及川→岩ちゃん。岩ちゃんの彼女が出てくる鬱な話なのでご注意ください







カチャカチャ、カチャリ。
慣れた手つきで玄関を開けると、幼馴染の家には水道を使っているときのどこか遠い水の音が響いていた。バシャバシャと廊下の向こうでときおり聞こえる飛沫はおそらく朝風呂にでも入っているそれだろう。たたきにスニーカーをそろえてそっと廊下に上がり、俺はルンと鼻歌を口ずさんだ。

日曜の朝突然に岩ちゃんの家をたずねて、驚かせてやるつもりだった。
だって今日は久々に部活がお休みなのに、いつものように泊まりにいくねって言ったら岩ちゃんにめずらしく断られたのだ。俺のお願いならめんどうくさそうな顔してもたいてい「しょうがねーなー」って言ってくれるのに昨日の岩ちゃんは頑なだった。

だから腹いせというのもあったし、単純にびっくりした顔を見てやりたかった。
岩ちゃんの大きな目がまんまるになってそれからむっとして、
「しょうがねえやつだなあ」
俺のわがままを許す時ともすこしちがう、呆れたような叱るような声音でそう言って頭をぐしゃぐしゃにする岩ちゃんが好きだった。おんなじ言葉なのにどれを言われても嬉しくなってしまうくらいには岩ちゃんが好きだった。大好きな岩ちゃんにひとしきり怒られて反省したふりをして、ごめんごめんって笑いながら戸棚の下のホットケーキミックスを取り出して焼いて、それから岩ちゃんの好きな甘い卵焼きも添えてあげるつもりだった。

玄関の突き当たりの扉を開けて、だから俺はぴたりと固まった。
今日、居間には誰もいない。朝食を作るおばさんはおじさんと一緒に久々の旅行にいっていて、岩ちゃんのお姉ちゃんは彼氏の家に泊まりに行っている。だから家には岩ちゃんのほかに誰もいないとそう聞いていた。そのはずだった。

でも、いた。
そこには長い黒髪の、ポニーテールを頭の上ですっきりと結った少女が立っていた。俺が遊びに来たときいつも使う白いエプロンを華奢な身体にすんなりまとってすこしばかり裾を余らせて、キッチンの前に立っていた。

ざわり。背筋が戦慄いて嫌な予感が駆ける。いや、ちがう、そうじゃない。きっとこの人は岩ちゃんのお姉ちゃんの友だちなんだ。お姉ちゃんは彼氏の家に行くって聞いていたけど、もしかしてあれは俺の覚えちがいだったのかもしれない。そうだ、きっとそうだ、必死に頭の中でそう整理をつけようとした瞬間しかし彼女ははにかんで、小首をかしげてこう言った。

「あの、はじめまして及川さん、ですよね? わたし、はじめ先輩からいつもお話は聞いてて……あ、えっと、はじめ先輩とは先月から付き合ってて、それで――」

ろくろく聞き取れたのは、ほとんどそこまでだった。彼女は岩ちゃんと自分のことをなにかせいいっぱい愛想よく話していたがそんなのどうだってよかった。興味もなかったしきもちわるいとさえも思った。足がガタガタと震え膝が笑って、頬から作り笑いと血の気の失せてゆくのがわかる。

悪い冗談なんじゃないかと思った。
あるいは岩ちゃんが俺のためにわざわざ用意した悪ふざけで、彼女はただの友だちかなにかで、たとえば、たとえばそんなことなんじゃないかって思いたかった。昨日の部活のあと岩ちゃんが俺を必死に拒んだ理由を、考え至りたくなどなかった。

しかしはっきりとした輪郭を持った彼女は一言で俺を現実に打ちのめす。

“いやだ、卵焼きが焦げちゃう”

それは、俺が岩ちゃんに作ってあげるはずのものだった。好きな食べ物を聞かれて一番目はすこし家庭っぽくて恥ずかしいから、格好つけたいとき岩ちゃんが答える二番目か三番目に好きなものだった。

ああ、この子は本当にあの人の彼女なのだ。

それはひどい衝撃で、頭をガツンと殴られたような気分で、鼻の奥がつんと痛いと思ったら焦げ臭い匂いが鼻をついて、匂いの元にふと視線を遣って、そうして思わず唇の端がゆるむ。

「岩ちゃん、卵焼きはお砂糖のしか食べないんだよ」

気づいたときには口走ってしまっていた。慌てて火を止められたフライパンの横にはお塩の瓶が置いてあったから。彼女はそのことまでは知らないんだって嬉しくなったから。俺の方が岩ちゃんのこと知ってるって、優越感だったから。

菜ばしを持っていた彼女はぴたりと動きを止めて、それから、ヘンなものを見るような目で俺を見た。言った意味がわからなかったのかな、そう思って塩のやつは嫌いなんだよと俺がいうと、二重のぱっちりした目はびくりと震えて、そうしてポロポロと涙をこぼし始めた。泣きたいのは俺のほうなのに。

小鹿みたいにぷるぷるしてポニーテールを揺らす彼女の泣き顔はみっともなく汚くて、岩ちゃんはこんなののどこがいいんだろうとぼんやり考えた。まるでわからなかった。えぐえぐ響く耳障りなすすり泣きと、やっぱり焦げ臭い卵焼きの匂いに包まれ呆然と立ち尽くしているとお風呂を上がった岩ちゃんがやってきた。

俺を見てびっくりして彼女と二人見比べて、そうして俺を振り返る。
「おまえ、何した」
聞いたことないような怖い声だった。お腹の中がひっくりかえるほど俺はおどろいて、思わず口ごもってしまう。(だって、俺と誰かをくらべたとき岩ちゃんが俺を責めることなんてこれまで一度もなかったから)

「あの、あの、たまごやきがね、」
それでもなんとかもごもごいうと、岩ちゃんは苦虫を噛み潰したような顔して舌打ちをした。びく、と肩が震えてしまう。岩ちゃんはいらいらと俺の前をとおりすぎた。すれちがいざま

「廊下行ってろ」

とひどく冷たい声が言った。ちがうとか、俺じゃないとか、いいたいことはたくさんあったのに逆らえなかった。逆らうことを一切ゆるさない声音だった。重たい足をのろのろと動かしてなんとか廊下の方に足を向けると背中のうしろでは

「今は塩のほうが好きだから」

と岩ちゃんが嘘を吐くのがきこえて俺は耐えられずガチャリと扉を閉めた。廊下にはほんわりとした湯気の名残と岩ちゃんちの石鹸の匂いがあって泣きたくなった。だって、岩ちゃん朝風呂はめんどうくさいし好かんって言って、朝に入ることなんてほとんどないのだ。はにかむ彼女の首筋に、虫に刺されたような跡が残っているのだって見たくないけど見てしまった。

つまり、「そういうこと」だ。岩ちゃんは俺といっつもゲームをするベッドで、泊まりに来たときは俺を寝かせるシーツの上で、組み立てすら数年前ふたりでしたその家具の上で――。

すべてを思い知ったとき、背後ではガタリと音がした。すりガラスの扉の向こうでは寄り添っていた人影の片方がこちらに歩いてくるのがぼんやりと見える。昨日まで誰よりも近くで笑っていたその人が曇ったガラスのせいでなく遠いところにいってしまったのが、俺にはそのときようやくわかった。








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フェチっていうところで結構色々、女体化とかNTRとか色々考えたんですけど最終的にはわりとシンプルなところに落ち着きました。及川の絶望フェチですね。とても好きです。バッドエンドも最近は大好きです
この話は以前ちょっとつぶやいていたもので、でもこんな誰の得にもならんもん絶対書かないな〜ハハハって思っていたので、今回書く機会があってよかったなあと思います
(2013.1223)