……あ、痛い。
そう気づいたときには両の手のひら鮮血が滲んで、そこには爪の数だけぱっくりと肉の抉れた傷があった。知らないうちにひどく強い力で握り締めていたのか、手首から先にはどこか痺れるような感覚がある。俺は慌てて制服のポケットからハンカチを取り出した。

(だって怪我すると岩ちゃんに叱られる)

身体のどこかに傷をつくると、痛いから血を止めなきゃとかそういう思いよりいつもその気持ちが先に立った。自分の怪我よりずっと俺の怪我に敏感な幼馴染は、昔からまるで母親のように口うるさいのだ。

新校舎の影に隠れて手についた血をぬぐいながら、俺はその横顔をそっと盗み見る。

新校舎と旧校舎をつなぐ渡り廊下で、岩ちゃんは見知らぬ男子となにかを親しげに話しているところだった。二人まではすこし距離があるから会話の内容までは聞こえないけれど、その表情がいつになく緩んでいるのはここからでも見える。よっぽど気の合う友だちなんだろう。そう思ったらまた手のひらに痛みが走って、そこには新しい傷が増えていた。

(ああ、もう、岩ちゃんに隠すのけっこう大変なのに)

内心で舌打ちをして、触れるだけでピリリと走る皮膚に何度もハンカチを押しつける。初夏の中庭はじっとりと汗ばんでよけいに気持ちわるかった。ぐ、ぐ、と押し当てて止血をしているうちに岩ちゃんと男子は手を振って別れる。別れ際までふたりは親しげでまったく反吐が出た。(いや実際に出ているのは血なんだけど)ハンカチを制服のポケットに押し隠し、俺はいかにも今来たふう岩ちゃんに声をかける。

「あっ岩ちゃん、ちょうどよかった部活いこ!」
「ん。おお、そうだな」

うなずいてとなりを歩きだしながら、岩ちゃんはかすかにそのツリ目をやわらげた。他の人が見ればどこが? といいそうなほどの変化だけれど俺にはわかる。

もう十何年毎日顔を突き合わせているくせに、それでも岩ちゃんは俺の顔見るたび嬉しさをその瞳に隠す。小一時間授業で離れていただけでも、休み時間に廊下ですれちがう岩ちゃんはほんの一瞬、ひどく嬉しそうな目をして俺を小突いて通り過ぎるのだ。

岩ちゃんのその目を見るたび俺は飽きもせずこの人のことを何十回、何百回好きになり、そうして同時に岩ちゃんにとっても自分が特別なんだとわからされた。この人がそんな目を向けるのは自分だけだと知っていた。

さっき親しげに話していた男子より俺のほうがずっと岩ちゃんに近いのはわかっていたし、もっといえば、他の誰より自分がこの人のそばにいることだってわかっていた。


けれど、それでも嫉妬する。

どんなに岩ちゃんの近くにいたって、さっきみたいに岩ちゃんと誰かが話をしているだけで、笑顔を見せるだけで、どうしたって腹の底がどろどろと熱くなる。

小さいころからすぐこんなふう嫉妬をする子どもだった。風邪を引き幼稚園をお休みして岩ちゃんが同じクラスのユウコちゃんとお見舞いに来てくれたときも、お見舞いが嬉しい反面俺の家まで岩ちゃんと二人で歩いてきたユウコちゃんがにくたらしくってたまらなかった。(二人が帰ったあとは高熱でふらふらしながら部屋の畳を蹴った)

独占欲はとしつきをかさねるごと重さを増して、中学で教科書を忘れたとなりの女と机をくっつけた岩ちゃんに泣きながら扱いて吐き出したときこれはもう生半可な友情なんかじゃないのだと知った。

高校に上がってからはいよいよさっきみたいにささいなことでも拳を握り締めてしまうことが増えたので爪先はいつも短く切るようにしていたのに、今日はたまたま忘れてしまっていて、だから、その日の部活はおかげで大変だった。

くだらない嫉妬で自ら傷つけた手のひらはバレーボールを弾くたびじんと痛んで、それを表に出さないよう引き攣らせた表情筋はいつもの何倍も消耗した。つまらないミスをすれば岩ちゃんに怪我がバレるから普段の何倍も練習には気を張ったし、休憩時間はひたすらポケットに手を突っ込んでつとめてニコニコと過ごさなければならなかった。

でもまあここまでしたんだからさすがに大丈夫だろう、そう思って練習を終え、気をつけ、礼、ありがとうございましたの号令を終えたところでポンと肩をたたかれた。何かと思って顔を上げれば

「及川おまえ、このあと第二倉庫な」

それは岩ちゃんが俺にお説教するときの合図だった。ここまでしたのに全然バレていた。岩ちゃんどうしてわかったの、手を突っ込んだままたずねれば岩ちゃんは首をかしげ、ふつうに見てればすぐにわかンぞと眉をしかめてさっさとポールを倉庫に運んでゆく。

「ねえ、マッキー俺今日ちょっと手に怪我してたんだけど見てて気づいた?」

片づけをしながら三年間の付き合いのチームメイトにたずねれば、マッキーはエッと驚いてそれから俺の心配をした。おまえが怪我すると岩泉がしばらく機嫌悪くなって俺らも大変なんだかんな、とも別れ際に言われたから、たぶん両手が治るまでこれから一週間くらいは「大変」なんだろう。マッキーごめんネ。内心で謝って第二倉庫のドアを内から閉めた。

古びた蛍光灯が時折チカチカと明滅する薄暗い倉庫で、ネットの整理をしていた岩ちゃんはくるりと俺を振り返る。話、わかってるよな、と岩ちゃんは言った。声音はいつもよりワントーン低い。怒ってる。どうしよう冗談ではぐらかそうか、そんなふう束の間逡巡したのがまずかった。岩ちゃんは俺のごまかしの気配に気づいたのだろう、小さく舌打ちをして正直に言えよと俺をにらむ。

「嘘ついても、オメーのなんかすぐわかんだかんな。……手、なんで怪我した」
「っ……その、べつに、たいした傷じゃないから、」
「そういう問題じゃねーだろ」
「ゴメンナサイ……。でも、ホントに俺の不注意でちょっと切っちゃっただけで、」
「――切った?」
「!」

余計なことを言った、そう思ったときには手首をつかまれ持ち上げられていた。室内は決して明るくなかったがそれでもそこには俺の自傷がはっきりと見える。俺の手をつかむ岩ちゃんの手がかすかに震えた。

「おまえ、これ、……どこがちょっとだよ、練習、痛かっただろ、」
「……ごめん」

あやまれば岩ちゃんは俺よりつらそうな顔をして引き出しから絆創膏をとりだした。怪我したときの緊急用にいくつかは倉庫に置いてあった。俺を引っ張ってマットの上に座らせ、岩ちゃんはその前に跪いて俺の左手に貼りはじめる。

「なんで怪我した」

岩ちゃんはもう一度しずかにたずねた。俺はぎゅうっと唇を噛む。だって言えない。岩ちゃんと知らない男がしゃべっているのに嫉妬して自分で傷つけたなんて口にできるわけがない。

岩ちゃんはすこし傷ついた顔で押し黙って、俺の手にそっと絆創膏を貼る。ぺたり、ぺたり。がさつで骨ばった男の手が、まるで宝物に触れるよう繊細な手つきで俺の手に触る。

左手を終えて右手を持ち上げて、ぺたり、また一枚貼って、それから、岩ちゃんはその身をふとかがめる。なにをと思っているうち、ぬるりとしたものが手のひらに触れてヒッと飛び上がった。驚いてサッと手を引くと、怪訝な顔した岩ちゃんは血が滲んでいたから舐めただけだと言ってまたその手をつらまえる。

俺は右手にできた心臓の音が岩ちゃんに伝わってしまうんじゃないかと心配だったけれど、絆創膏を貼り終えると岩ちゃんは黙ってすっと立ち上がった。

「及川、帰ンぞ」

背を向けて言われる言葉はすこし冷たい。怒っているというより、俺が怪我の理由を話さなかったのが悲しいみたいだった。
それでも帰り道岩ちゃんはそれ以上のことを聞かなかった。たぶん、何度聞いても俺が話さないってわかっていたんだと思う。

「岩ちゃん、ごめんね」

いつもよりぎくしゃくした帰り道の最後そう言って家の前で別れて、その日は布団をかぶって息をころして岩ちゃんの舐めた右手で抜いた。汚いぐちゃぐちゃに押し当てるたび傷口はじりじりと傷んで、けれどそれでも擦るのはやめられなかった。体育倉庫で俺のために怒る岩ちゃんを思い出すたび、手の中のものはびくりと震えて大きくなった。

呆れたはなしだ。岩ちゃんに怒られ、悲しい顔をさせておきながら、俺はどこか薄暗い喜びを感じてた。だって俺の知らないやつと楽しそうに喋ってた岩ちゃんが、そのときばかりは俺のことしか頭にないんだって嬉しかったんだ。ばかみたいだ。ばかみたいに興奮して何度も吐き出したあとそんな自分がいやになってすこし泣いた。泣いた跡がのこると明日また岩ちゃんに怒られるから顔をよく洗って、どうか跡がのこりませんようにって祈って眠りについた。


けれど翌日の朝、痕がのこっていたのは岩ちゃんのほうだった。

おはようと顔を合わせるなりぷいと横を向くので、なんでと思ってのぞけばその唇には痛そうに、真っ赤に切れた痕が痕がいくつもあったのだ。

「岩ちゃんそれ、どうしたの」

驚いて思わず聞いたが、岩ちゃんはなんでもないからと頑なだった。なんで? どうして?たずねるけれど、
「おまえだって昨日言わなかったんだから、俺だって話さなくてもいいだろ」
そう言われると俺にはぐうの音も出ない。

しかたがないからそれ以上は深く聞かず、けれど、その日一日なにか食べるだけ、練習の汗が染みるだけでも痛そうにきゅうっと眉をしかめているのでけっきょく辛抱たまらなくなった。俺が怪我すると岩ちゃんがつらいように、岩ちゃんが傷をつくると俺だってまるで自分のことみたいにダメなのだ。

たまらなくなったから部活の終わりにとうとうつかまえて、昨日と同じ第二倉庫に連れ込んだ。岩ちゃんどうして。問い詰めれば
「だっておまえだってなにも言わねえだろ」
やっぱり朝と同じ言葉が返ってくる。昨日はどうしたって話せなかったのに、今日は迷うことすらできずに口を開いていた。

「岩ちゃん、岩ちゃんごめん、俺、ごめんね、昨日岩ちゃんが知らないやつと楽しそうに話してたから嫉妬して、両手、自分で傷つけちゃったんだ」

口にすれば俺たちふたりが取り返しつかないのはわかっていたし、岩ちゃんに嫌われるかもしれなかったけれど、そうなることよりそれよりずっと岩ちゃんの怪我のほうが心配だった。

しかし俺の言葉聞いた岩ちゃんはしばしぽかんと口を開いて、それからなんだと肩を落とす。そうしてなんだか困ったようにその眉は笑った。

「? 岩ちゃん、なに、」
「いや、俺もさ、」

おまえが俺に話さなかったのけっこう落ち込んで、昨日、歯ァ食いしばったせいで自分で傷こさえちまったから。

きゅうっと切なげに、けれど今度はほっとしたよう寄せられた眉がどうしようもなくいとおしくて胸が痛かった。不器用な俺たちはふたりとも、お互いのため思って自分の身体に傷をつくっていたのだ。そう思ったらたまらなくてぎゅうっと抱きついていた。勢いがついて岩ちゃんの背中はドスンと重たくうしろのマットに沈む。

「岩ちゃんやだったら言って」

ささやいて唇をわずかになぞると岩ちゃんはうっと顔をしかめて、けれど唇を引くことはしない。ぱっくりと裂けたかわいそうな赤い裂傷。俺のための傷なんだと思ったらどうにもいとおしかった。積み重なった欲求ごと押しつけるよう岩ちゃんの傷に何度もキスをする。んっと苦しそうに、気持ちよさそうに眉根を寄せて岩ちゃんは俺の手をとった。ぎゅっとつかまれると岩ちゃんの貼った絆創膏の上からでもじわりと痛く、けれど離す気にはとてもなれない。

手をつないだまま何度もキスの角度をかえ、岩ちゃんこれからは俺のことだけ見て、ささやけば、岩ちゃんはそのツリ目をかすかにやわらげた。








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アニメ見てワーッってなって前に書こうと思ってたやつ勢いで書いたからすごいワーッってかんじです;;;
うう〜〜〜〜〜〜〜;;;;;;;;
(2014.0713)