あいかわらず、女みたいなノートだな。

勉強机の前に座り、及川に手渡された世界史のそれを改めてパラパラとめくりながらそう思った。幼馴染の字はまるっこく整っていて、要所には赤や黄色だけでなくピンクと水色のラインも織り交ぜてくるので無骨な俺のノートとは比べ物にならないくらいにぎやかだ。

「おバカな岩ちゃんもココ覚えとけば赤点回避できるよ!」

なんて俺に対する悪口もときどきイラスト付きで掲載されているので本当にありがたいノートだと思う。謹んでぶん殴ってお礼をくれてやりたい。苛立ちを八つ当たるよう写し終えたノートをパタンととじる。

今日の世界史は五限目だったから半分くらいは西日の気持ちよさに寝てしまって、空白の部分が多かったせいで写すのにも結構な時間がかかってしまった。ふああとあくびして時計を見やればもう十時過ぎである。

部屋の電気を消し内側から鍵をかけて、俺は窓際のベッドに座った。寝るからといって鍵までかける必要はなかったが今日は寝る前に一回だけするつもりだった。カーテンをぴったりと閉め切って、窓辺に背をもたれる。俺の部屋は二階だけれど、となりの家の幼馴染の部屋から見上げれば微妙にようすがわからないこともない高さなのだ。

寝巻きのジャージを下着ごとてきとうに引き下げ、手のひらですこし擦ると男子高校生の性欲はすぐに掻き立てられた。同級生はエロ本かDVDをどこかから手に入れてきてそれで抜くのがほとんどらしいが、俺の場合はそういうものもさして必要ない。

目を閉じ頭の中の記憶をたぐって、ただ今日一日となりで過ごした及川のことを考える。

おはよお岩ちゃんと俺に飛びついてくる、寝起きのとろんとした甘い声を、部活の朝練のあと面倒くさそうにぬぐっていた玉の汗を、ノートを差し出しながら岩ちゃんはしょうがないなあと笑った顔を反芻する。

そういう些細な断片だけで勃ってくる。今日はすぐそばに及川から借りたものがあるからいつもより興奮するのも早かった。

ふ、く、と吐息を奥歯で噛み殺して右手を上下させる。この右手は今日及川からノートを受け取った右手だ。

(……ああ、そうだ)

あれを渡して笑ったあと、及川はふとあの言葉を言ったのだ。だから今日は帰り道からずっとむらむらしていたんだっけと思い出して、腰骨が思わずぶるりと気持ちよさに震える。

それは、ひどく俺を昂ぶらせる言葉だった。

「俺のこと好きになったら、岩ちゃん、いやだよ」

幼馴染は折にふれてそう言った。

幼稚園のお遊戯会で女子より可愛かったあいつがお姫さまの役をやったときも、小学校に上がりドラマで初めてキスというものを知って俺にそれを試したときも、中学校の体育館裏で女を振るのを偶然目にしたときもそうだ。

「俺のこと好きになったらいやだからね」

男に好かれても迷惑だからなのか、あるいは幼馴染の俺がそういう対象ではないのか、もしくは単なる冗談のつもりなのか、どういう意図かはわからないが及川は決まってそう言った。

そうして俺はそのたび及川を好きになった。

ダメだとかいやだとか言われると余計にそうしたくなるのは、いったいなんでなんだろうな。頭のわるい俺にはわからないけど、でもとにかく俺は及川を好きになった。及川が欲しくなった。

中学高校と上がってその気持ちは自然と性欲を伴うそれになった。今では及川にああ言われると欲しくてたまらなくなって、こんなふうにみっともなくひとりで抜かないと寝られないくらいになってしまった。

自分でも末期的だと汚い白濁を手の中にこぼしながらぼんやり思う。部屋には青臭い匂いがむっと立ち込めて気持ちわるかった。

机の上のティッシュをつかんで汚れたところをてきとうに片付けカチリと背後の窓を開ける。梅雨明けの夜風はさらり吹き込んでカーテンをはらはらと揺らし、部屋に残った醜い俺の気持ちも消してゆくようで心地よかった。

窓はそのまますこし開け、肩口がふるりと震えるころいいかげんに閉めようと振り返る。そうしてあっと声を上げそうになった。

及川の部屋の障子窓は、わずかに開いていた。

おかしい、さっき見たときはたしか、きっちりと閉まっていたはずだ。(だってそうでないと俺はこの部屋でこんなことをしない)ぶるり。今度は風のせいでなく身体が震えた。

ひたいをつうと冷や汗の伝った瞬間ベッドに投げ出していた携帯がふと鳴ってびくりと飛び上がる。恐る恐る開けばなんだ、迷惑メールでほっとした。

ほっとしたところでもう一度鳴って今度は及川からで背筋が凍るかと思った。見慣れた名前をどこか空恐ろしい気持ちで開くと「明日使うから世界史のノート忘れず持ってきてネ」

(ああ、……なんだ、ばかみたいだ、)

強張った肩の力はほっと抜けて、緊張していたのが途端にばからしく思えた。わかったと一言返せば及川からはいつものようにハートの絵文字が返ってくる。好きになったらいやだなどと俺にいうくせに自分はこんなものを送りつけてくる勝手な幼馴染だった。いつだってすぐとなりにいるくせに俺がこの気持ちを誰より気取られてはいけない、じつにめんどうくさい及川だった。

めんどうくさい及川は翌日、
「今日は岩ちゃんの家に行くから」
と、まるですでに決まりきったことのよう部活のあと俺に言った。来るってなんでだよ。制服に着替えながら、口に出すのも億劫で目だけたずねれば及川はあはと笑って、最近彼女がめんどくさいんだよねとうそぶいた。つまるところ俺はていのいいだしにされたのだろう。

及川とその何番目かもわからない彼女のことなんてどうでもいいが、及川が来るならついでに理数も教わろうなんてぼんやり思っていた。むかつくチャラ男だけど俺より成績順位一桁は上のいわゆる優等生で、七月の期末テストはすぐそこまで近づいていたのだった。

部室の戸締りを終え、ただいまを二人で言って家に帰るとそこにまだ家族の姿はなく、めずらしいなと思った。父親と大学生の姉はいつも遅いが、この時間ならたいてい母親が帰っているのだ。玄関で靴を脱ぎながら何かあったっけと考えていればとなりでローファーをそろえた及川はにこりと笑って

「今日はうちのおかあちゃんとご飯の日でしょう」

と見透かしたように言った。ああ、そうだ、忘れていた。でも見透かしてんじゃねえと及川のケツに膝を軽くやって家に上がる。

乱暴なんだからと制服のズボンをさすりながら、しかし及川も悪い顔はしていなかった。(ちょっとMが入っているからこいつはこれくらいでいいのだ)

「ちょっと、岩ちゃんMじゃないよ」
「うっせ。もっぱついくか」
「いかないから! ……あ、ご飯用意してある〜」

先に居間のドアを開けた及川は言うなり鞄をぽいとおろして台所で手を洗った。

あとに続いて電気をつければたしかに四人分の膳が机の上には置かれている。うちは両親姉弟の四人。母親は食べないはずだから計算がおかしくないかと思ってから、ああ目の前でへらへら笑うこいつの分だなとすぐ気がついた。昔から岩泉の家と及川の家の食卓は俺と徹が行き来するのでほとんどつながっているようなものだった。

向かいに座って夕食を平らげ、及川が風呂に入るあいだに皿を洗って二階に上がる。風呂上りの及川にてきとうな着替えをわたして、上がったあとは喉が渇くと騒ぐから下にお茶をとりにいく。

及川が自分の部屋で着替えているのをあまり見たくないというのもすこしあった。百八十センチを超えた俺よりもでかい図体だけど、それでも好きな相手が無防備に自分の部屋で下着だけ履いてるのって結構しんどいものがある。

わざわざゆっくり時間をかけてコップを二つ持ってもどると、しかしそんな俺の努力も知らない及川は部屋の扇風機の前、中学の半ズボンだけ履いて未だに上はバスタオル一枚で風に吹かれていた。おいバカ野郎と頭をはたく。

「そんなカッコで風邪引いたらどーすんだよ」
「いてて、……だって、きもちんだもん」
「バカ言ってねーでさっさと着ろ」
「はあい」

いかにもめんどうくさそうに返事する及川にため息をついて、持ってきたコップは背の低いベッドサイドにコトリと置く。見下ろしてふと、足元のゴミ箱に気がつきはっとした。

もしかして、昨日のティッシュが残ってはいないだろうか。

服を着る及川には気づかれないようさりげなく中をのぞきこんで、しかしそこには紙切れ一枚が丸めてあるだけでほっとする。きっと昼のうちにでも母親が捨ててくれたのだろう。よかった。

ほんの一瞬でひどく喉が渇いて、俺冷たいお茶をごくごくと流し込んだ。Tシャツをはおり同じくプハアと飲み干した及川は気持ちよさそうに大きく伸びをして、数学だっけと俺を振り返る。そういえば帰り道今の単元を教わる約束をしていた。そうだなとうなずけば及川はわざとらしく腕組みをしてふふふと笑う。

「及川さんの授業料はお高いから、お小遣いローン払いにしてあげてもいいんだよ岩ちゃん」
「アホ、んなもん聞いたことがねーわさっさとやんぞ」
「え〜〜」

くだらない冗談はガシガシと乱暴に手で撫ぜて、折りたたみの小机を取り出して床に置いた。そうして教科書とプリントを広げると、ようやく真面目な顔つきになった及川はシャーペンをとってくるりと指先で器用に回す。俺とおんなじ男の指なのに、コイツの手はすらりとしてひどくきれいに見えるから不思議だ。

及川のしろい指はなるべく視界に入れないようにして、俺は女みたいなまるい文字がプリントに書きこまれていくのをじっと見つめていた。


「……から、ここのxには、ここで出た数字が入るの。岩ちゃん、わかった?」
「おう」
「じゃあ、こっちの例題ね」
「ん」

及川の説明はさすがわかりやすかった。(及川によく言われるのを認めるようで癪だが、)頭のわるい俺に何年も家庭教師しているだけあって、どういうふうに言えば俺が理解するかこいつが一番よくわかっているのだ。

ひと息ついて麦茶を飲む家庭教師のとなりで、教えられたとおりに例題を解く。けれど俺が黙って数式を書いていると及川は飽きたのか、ツンツンと二の腕にちょっかいをかけたり、肩に頭をのせたりし始めた。

「オイ、及川うるせえ」
「あだっ! ……もー、俺なんにも言ってないじゃん」
「手がうるせえんだよ手が」

暑苦しくくっついてくるのをしっしっと追い払って内心でほっとした。シャンプーと微かな夏夜の汗と、このごろ大人の男にすこしだけ近づき始めた及川の匂いが鼻先をくすぐって、数式を連ねる手が不自然に止まってしまうところだった。

「むー……静かにしてたのに」

俺にフられた及川はブサイクな顔で机に肘つき枝毛を抜いている。

「おまえ、伸びてウザくなってきたからそろそろ切れよ」
「ああ、岩ちゃん俺が短くしてるほうが好きだよね」
「アホ。そっちのが暑苦しくなくてマシってだけだ」
「ウソつくときの顔カワイイよ岩ちゃん」

空いた左手で殴りやすいから俺の左側に及川が座っていてちょうどよかった。頭を抱えて転がっているがまあいつものことだから放っておいても大丈夫だろう。

のこり数行になった数式を黙々と続けていると、しばらくおとなしく机にもたれていた及川はふと口を開いた。

「ね、岩ちゃんさ、」
「あ? なんだよまたつまんねー用事だったら殴んぞ」
「あはっ、怖いんだ! ……でも、岩ちゃんきっと、殴んないって思うな」

ぴくり。シャーペンを動かす手は思わず止まって俺は顔を上げた。さっきまでふざけていた及川の声は気まぐれにワントーン低くなって、そうして俺に、たずねるのだ。
ねえ、岩ちゃんさあ、

「昨日の夜、なにしてたの」

ドッ、と唐突に心臓が鳴いた。ドッ、ドッドッドッドッドッ。本当のことがばれてはいけないと、昨日の夜頭の中で俺が及川にしたことがばれてはいけないと思ったらそれはますますうるさくなった。

及川の瞳はしずかに澄んで、まるで見透かすように俺を見つめている。乾いた喉で、俺はなるだけ平静を装って言った。

「何って、昨日はノート借りてただろ、世界史のやつ、おまえにさ。だからフツーに、勉強してたよ」
「……ふうん」

そうなんだ、つまらなそうに及川はうなずいて、それからジャージのポケットに右手をつっこんだ。

「それじゃあこれも、お勉強に使ったんだね」

ゴミ箱に落ちていたのを、さっき拾ったんだけど。握りしめたまま、及川は机の上にその手を差し出した。反対に握力をなくした俺の手からはころんとシャーペンが落ちて、ころころと床へと転がってゆく。

「ねえ、岩ちゃん誰のこと考えてこれ、使ったの」

揶揄するような、あるいは憐れむような響きをともなった及川の声に俺は絶望した。

及川にはすべてが知れてしまったのだ。(やっぱり昨日の窓が開いていたのは気のせいじゃなかった)
どうしようもなくそうわかった。

及川は自分を好きになったらいやだというのに、俺はそう言われるたび好きになってしまった。頭の中で何度も汚した。その証拠を及川が握りしめている。今さら他の誰の名前をてきとうに言ったところでごまかせはしないだろう。(さっきだって嘘をついたらすぐ気づかれた)

何も言えずに押し黙っていると、及川はうふふ、と笑う。

「岩ちゃんて、ほんとにおバカさんだよねえ。そんな顔したら、見てなくたって、俺のこと考えてオナニーしたんだってすぐにわかっちゃうのに」

言いながら、及川はゆっくりと結んだ手をひらく。俺は瞠目した。

なにもなかった。
及川の手のひらには、なにもなかった。

あはは、あは、うふ、ふふふ。それはおかしそうに及川は笑う。自分がひどく簡単な引っかけにかかったのだとようやくわかったときには泣けばいいのか笑えばいいのか最早わからなかった。ただひたすらに、ごめんという言葉だけが喉をついて出る。

「ごめん、及川、ごめん。俺、お前がいやだって言うのに、俺、おれな、」
「……ふふ」

ばかだね、岩ちゃん。及川はまたそう言った。そうして俺の肩をとんと押した。力の入らない身体はあっけなくフローリングの床に打ち付けられて、及川は満足げに俺の腹の上に乗る。

「あんなの、嘘だよ」

欲しくてたまらなかった及川の指は俺の頬をゆっくりと撫でた。

「嘘って、どういうことだ」

わけのわからない頭でぼうっとたずねれば、及川はかたちのいい唇をにんまりと持ち上げる。そしていうのだ。

「ああいうふうに言えば、岩ちゃん単純だから、絶対に俺のこと好きになるって思ったんだよ」

だから、岩ちゃんが俺のこと欲しくて欲しくてしかたなくなるまで言い続けてやったの。

わるい子どもがイタズラを打ち明けるような、楽しげな誇らしげな、そうしてひそやかな声だった。

騙されていた、はめられた、そんなことも欠片くらいは頭をよぎった。けれどすぐにどうだってよくなった。及川は俺にキスをした。それだけでどうでもよくなった。(やっぱり俺は単純なのだろう)俺はのろのろと及川の背中に手をのばす。

安心してよ、告られるのめんどうだったから何人か付き合ったけど、誰ともこういうことはしてないからさ、よかったね、岩ちゃん。

服を脱ぎながら及川がそんなことをいうのが、どこか遠くに聞こえていた。











(2015.0216)