小さいころ、ガラスで出来たビー玉が好きだった。 キラキラして、日に透かすと宝石のようで、あるいは手のひらでころがすとアメ玉のようで、ためしに口に入れたら何してるのハジメと母親にこっぴどく叱られたのを覚えている。舌の上にのせたガラスはなんの味もしなくて、虫歯になりそうなものでもないのに怒られたからあの頃は不思議だった。ただ母親に叱られるのがいやだからもう口に入れるのはやめようとだけ幼かった俺にはすり込まれた。 赤いの、青いの、黄色いの。 お小遣いの小銭をもらっては、俺はせっせと駄菓子屋に行ってビー玉を買った。ときどき誘惑に負けてとなりのお菓子に手を出してしまうこともあったけれど、ガラス玉はすこしずつすこしずつ俺の机の引き出しにたまっていった。一番上の段、背の低いそれをスッと引くたびコロコロと音を立てて手前にあつまるビー玉は俺の宝物だった。 そうして、その中でもとびきり気に入っていたのが水色のひとつである。父親が出張のついでにたまたま見つけて買ってきてくれたそれは他のとちがって単純な色合いではなく、ガラスの中で複雑な模様を描いているから特別だった。もらった晩は嬉しくって、両手で握って布団に入ったものだ。それからもしばしば取り出しては手にとって眺めていた。幼かった俺のだいじなだいじなたからものだった。 子どものときのたからものっていうのは、しかし、気づいたときにはたいていどこかに行ってしまっているものだ。 俺の場合はトオルにそれをやった。 トオルというのはとなりの家に住んでる幼なじみで、昔っから女みたいに可愛い顔をした子どもだった。 年の離れた姉がいる末っ子のトオルは甘えた顔でおねだりするのが上手で、 「ハジメちゃんみしてみして!」 「キレーキレー! ねえちょうだい、おれにちょうだい!」 「ハジメちゃんのだからほしいんだもん!」 とうるさいのでくれてやった。大切にしてたものだったからすこし残念だったけれど、トオルにならいいやと思う気持ちも大きかった。 「えへへ、ハジメちゃんありがとお」 幼く短い歯のトオルが嬉しそうにそう言って笑う顔も、俺は水色のビー玉とおんなじくらい好きだったのだ。 「ハジメちゃん、だ〜いすき!」 幸せそうにビー玉をにぎりしめるトオルの手はその日から俺の新しい宝物になって、だから、わずか数日でトオルがそれをなくしたことだってゆるしてやった。 ごめんねえとぐずぐず泣いて許しを請う顔には、たぶん、子どもながらに興奮してたと思う。幼稚園でもだれよりかわいくって人気のあるトオルが、俺の前ではそんなふうに弱いところを見せるのが嬉しくて、俺はそのたびこいつにうんとやさしくしてやろうって思ったものだ。やさしくやさしく大切にして、ずうっと宝物にするんだって、幼い身体で、そんな決意を背負ってた。 十年近く経った今になってふいにそんなことを思い出したのは、あの日のビー玉がついさっき、たまたま俺の前に出てきたからだ。 及川――トオルと呼ぶのは恥ずかしいから中学に上がるころからこう呼ぶようになった――がジャージを脱ぎ、押入れにローションをとりにいったところで見つかった。いつもなら待ちきれずさっさと持ってくるはずが、あれっと声を上げるので何かと思えば足下にはなにかの拍子で二つに割れたらしいガラスがころがっていた。 いつのまにか紛れ込んでたんだねえ、踏んだりして怪我してないか、うんだいじょぶそれより続きしようよ、うながされるまま組み敷いてその腹の上に乗ると、及川は赤い目を細め、うっとりした顔で舌なめずりをした。中学生のころに行為を始めてからというもの数年、こいつはこれが大好きだけれど、その中でも今日は特別な意味で歯止めの利かなくなっているのがその表情からわかる。 やりきれない気持ちでその首筋に噛み付いた。幼いころの華奢さを失い、かわりに日に日に精悍さを増してゆく男はうっと低い声でうめいて顎をのけぞらせる。はやくして、掠れた声とともに押し付けられるボトルを受け取って、俺は無言のままその脚を持ち上げた。 運動をしたあと、特に、バレー部の試合のあと、及川はひどく興奮する癖があった。それだけならべつにかまわない。ケツに突っ込んで二、三回抜いてやればこっちだって気持ちいいし、及川だって岩ちゃんきもちー大好きとへらへらしてそこで終わる。 でも今日はちがった。 高校に上がって二回目、今日は一年ぶりの、白鳥沢学園との試合の日だった。白鳥沢には中学の頃から因縁の、俺たちの宿敵の牛若がいる。及川の宿敵ではない。俺たちの宿敵だ。 初めて牛若に敗れた日、及川はひどく絶望した顔をした。打ちのめされた、傷ついた、憔悴しきった顔を見せた。及川はあの日、一生消えない傷を牛若につけられたのだ。当時は一年でまだバレー部のレギュラーをとれず、コートの脇で応援していた俺は呆然とそのさまを眺めることしかできなかった。 自分の大切なものが傷つけられるのを、横で見ていることしか俺にはできなかったのだ。及川にとってあの日が絶望であったように、俺にとってもあの日はそうだった。 あれからあいつに勝てたためしは一度もない。試合に負けても俺がとなりにいれば及川があの顔を見せることはなくなったが、かわりに二人きりになったあとひどくねだられるようになった。 「岩ちゃんとすると安心するの」 といつだったか言っていた。たぶん、本心からの言葉なんだろう、膝の裏を折りたたんで腰を深く入れると、及川はたまらなく幸せそうに俺の首を掻き抱いた。 「すき、すき、岩ちゃん、すき」 腕の中の及川は甘えた声でそればかりをくりかえす。そうすれば俺が、もっとやさしく自分を抱いてくれると知っている。悪さをすればそのときは叱ったけれど、結局のところ子どものころからずっとこいつのことを甘やかしてきた。だからこそ及川は手放しで、男のプライドさえもかなぐり捨てて俺に甘えてくる。もっとして、もっとして、とふにゃけた目をしてねだってくる。 俺はその顔を見るたびこいつがたまらなくいとおしくなって、もっともっとしてやりたくなって、そうして、――傷つけてしまいたくて、しかたがなくなるのだ。 「っ……!」 奥深くを抉るようにぐっと突き上げると、及川はびくびく震えて声にならない叫びを上げた。そのまま弱いところを責めれば、息をするのさえ必死なように及川ははくはくと短い呼吸をくりかえす。見上げる目じりには生理的な涙がたまっていて、よけいに凶悪な気分にさせられた。抱えていた両脚を限界まで開かせ、がつがつと打ち付ける。やだ、やだ、と足首がばたついたが無視してそのまま続けた。 及川があの日一度だけ浮かべた表情に、俺はたまらなく嫉妬していた。 牛若の前で見せたあの絶望の顔を、傷ついた目を、本当は俺も、及川にさせたかったのだ。俺以外の男の前でしか見せない表情がこいつにあるのが許せなかった。牛若だけがこいつを傷つけられるのが許せなかった。俺だって及川を傷つけたかった。めちゃくちゃにしたかった。 制止の声も聞かず欲求のままに組み敷いた男を抱き潰す。岩ちゃん、もういや、もうだめ、腹筋を白濁でどろどろに汚した及川は首を横に振ってそう言ったけれど聞かなかった。及川を傷つけたかった。傷つけたかった。 ――でも、できなかった。 「おねがい、岩ちゃん、やめて」 ポロポロとガラス玉みたいな涙をあふれさせ、こんなときまで俺を傷つけまいと爪を立てず必死に指の腹で背中にすがりついてくる及川を見下ろして俺はそれ以上をできなくなった。動きを止めると及川はしゃくりあげて、俺の背に回した腕にぎゅっと力をこめる。振り乱した髪はぐしゃぐしゃに崩れ、泣き喚いたせいでその顔は疲れ果て、つながったところはどうやら途中で切れたのか及川のシーツには点々と赤いものが散っていた。 「及川、わるい、怖かったか」 「ぐずっ、……ううん、岩ちゃん、岩ちゃんなんにも怖いことなんてないよ」 「……うん、そうか。ごめん。ごめんな」 涙の筋が残る頬をそっと撫ぜると及川は鼻をすすり、それから甘えた顔で俺にキスをした。ううん、いいの、岩ちゃんならなんでもいい。そう言ってまたきゅうと締めてくる。息を吐いてやりすごし、今度は及川の好きなところをゆるく穿ってやると掠れた声はそれでも嬉しそうにあんと鳴いた。浮かんだ涙は指でぬぐって今度はいつもどおり、――いつも以上にやさしく及川を抱く。及川はいやだと首を振るわりに幸せそうだった。 けっきょく俺は今日も及川を傷つけられなかった。何度だって試してみるのにやっぱり両腕に抱いた身体はなにより大切で、どうしたってだめだった。 八畳間の隅にころがったガラス玉みたいにこいつのことを傷つけられたらどんなにかよかったのにと、及川の頭を撫でながらそう思った。 (2014.0202) |