんのこと絶対寂しくさせないよ」 三十一周目でそういって俺を抱き締めた及川も、結局は俺を忘れてまた孤独にした。 こころは次第に疲弊し、すこしずつすりきれていく。 三十二回目の及川は俺の友だちで、けれど次の試合が終わったら付き合おうと俺に言った。わかったと答えてうなずきながら、その言葉がどこか胸に響いていない自分にも気がついていた。(だってこの告白も、つぎの一ヶ月にはなかったことになっているのだ)ひと月のあいだに及川から告白されるのはめずらしいパターンだな、なんてぼんやりと思っていた。 疲れていたし、もうこのまま歩みを止めてしまいたいともちらついた。くりかえした秋を越えたその向こう、冬の静けさも、春もやさしさも夏の匂いも、俺はもうずいぶんと長く知らない。 なんだかひどく遠いところまで、ひとりで歩いてきてしまったようだった。 三十二ヶ月、ほかの人より二年と八ヶ月を長く生きた俺はほんとうなら今ごろ成人式を迎えて、大学の同級生と記念に酒でも飲みに行っていたのかもしれない。想像はしてみたが、今はそれさえも縁遠いことに思えて笑ってしまった。 「岩ちゃん、どうしたの?」 ボトルを開け、となりで休憩をしていた及川は不思議そうに俺を振り返る。なんでもないよ、答えて首を横に振った。この男が牛島に勝つまでなにがあっても足を止めないと、俺はもう腹を括ったのだ。疲れても、しんどくても、ときどき叫びだしそうなほど寂しくても、それでも及川のために俺は走らなくてはいけない。 だけど、ときどき不意に考えるのだ。 「なあ及川、――いつか試合が終わったらまたあの場所で、ポカリでも飲みながら話、しような」 「? 岩ちゃん、なに言ってるのかわかんないよ。ていうか俺、どっちかっていうとアクエリ派だし」 「うん。そうだよな」 「そうだよなって、もう、なんだよそれ、……わかんないけど、」 ひとりで悩んだり、考えこんだりしないでよね、岩ちゃんには俺がいるんだからさ。 当然のようにさらりと言われた及川の言葉が嬉しく、切なかった。俺はきっと、及川のこの言葉も忘れないだろう。忘れられるのに慣れたかわりに、覚えるのは前より得意になった。いいことか悪いことかは、自分でもよくわからない。 「休憩終わりだ、いこう、岩ちゃん」 「ああ」 ボトルを置き、並んでまた歩き出したその先にいつかきっと光があるのだと、そう、信じていた。 n それが何周目のことなのかは、はっきりと覚えていない。 途中まではたしかに自分の遡った時間をかぞえていたが、やがてその数に何の意味も感じられなくなったところでやめたのだ。だからその世界にたどりつくまで、いったい俺がどれだけ同じ一ヶ月をくりかえしたのかはわからない。 その世界には、影山飛雄がいた。 影山飛雄というのは中学のころの後輩で、かつては及川を追い詰めた本人で、これまで、烏野高校で俺たちを阻んだ相手でもあった。 しかしその影山はその周、何食わぬ顔をして青城に入学していたのだ。体育館に行ったら白いジャージを着て平然と練習していたので驚いて、たずねれば 「国見ちゃんや金田一と一緒にうちに来たじゃない」 及川は当たり前の顔でそう言った。いわれてみれば影山は同じ北一中出身の金田一や国見と一緒に練習をしていて、どうやら連携も上手くいっているようだ。これまでの周回では北一で折り合いがつかず烏野に行くのがほとんど、あるいは才能を見出され白鳥沢にいっていたこともあったが、うちに来るのはこれが初めてのことだった。 「気には食わないけど、インハイのときもよく動いてたし、調子も上がってきてる。来月の春高でもどこかで使われるだろうね」 そういって及川の見つめるまなざしは不機嫌だけれど、どこかそれだけでないようにも見える。 ざわりと胸騒ぎがした。 理由も確信もなにもない、それはただの予感だ。しかしそれでも漠然とした、なんともいいようのない不安をたしかに感じた。立ち尽くし、呆然としていると振り返った及川は行こうといって俺の肩をたたく。戸惑いながら、俺は練習に参加した。 けれどそれは、結局は単なる杞憂だったのかもしれない。そう思ったのは、影山を加えたチームで一週間ほど練習をするようになってからのことだ。 影山という戦力が加わって、青城には驚くほど攻撃のバリエーションが増えた。セッター二人から上げられるトスに、影山本人の攻撃、それはまるで、これまでの烏野を見ているようだ。相棒の十番はここにはいなかったが、そのかわり今の影山には国見と金田一がいた。 聞けば中学のころはもめたこともあったけれど、たまたま俺たち青城の試合を見る機会があって、それからより互いに話し合い、声を出し合うようになったのだそうだ。だから金田一も国見も諦めず影山のトスに走っているし、影山は影山で、及川のトスをまた間近で見ることでそれを吸収し二人に投げかけている。 はじめこそ嫌な予感がしたものの、その周を終えるころにはきっとこれでよかったのだと俺も思うようになっていた。春高予選決勝、対戦相手の白鳥沢には実際あと一点のところまで初めて追いついた。 最後の一点、あのドンピシャのトスを俺があと数センチ内側に入れていれば、それは勝てていた試合だったのだ。アウトの旗が上がったときは思わず天を仰いだが、けれどこの周のそれはただの絶望じゃない。 フルセットやって、牛島がここまで息を荒げる姿を見たのは初めてだし、次の周回へ跳ぶとき、これほど期待が持てたこともない。 勝てる、牛島に、今度こそ。何十何百回と失望をくりかえして、それはひどく久しぶりに見出せた希望だ。 そうして次の周、希望はいよいよ確信になった。 青城には影山と、それから何が起きたのか烏野の十番、日向が入学していた。中学三年の大会で出会った日向に影山が追って来いといったのがきっかけらしいが、そんなことどうだっていいくらいに、俺にとってそれは行幸だった。影山に加えて日向がやってきたのだ、前回もうすこしで手が届きそうだったところに、さらに新しい戦力がやってきた。 とうとうこのときがきたのだと俺は思った。 「日向がこう動いたらこっちはこう合わせて、」 「国見は影山のフォロー、金田一はこのメンバーのときのブロックを確認して、それから、」 指導には今まで以上に力が入り、俺自身も毎日、誰より遅くまで体育館に居残って練習するようになった。高校三年の秋の授業ならもうそらでいえるほど覚えているから、今さら勉強する時間も必要ない。体育館が使えない日は抑えきれずにまたひとりで夜を走って、目蓋の奥にあのトスを何回でも焼き付けた。 打ち込む俺を見て及川はすこし心配そうな顔を見せたけれど、気にしないでいいからおまえは影山を見てろと俺は首を振った。二人目のセッターの影山をチームで使っていくとなると、正セッターの及川との連携はどうしても外せなかったのだ。影山と及川が組んで練習することが増えたので俺と話す時間は自然といままでより減ったが、それは試合が終わってからゆっくりと話をすればいいことだ。 俺たちは今度こそ勝って、春高に出て、そうしておなじ大学にいってまたバレーをするのだ。長かった高校生活もようやく終わる。くりかえす時間のくびきから解放されて、俺はようやっと前に進める。 そう思ったら決勝前夜は胸が詰まって、なかなか眠れなかった。おかげで当日は時間ギリギリに家を出たので、及川はもう先に出てしまっていた。 (いつもうるせえのに、あいつめずらしく黙って出ていったんだな) ほんのすこし引っかかりは覚えたが、駅前へ走っているあいだに興奮でそれも消えた。今日の決勝が終わったら、明日は十月二十八日がやってくる。その先には十一月も、十二月もある。そんなに当たり前で普通のことが、俺にはたまらなく幸せに感じられた。 このときがきたのだと思った俺の直感は、そして正しかった。 決勝戦、一セット目は白鳥沢にギリギリで逃げられたが、二セット目はデュースに持ち込んで粘り勝った。 日向と影山が入ったことで増えた速攻はやはり大きかったし、攻撃を支える松川たちブロッカーも安定していた。及川は攻撃のバリエーションを最大限に生かし、俺たちスパイカーはそれを信じていた。 三セット目、そうして最後のセットポイントを先に迎えたのは青城だ。二十四対二十三。追いつかれなければ試合は終わる。 「及川ナイッサ!」 こういうとき一番に声をかけるのはたいてい花巻だった。つられて他のメンバーが続いて、背後からはサービスの及川の緊張がピリピリと痛いほど伝わってくる。観客席の応援がつかの間息を飲み、しんと静まる一瞬、――ボールはそうして、高く上がった。 ドッ、と胸を打つような、重たい、いいサーブだった。ライン際ギリギリに決まると思われたそれは、しかし飛び込んだ相手の手に拾われてすんでで返される。 来る! 前衛にいた俺たちは身構えてタイミングをとった。トスの上がった先にはエースの牛島が走りこんでいる。俺は反射的にとなりの金田一のすそを引いた。何回もくりかえした試合の中で牛島のタイミングはいくらかつかめていたので金田一には教えてある。牛島の打球はやはり勢いがあったが、なんとか金田一の片手に弾かれ青城のコートにゆるやかな曲線を描いた。 滑り込んだ渡がそれをつないで、日向に上げる。右から走りこんでいた日向は合わせて打ち込んだが、コンマ数秒振りが遅かった。 「及川!」 ブロックに阻まれたのを花巻が拾って、セッターの手にボールが渡る。 ぞくりと背中を、予感が走った。 ――来る、俺に、あのトスがくる。 一周目から、最初からずっと俺を選んでいた、あのうつくしいトスがくる。及川の指があの日のように俺をさすのが、走る視界の端に見えた。 数え切れないほどの時間をくりかえして、俺はきっと、この一瞬を待っていたのだ。 掌にボールが触れた瞬間、そう感じた。スパイクが床に触れる前に、終わったのだとわかっていた。ドッ、ド、ドッ……、鈍い音を反響させて、ボールは白鳥沢のコートに落ちる。 場内には独特の、一拍の間合いがあってそれから割れるような歓声がきこえた。観客も、チームメイトも叫んでいたし、俺は自分が咆哮を上げていることにしばらく気づかなかった。 「岩ちゃん! やった! 岩ちゃん!」 子どものころにもどったように何度もそういって、飛びついてくる及川を抱きとめるので俺はただせいいっぱいだった。 勝ったんだ、終わった、及川が俺に笑ってる、この顔がみたかったんだ、そんなものがこみ上げて俺はようやくコートの上で泣いた。 長い、長い、途方もなく長い俺のループは、この日でとうとう終わったのだ。 ∞ キラキラ、キラキラ。 思い出したように時折通り過ぎてゆく車は、愚かな俺を嘲笑うようにいつだってまぶしい。何度も走って飛び込んだ交差点は、ひとりで座っていると風が冷たく寒かった。自販機のかたわらに座り込み、初めて自分からあいつにキスをしたのはここだったなとぼんやり思い出す。 及川とは、ここで何度も会った。人目を忍んでキスしたことも、むだと知っていて一緒に飛び込んだこともあったし、あるいはこの場所で飲み物がなくなるまでただ喋ることもあった。けれどそれは全部、過去の及川としたことだ。 この周の及川と、そういうことを俺はしてこなかった。 だって、今度こそ勝てると思ったんだ。今度こそ終われると。そう思ったら、バレー以外のことをしている時間がことさらに惜しくなった。だから、及川が夜に送ってくるラインもほったらかして、心配に見せかけて俺と話したがる及川にも気づかないふりして、この試合が終わったらゆっくり話そうなんて、勝手なことを思ってた。 ――及川が影山のものになってしまったのは、だから、俺のせいなんだ。 決勝の試合のあと、及川は片づけが終わったら先にバスに乗っててと言ったけれど、待ちきれずに俺は及川を迎えに行った。挨拶を済ませて裏の通路にいる頃だろうと予想はついたので、きょろきょろしながら廊下を曲がった。そうしてそこで抱き合うふたりを見た。 初め、影山が無理やりそうしているのだと思った。及川はいやいやをするように頭を振っていたから、止めなくちゃと喉まで声が出た。声を失ったのは、及川の横顔が見えたからだ。 こんなところでといいながら、及川はどこか嬉しそうな目をして影山の髪に触れていた。拗ねるような顔をして、けれど、自分からキスをしていた。 覚えているのはそこまでだ。それぎり踵を返して走ったのでその後のことはしらない。 気づいたときにはここに座って、なにをするでもなくただときどき車がいくのをぼうっと見ていた。あるいはまた時間をやり直したかったのかもしれないし、及川との思い出に浸りたかったのかもしれない。 どちらにせよばかばかしい話だ。及川はとうとう牛島に勝って、俺たちは悲願を果たしてこれからもバレーを続けられるのだ。すべてが願ったとおりになった。これ以上つぎの周に跳ぶ必要なんて、俺たちにはどこにもない。 そう、おもうのに、 「っく、……っふ、ぅぐっ……」 どうして、涙がとまらないんだろう。あとからあとから、壊れているみたいにそれはあふれては湧いた。これでよかったはずなのに、及川は幸せになれたはずなのに、それでも俺は、その幸せをこころから祝えなかった。 キラキラ、キラキラ。 車がゆく。飛び込んでみろと俺を哂う。ここまで来ておいてそうできなかった俺を哂っては去ってゆく。ようやく叶った及川の願いを、その幸福をやりなおすことは俺には到底できなかった。及川のことが好きだった。悲しいくらいに好きだった。祝うことも、ぶち壊すことも、だから俺にはできなかった。 今度こそ上手くいくはずだったのに、どうしてこうなってしまったんだろう。そう思ってはひとりで泣いた。 泣いて、泣いて、目の奥が痛くなってくるころ、ふいに頬に当てられるものがあってふらふらと顔を上げる。冷たいそれはポカリスウェットのペットボトル。手にしているのは、及川だ。 どうしてとたずねる声は、笑ってしまうくらいに掠れていた。及川は小さく微笑んでとなりに座り、ペットボトルをひとくち開けて俺にわたす。 「岩ちゃん、家にいないし、携帯も出ないからさ。探したんだよ、俺」 「そう、か」 「そ。……ねえ、岩ちゃんこんなところで何してるの?」 おまえの幸せをぶち壊そうかと思ってた。言えたら、どんなに楽だろう。かぶりを振って、なんでもないとごまかせば、なんでもなくないじゃん、及川の声はすこし怒っている。 「なんでもなくない。泣いてたじゃん」 「……るせえ。俺がなんでもねえっつったら、なんでもねえんだよ」 「もう、うそつき。ていうかさあ、」 ひとりで悩んだりしないでって、俺、言ったじゃん。 続けられた言葉に、俺ははっと顔を上げた。いつかの周で、それはたしかに及川が俺に向けた言葉だ。けれどこの周の及川とそんな話はしていない。おどろいて見やれば及川はきょとんとした顔で、俺なにか変なこと言った? とかしげている。 「……おまえ、おまえそれ、どこで、俺に言った?」 「え? どこって言われても、……あれ、どこだったっけかな?」 あはは、だめだ、覚えてないや、軽く笑う及川の肩をぎゅうとつかむ。 「これだって、おまえ、アクエリのほうが好きだって、言ったよな? なんで、ポカリなんて買ったんだよ」 「え? うぅん……べつに、なんとなくだけど。岩ちゃん、そっちのほうが好きかなあって、あ、岩ちゃん痛い、もう、痛いよ、そんなにつかまないで」 「あ、わ、わりぃ、」 慌てて放して飛びのくと、及川はくすりと持ち上げ、こういうの、ずいぶん久々な気がするねといった。 「このところ、忙しくって岩ちゃんとは全然話せてなかったし」 「……そう、だな」 「岩ちゃん、いっつも難しい顔してたから、俺、心配だったんだよ」 だって頭良くないのに、頭使ったら疲れちゃうもんね。よけいな一言の多い及川を肘で小突いてから、こういうことをするのも、たしかに久しぶりだと思った。 岩ちゃん、ねえ、俺ね。及川はゆっくりと口をひらく。 「俺、岩ちゃんにはすごい感謝してるんだ。俺に付き合ってバレーを始めてくれたことも、それに、これまで俺のためにしてくれたことも、よく、わかってる。……だからさ、今度は岩ちゃん、自分のために、好きなようにしてよ」 あのときも、それがいいたくて岩ちゃんを探してたんだ。 そういって、及川は微笑んだ。俺の過ごしてきた年月も、努力も、愚かしさも、まるでそのすべてを見透かすように、及川はやわらかく笑っていた。 (……ああ、ああ、そうか) 本当は最初から、俺はこいつの全部が欲しくてたまらなかったんだ。 頭の良くない俺には今さらわかって、及川を抱き締め一度キスして、そうして離す。 向こうにはキラキラと光るライトが見えていた。身を低くして、アスファルトを蹴って、何度目かわからない光に向かって俺は跳ぶ。及川のために飛び込んだことは何度でもあったが、自分のわがままにそうするのは初めてで、すこしだけどきどきしていた。 「岩ちゃん、ずっと一緒だよ」 いつだったか、及川のいった言葉がよみがえる。(ずっと一緒だ、及川) 飛び込んだ光の向こうに、及川の笑う顔が見えたような気がした。 (2015.0327) |