影山♀×及川♀











あまい匂いがする。

そう思って振り返ると更衣室の端では、先輩の及川がリップを取り出してロッカーの鏡に向かっているところだった。

練習のあとの女子更衣室はあちこちでシューシューと制汗剤の香りをさせているのに、その匂いがすると影山にはすぐそれがわかるのだから不思議だ。胸元のボタンを留めながら、ひくりと鼻をひくつかせる。

ふわりとしたピーチの、それはおいしそうな匂いだった。パフェのてっぺんにのっているフルーツのような、食欲をそそられる甘さだった。単純な影山のお腹はその匂いを嗅ぐと、部活のあとの空腹もあいまってきゅううとかんたんに鳴き始める。

となりで着替えていた国見はちらりとこちらを見て、呆れたように唇の端を持ち上げた。べつにただお腹が空いているわけじゃないのにと影山はムッとしたが、賢い同級生に何を言ったところで口では敵わないのを知っているからフンとそっぽを向く。

すぐそばで甘ったるいイチゴの匂いがし始めたのも、本当はさっきから癪に触っていた。国見は及川と同じメーカーのリップクリームを使っているのだ。

以前なにを使っているんですかとたずねたら影山には舌を突き出すばかりで教えてくれなかったくせに、国見にはふたつ返事で教えてくれたらしい。

「及川さんと同じのもなんだか恥ずかしいからイチゴの味にした」

おそろいのリップを買った次の日国見はいつになく嬉しそうに話していた。

つい数ヶ月前中学に入学したばかりの一年生にとって発育の進んだ三年生はひどく大人に見えたし、その中でも女子バレー部をまとめる及川は気の強い明るい美人で、みんなの憧れだったのだ。

(……でも、)

憧れの及川は、影山にだけはやさしくない。
国見にはリップクリームを教えてくれたのに、他の子には勉強だって教えてくれたらしいと聞くのに、及川は影山にだけ、サーブの打ち方ひとつすらも教えてくれないのだ。なにかを教えてくださいと頼んでもいつもやだねとすげなく首を振られるだけ。

及川は影山のなにかがよっぽど気に入らないらしい。そうしてそのなにかがわかるほど影山は賢くもなかったし、意地悪をする及川に対して意地を張らずにいられるほど大人でもなかった。

リップクリームの名前はだから国見に聞いていない。いつかかならず本人に聞いてやるんだと思って今日も横目にじっと及川徹をにらむ。
そうするとロッカーの鏡越しにたまたま目と目が合って、及川はにやりと笑った。

(……?)

なにするつもりだろう、ぼーっと見つめたままでいたのをすこしして後悔した。薄いピンクを塗った唇で、及川は見せつけるように鏡にキスをしたのだ。

カアッと首から上に一瞬で血が昇る。中学一年生にとってそれはたまらなく扇情的に見えたし、数十人が着替えるこの部屋でそれが自分と及川だけの内緒の話なのだと思ったらなんだか頭がクラクラした。

鏡の向こうでリボンを結びながら、及川は悪戯の成功した子どもみたいな顔で笑っている。影山はうつむいてイライラとロッカーを締めた。お風呂場で未発達な胸をドキドキと洗うとき、今日はきっとさっきの及川のことを思い出すにちがいない。

及川さんは本当になんてひどい人なんだろうと思いながら、影山はそそくさと更衣室のドアを開けた。

+++

及川と二人きりになったのはそれから数日後、一学期の期末試験が近づいたある日のことだ。

バレー部の練習は午後の早い時間で切り上げで、あとは家に帰って勉強をするようにと顧問から言われていたが、半端な練習でなんとなく居心地のわるかった影山はひとりで学校の周りをしばらく走っていた。そうして夕方にもどった部室で及川と鉢合わせたのだ。

「あれ、及川さんいたんですか」

不思議に思って声をかければ、着替えをしていた及川はちらりと振り返り、
「トビオちゃんこそまだいたの」
と眉根を寄せた。いかにも面倒くさそうな表情にカチンときて
「どうして残ってたんですか」
と食い下がったが、及川はハアとため息をついて「カレシ」と短く言うので影山にはそれ以上なにも言えなかった。

及川がいろんな男と付き合っているらしい噂はウンザリするほど聞いていたし、その男のだれかひとりと及川が今までなにをしていたかなんて知りたくなかった。

黙って身体の汗を拭って、ゆるんでいた髪の毛のゴムを結い直す。胸のあたりまである黒髪は邪魔くさいから本当は切ってしまいたいのだけれど、そうしたら本当に男の子みたいになっちゃうからと母親が嘆くのでしかたなく後ろでひとつに結んでいた。

なんとなし気まずい沈黙のなか夏服のブラウスを羽織り、膝丈のスカートをウェストでパチンと留めてさっさと帰ろうと荷物に手を伸ばしたところで、しかし影山は不意に顔を上げる。

あの匂いだ。

ゆっくりと振り返ると、制服に着替えた及川はやはり鏡に向かってリップを塗っているところだった。影山と二つしか違わないはずなのに、唇をツンと突き出し薄目を伏せて塗りつける仕草はひどく女らしい。

やわらかなふくらみを帯び始めた及川のラインは薄っぺらい夏服に着替えるとよけいに際立って見えたし、おそらく二、三回内側で折られているスカートからつきだした脚はむっちりとして、筋肉だけがついた影山の棒きれみたいな脚とはまるでちがう生き物のようだった。

自分みたいにガサツで男勝りな部員も多い中で、及川は細かいところまできちんと手入れをして「女子」をやっている。なんだかそんなことを見せつけられたようで、影山はどこか居心地が悪かった。ぼうっと眺めていると視線に気づいた及川はちらりと見やって、それから、ああ、とうなずく。

「……なんだ、これのこと?」
「え?」
「トビオちゃん、どこのですかって前に聞いてきたじゃない」
「ああ、(及川さん、覚えてたのか)」

どうせ教えてはくれないんだろうなと思いながらそうですねと答えれば、及川はなあんだまだ気になってたのと満足そうにうなずき、それからかすかに笑う。

「いいよ。いっぺん、使ってみても」
「えっ」

思いがけない言葉だった。ホントですか、たずねようとして慌ててやめる。気まぐれな及川の機嫌がヘタな一言でプイッと変わってしまっては台無しだ。影山は吸い寄せられるように及川のもとへ歩く。

近づいてみると、差し出されたリップは驚いたことになんてことない、ドラッグストアに行けばどこにでも売っているようなそれだった。そういう店ではテーピングの類しか買わない影山ですら名前を聞いたことがある。受け取って思わずくんと匂いを嗅ぐと、頭の上で及川が呆れたように笑うのがわかった。文句を言おうと顔を上げて、しかし影山ははたと口を閉じる。

いつも気になっていたのは手の中のリップのはずなのに、なぜか今はそれを塗った及川から目が離せなかった。

人工的な蛍光灯の光にラメ入りのジェルが輝き、息をするたびかすかに震えるみずみずしい女の唇。

ついさっきまでそれを貪っていた誰かがいたのだと思うと、影山はもう止まれなかった。

手を伸ばして、やわらかな髪に触れて、すこし背伸びをして。そうして押し当てるようにちゅっと重ねる。

(――ああ、これだったんだ)

自分が本当に欲しかったものはそのときになって初めてわかった。それから、

ぱちん!

はたかれた衝撃に一拍遅れて気づき、左の頬には鈍い熱がじんと走る。及川は顔を真っ赤にしてこちらをにらんでいた。さっきまでゆるくまとまっていた髪は動揺にすこし乱れていて、きれいだな、なんて、どこかぼんやりと熱い頭で思う。

及川の言葉は反面冷たかった。
「なに、……なんのつもりだよ、ふざけないで」
「あ、えっと、あの、」
「……サイアク。帰る」
「! ま、待ってくださ、」
影山は慌てて及川の腕を掴んだ。

だって、それは、困るのだ。
「コレ」はとってもおいしいものだ。ひとくち食べただけではとても足りないと、今にも我慢が利かなくなりそうなくらいだ。

実際耐えきれずに手を伸ばして身を寄せたら今度は右の頬をしたたかに張られた。ちらりと掠めた及川の頬はリップクリームを塗っていないのにひどく甘い味がする。

このひとはまるで全身がお砂糖菓子でできているみたいだ。

(もっと、もっと――)

叱られるのも厭わず引き寄せて、ちゅう、ちゅう、と花の蜜を吸うように及川の唇を吸った。こんなにおいしいものがあるんだ、やわらかい感触を舌の先で恍惚となぞりながらぼんやり思った。

及川に彼氏がいることだとか、同性とキスをしている異常性だとか、そんなことどうでもよくなるくらい、それは気持ちのいいものだった。

しばらく没頭していると、今度は力のない手にもう一度ぺちんとやられたのでふと顔をはなす。目を開けてギョッとした。

及川は泣いていた。

大きなひとみからポロポロと大粒の涙をこぼしてあの気丈な及川が泣いていた。影山に奪われたその唇は、くしゃりといびつに歪む。

「っバカ、バカトビオ、」
「あ、あの、すみません、」
「初めてだったのに」
「え、……でも、さっきは彼氏って、」
「ぐす、あんなのウソだよバカ……トビオちゃんが走ってたの知ってたから、鍵締めずに待っててやったのに、」

ぐずりながらそこまで言って、及川はぴくりと肩を震わせた。余計なことを言ったと気づいた間合いのようだった。

及川はぐずっと大きく鼻をすすって鞄を引っつかみ、今度こそ部室を走り去る。影山はその背中を呆然とながめていた。

先輩を泣かせてしまった罪悪感、あるいはあの及川が泣いたことへの驚き、そして、ーーこんなにもおいしいものを自分しかまだ知らないのだという途方もない満足感で、身体中がふわふわとしているような心地だった。

いつのまに手のひらから滑り落ちていたのか更衣室の床には蓋を開けられたままのリップクリームが転がっていて、影山はぼんやりとそれを拾って持ち上げる。

あまい桃の匂い。ついさっきまではこれが欲しかったはずなのに、及川の味を知った今ではもう決定的になにかが変わってしまっていた。人工的な匂いと甘さのするリップを自分の唇にそっと塗りながら、あのおいしいものをどうやったらもっと食べられるのだろうと、そのことばかりを考えていた。







(2014.0805)