及&岩←影(北一)です










低くてまっすぐ、きれいな音だ。
というのが、多分、この人に対する最初の記憶だったと思う。

同級生のボールを指先で打ち上げながら、俺は目の前で跳躍する大きな背中をぼうっと目で追った。健やかな筋肉のついた右腕はジャンプとともにボールへ向かって構えられ、そうして三色のボールに触れた瞬間一気に振り下ろされる。数人だけが残って練習している体育館にはドカッと重たい音が響いた。ネットの向こうに落ちたボールは何度か放物線を描いてころころと転がっていく。

キュ、キュ、と音立てて着地した岩泉さんは俺を振り返ると、
「影山、ナイストス!」
と笑顔を見せた。あざス! 頭下げてちらっと体育館の時計を見る。十九時をすこし過ぎたところだ。部活が終わってトス練を始めて一時間弱。まだ自分が望むとおりの結果はでてないけどこれ以上先輩を残らせるのもさすがに悪いかなと思っていると、俺の視線に気づいた岩泉さんはどうする? って先に聞いてくれた。

「おまえ、もうすこし残ってきたいなら付き合うけど」
「……いいんスか?」
「ああ、いいよ。気にすんな」

それじゃあと甘えてボールを持ち上げると、しかし「気にするよ」背後から不満げな声がそれを止めた。振り返れば制服に着替えた主将の及川さんが立っている。及川さんはポケットから取り出した鍵束を持ち上げハアとため息をついた。

「鍵、閉めんの俺なんだからさあ、トビオちゃんいいかげんにしてよ」
「及川んな言い方しなくてもいいだろ。影山だって熱心に残ってんだから」
「やだ、岩ちゃんトビオちゃんの肩持つわけ? 及川さん超傷ついた!」

ゼッコーだゼッコー! はあふざけんなゴラクソ川! 先輩二人がいつもの口ゲンカ始めてしまったので結局その日の練習はずるずるとそこで終わりになった。帰り道悪かったなと言って岩泉さんはガリガリ君を奢ってくれた。九月をすこし過ぎたけどまだ暑い夜で、かじったら冷たさの触れた部分から生き返るようだった。

そうして俺の家と岩泉さんの家(と及川さんの家)の最後の分かれ道で、明日も付き合おうかと岩泉さんはたずねてくれる。
「あざっス! お願いしァす!」
礼を言ってお辞儀をすると、岩泉さんの横であずきバー食べてた及川さんはムスッと顔をしかめた。

「岩ちゃんここんとこトビオちゃんの練習付き合ってばっかり。浮気はよくないよ!」
「なにが浮気だボゲ。おまえとは部活んとき好きなだけやってるだろが」
「そーいう問題じゃないもん!」
「あーわかったわかった、じゃあ明日はほら、昼休みいつものとこで付き合ってやっから。女バレもてきとうに呼ぶべ。……それじゃ、影山また明日な」

イーッと歯を出して俺をにらみつける及川さんに絡まれながら、岩泉さんは軽く手を振って帰っていった。いつもの練習をこなして俺の自主練まで一緒に残ってくれたのに、疲れたような顔ひとつしていないのだからいい先輩だと思う。

性格の悪い及川さんとちがって、岩泉さんはお願いしますと頼めばいくらだって練習に付き合ってくれた。部活ではレギュラーのウイングスパイカーなのに全然えらそうじゃなくてやさしくて、サーブもなんにも教えてくれないケチの及川さんより百倍くらいはいい人だ。

夏休み明けから自主練を頼むようになったのは、だから頼みやすかったというのもあるし、それからあの人がスパイク打つときの音が好きだったからというのも大きな理由だ。

岩泉さんは部内の誰より気持ちのいい音でトスを打った。力強くてどっしりしてて、まるで祭囃子の太鼓みたいにドン、と響くスパイクの音。広い体育館にいてもその音はたびたび聞こえてそのたび俺を振り返らせた。たぶん、気づいたときにはあの人のことを目で追うようになっていたと思う。

今の目標はだから俺のトスでもあの音を聞くことだ。初めて練習に付き合ってもらった日からそうだけど、俺が上げるとどうしてもあのきれいな音にはならないのだ。打ちやすい位置に上げているはずだが何がダメなのかいまいちつかめない。
(……いや、)
それでもと帰り道小さく首を振った。岩泉さんは明日も付き合ってくれるって言ってるんだ。もしかしたら明日はなにかコツがつかめるかもしれない。そうして自分の上げたトスであの音が聞けたらどんなに気持ちがいいだろう。ああすこしでも早く明日の自主練の時間が来たらいいのにと、坂道を行きながら、そう思っていた。

そうしてそれは翌日の昼、ノートを運ぶのを教師に頼まれてたまたま職員室に行った帰りのことだ。二階の廊下を通り過ぎようとしてふと窓の外から聞きなれた音が聞こえ、見下ろせば及川さんたちバレー部の先輩が渡り廊下のあたりでバレーをしているところだった。そういえば昨日岩泉さんがそんなことを言っていたっけと帰りの会話を思い出す。

地面はコンクリートで線も引けないので、男女数人の混ざったチームは二手に分かれて地面に落とした方が失点というルールで遊んでいるみたいだった。きゃあきゃあ言いながら打ち合っているのをなんとはなし眺めているとやがて予鈴が鳴って、先輩たちはぞろぞろと校舎のほうへと歩き出す。ああ俺もそろそろもどらなきゃと上履きを持ち上げた、そのときだった。

下駄箱へ向かってゆるく歩きながら、及川さんが笑ってなにげなく上げたボールを、岩泉さんは、それでもたまらなく幸せそうな顔で打ったのだ。

ドス、とその掌が打ち下ろされる瞬間、胸の奥ではなにかが弾けるような感覚があった。
あの人がスパイクを打つときあんな顔してるのは知らなかった。あのきれいな音が、あんな無造作に上げられたボールから聞こえるなんて、知らなかった。……知りたくなかった。

窓の下では及川さんになにごとか絡まれ、嫌そうな、しかし楽しそうな顔した岩泉さんがその頭を軽くたたいている。昨日はガリガリ君をほらと俺にくれたやさしい手のひらが今日はひどく遠く見えて、俺はゆっくりと上履きをひるがえした。

岩泉さんはやさしい。とてもやさしい。――そして残酷だ。

頼めばいいよと笑っていくらだってトスを打ってくれる。今のよかったぞと肩をたたいて褒めてもくれるし、明日も付き合おうかと次の約束をしてくれる。

でも、俺のトスを絶対にあの音では打ってくれない。
それは諦めで、絶望で、たぶん、確信だった。

たとえば一万回、十万回、あるいは百万回トスを上げたって岩泉さんはあのうつくしい音でそれを打ってはくれないのだと、俺にはどこかはっきりとした予感があった。岩泉さんがあのきれいな音で思いきり打つのは、きっと後にも先にも、及川さんが上げたボールだけなのだ。

そう思ったらなんだかわからないけど涙が出て、教室にもどる廊下で俺はすこしだけ泣いた。耳の奥ではあのきれいな音がしばらく反芻していて、あるいはその悲しみは初恋っていうやつだったのかもしれなかった。





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かなしいね
よく考えたら春に出した本とすこし関連あるかも
岩ちゃんは誰より気持ちいい音で俺のトスを打ってくれる〜みたいな書いたかもしれない
(2014.0511)