注意事項 ・花巻♀×及川♀ ・痴漢、嘔吐、百合要素 ※すこしでも苦手に感じられる方は、大変恐縮ですが閲覧をご遠慮ください 「明日から、ほかの車両にしよう」 六月の朝電車を降りると、及川は肩にかけた学生鞄の持ち手をぎゅっと握り締め、どこか硬い表情でそう言った。高校の最寄り駅のホームで同じ制服を着た生徒たちが眠そうに、あるいは友だちと楽しそうに階段を登る中、及川だけが必死に夏服の薄いスカートを後ろ手で押さえていた。いつもなら脚を長く見せようと膝上二十五センチまで上げられている裾は、その日に限って膝丈だ。(もちろん及川が突然校則に目覚めたわけではない) 俺は震えるその手に自分の手を重ね、何も言わずにうなずいた。こういうとき下手に慰められたり心配されたりするとよけいに及川が傷つくのは同性の勘でなんとなくわかっていた。 駅を出て通学路を歩き始めると及川はようやくすこし落ち着いたのか、俺のシャツをつかんで 「ありがとうマッキー」 とほほえんだ。クラスで、――いやきっと学年でもいちばん可愛い及川の甘えた笑顔。つくり笑顔や媚びた表情で「ぶってる」ときのそれももちろんアイドルみたいに及川はかわいいけれど、友だちの俺に向ける飾りのないそれはやっぱり特別にかわいい。 俺のうしろにいたせいでたまたま見た男子は顔を真っ赤にしてうつむいていた。俺はその男から及川を隠すように背を向け、いつでも頼ってよと身を寄せる。普段なら強気な軽口のひとつもあったのだろうけれど、心細かったのかその日の及川はすなおにうなずくのでいとおしかった。今日は一限移動でめんどいねえと気分を変えるように話しだす及川のセミロングを撫でながら、なにがあっても自分が及川のことを守ってやろうと強く、強くそう思った。 通学の車両を三つほど前方に替えて、しばらくのあいだは平和な朝だった。 及川の最寄り駅は俺の駅よりひとつ手前なので俺はすこし早起きをして自転車をこぎ、及川と同じ駅から地下鉄に乗るようにしたし、電車の中でもなるべく及川にくっつくように気をつけた。 「俺のためにわざわざゴメンね」 及川はたいして悪くも思っていない口調であやまったけれど、二、三日がすぎるころ一緒に食べようといって弁当をこさえてきたのでなんともかわいらしかった。男にもてる自分のことを誰よりかわいいと思っているしすぐ他の女の悪口をいうけれど、案外いじらしいところもあるのだ。そうしてそういう一面を親友の自分だけが知っているのだと思うといつもたまらなく嬉しくなる。 女友だちがすぐ離れていく及川の周りに俺だけが残ったのはきっとそのせいもあるのだろう。好きな男子を及川にとられて女子はみんな及川を嫌ったが、俺はひと目見たときからかわいい及川のことが好きだったからクラスのどの男が及川に惚れようとどうだってよかった。及川のそばにいられるなら及川が嫌う女子の悪い噂も流したし、及川がめんどうくさいと言った男は自分から誘ってこちらに目を向けさせてからさっさと捨てた。もちろん朝すこし早起きをして急いでメイクをするのくらいなんてことなかったし、電車の中で及川に身体をよせながら、「友だち」の一線を越えないように堪えるのだってかんたんだった。 かんたんだった。そのはずだった。 穏やかな朝に異変が起きたのは、車両を替えて、一週間ほどが経った日のことだ。同じ駅から電車に乗って一駅を過ぎたあたりで、それまで楽しくおしゃべりをしていた及川の顔色がさっと青くなった。 「……及川、どうしたの」 小声で聞いたが及川はラメののった唇を震わせるだけで、なにも答えられないようだった。その日の電車はぎゅうぎゅうの満員で俺はたまたま及川の前にいたから、そのうしろのようすをうかがい見ることもできない。及川の背後には二十代三十代くらいのサラリーマンが二人立っていた。 (もしかして、この二人のどっちかが?) どっちだって許さないがとにかく人ごみの中に手を伸ばして及川の身体をなんとか抱き締めよう、俺はそう思って、――けれど一瞬、出来なかった。 「……っぁん、」 熱っぽい吐息がひとすじ、耳をかすめた。 聞いたことがないほど色っぽい、それは女の声だった。 ぞくり。耳にした瞬間甘い痺れが俺の身体をひといきに貫き、時間は止まる。 及川は顔を真っ赤に染め、その唇から小さく舌をつきだして、スカートの下で行われているであろう行為に耐えていた。身体の前でぎゅうっと鞄を抱き締めて目をうるませ、下劣な手のひらに決してわずかな恍惚を悟られないよう眉根を寄せていた。 及川の仕草、表情、声、どれもが俺の劣情をかきたてた。 その一瞬、痴漢と俺とは同等だった。 俺は親友に欲情し、必死に助けを求める及川の思いを踏みにじったのだ。 「あ、ああ、あ、……」 じぶんでも何を言っているのか、何をしているのか、ほとんど、理解は及ばなかった。 ただ次のドアが開いた瞬間及川の後ろに立つ男の顔を突き飛ばすように思い切り押して、及川を奪って、転げるように電車から逃げて、逃げて、逃げて、及川の手だけをぎゅっとつかんで、走って、気がついたときには障がい者用のトイレの床にふたりで座り込んで開くはずのないドアを押さえこんでいた。たぶん、おおすじはそんなところだと思う。俺も及川もひどく息を切らしていて、脳には酸素が回っていなかったから、男を二、三発殴るくらいのことはもしかしたらしていたのかもしれない。どっちだってかまわない。 とにかくハアハアと荒い呼吸をくりかえしていると及川がえずき始めたのでその手から鞄をとって、上体を引きずるようにして便器に連れてやる。及川はしばらくえぐえぐと唾液を漏らしていたが、公衆トイレの匂いにあてられたのか先ほどの行為を思い出したのかすこしだけ朝食の中身をもどして便器にぐたりと身をもたれた。俺は重たい手をのろのろと持ち上げて汚れた水を流し、及川の背中をさすってやろうとして、けれどはっとする。及川は息を整えながらふしぎそうな目をこちらに向けたが、俺はなにも言えなかった。 たとえ束の間でも、俺は、痴漢に辱められる親友を己の欲望のために見過ごしたのだ。身体に触れていなくたって、それは、及川を犯したのとおんなじだ。(なにが、守ってやろうだ、俺はこんなにかんたんに及川を裏切ったじゃないか) はらはら、はらはら。涙は堰を切ったように両目からあふれて薄汚れたトイレのタイルに落ちた。 「マッキー、俺のために泣いてくれるの?」 泣き出した俺を及川はひどく悲しい目でみつめ、そう言って手を伸ばそうとする。俺は慌てて身を引き、首を横に振った。 「ちがう、及川、ちがう、そんなんじゃない」 「……マッキー?」 「ごめん……」 そう言ったぎり、ろくろく言葉はつづかなかったが、俺はひたすらに先ほどの情欲を及川にあやまった。呂律も回らず、つっかえつっかえの声で、自らの醜さを及川のまえに吐き出した。 及川は表情のない白い顔で黙ってそれを聞いていたが、やがてその右手をすっと持ち上げ俺の頬をピシャリと張った。ぶたれた頬は熱を持ってじんと痛かった。冷たいタイルに反射的に手をついたまま、顔を上げられない俺の頭上に及川の静かな声が降る。 「さっきのことは、今ので、チャラにしてあげる。でも、マッキーと友だちはもうやめる」 びく、と思わず肩が揺れた。しかしそれでも反論する気も、縋る気さえも起きはしない。そうされて当然のことを俺はしたのだ。そう思ってうつむいているとしかし不意に、及川の手のひらは俺の頬に伸びた。 「及川?」 「……黙って」 そっと持ち上げられ、上向かされてとまどっていれば及川は床に膝をついて、そうして俺に身を寄せる。 キスをされているのだと気がついたのはしばらくあとだった。 くちの中でゲロくさい味がするからおかしいと思って、ぼうっとする頭でどうしてと考えていたらかすかに身を離した及川が俺を見つめてもう一度重ねてきたのでやっとわかった。いつのまにか両手は俺の腰に回されていて、いつもすぐそばで欲しくてたまらなかった及川の唇は俺の酸素を奪うようにぴったりとくっついている。 わけがわからないまま惚けていると、ゆっくりと唇を離した及川は「マッキーに見られていたから声を上げられなかった」のだといった。 「え……及川、あの、それって、」 「……マッキーの前で他の誰かに触られて感じるなんて、絶対にいや」 そう言って、及川は俺の手をとってみちびいた。ね、マッキー。ささやくような声で俺の耳にふきこむ及川の腰はかすかに浮いている。誘われるままスカートの上から触れるとその吐息はやはり熱を持ち及川の目は赤く染まるので、俺にはそのときようやくああとわかった。 及川は男に触られて堪えていたんじゃない。それを俺に見られる羞恥に耐えていたのだ。その現場を、俺に見られるのが嫌だったのだ。 瞬間いとおしさに息が詰まって、たまらず抱き締めてキスをした。及川の舌は突然のことにすこしおどろいて、けれどそろそろと俺を受け入れてくれる。嘔吐したばかりのそこはやっぱり苦かったがそんなのもうどうでもよかった。 「――明日からは電車に乗ってるあいだ、俺がずっとこうしてるからね」 背後からぎゅうっと抱き締めて告げると、息を乱した及川はシャツの前をそっと合わせながら俺を振り返ったが、うっとりとほほえんだだけでその首は振らなかった。 すっかりラメの剥がれてしまった及川の唇は、ゆっくりと甘い言葉をつむぐ。 「……遅刻のいいわけ、一緒にかんがえようね」 (2014.1124) |