花→岩→←及









一、花巻

深海の生き物の図鑑と、星座の歴史のあいだ。
分厚い本が並ぶ本棚を背にして窓辺からは隠れるように、だれにも見つからないようにそっと身をよせて俺たちはキスをする。

ちゅ、ちゅ、と重ねてから舌を入れれば岩泉はびくりと身を震わせ、それからぎゅうっと大きな目をつむった。恥ずかしさに耐えられないのか、あるいは別の理由なのかはわからない。わからないけどおもしろくない。

ちらりと脚の間を見下ろして膝をくっと割り入れ、制服の上からそこを擦る。

「! っ、は、なまき、」

岩泉は短く息を吐いて咎めるように俺をにらんだ。赤くなった目元にそそられ同時にひどく満足して、フラフラとおぼつかない腰を両手で抱いてやる。

「ね、触ってやるけど本、汚したらだめだからね」
「あっ、わ……わかっ、てる、つうの……」

耳たぶかじられるとすぐへにゃへにゃになるの、おまえやばいから直した方がいいよ。そう思うけど口には出さずジッパーに触れてやる。んっと息を飲む音は静まり切った図書室に響いていやらしかった。

「な、俺のも触って」

耳の内側をぺろりと舐めながらその手をつかんで押し当てれば、とろんとしはじめていた目は途端にばちりと開かれ掌は強張っておかしかった。高校に上がってもう二年もこんなことをしているのに、岩泉は未だにこれに慣れない。どこかぎこちない手が困ったようにそろそろと撫でる刺激はもどかしく、けれど、どうしようもなくいとおしかった。


岩泉と初めてこういうことをしたのは一年の夏だ。

俺たちは部活で知り合って数か月の同じポジションで、クラスのちがう友だちでそして同時におなじ図書委員でもあった。

「いかにも体育委員みたいな顔してんのになんで図書委員よ?」

初めての委員会の日たずねれば「楽そうだったから」と率直な言葉をめんどうくさそうに返した岩泉を俺は気に入って、そうしておなじ曜日の図書室当番に手を挙げた。

幼馴染の及川と一緒にいるときはいつも及川を叱り飛ばす側で、俺はてっきり真面目な堅物なんだと思っていたからそのギャップがおかしかったのだ。

四月、五月、六月七月、毎週木曜の昼休み俺たちは図書室の受付席に座っていろんなことをした。クラスにどんなカワイイ子がいるとかふつーの話をすることもあったし、あるいはあまりに利用する生徒が少ないときは真剣腕相撲勝負とか、互いのイスの高さ下げ合ってそんだけでバカ笑いすることもあった。

二人でいるときの岩泉は及川にツッコミ入れる必要がないせいか、いつもより気楽に騒げてるバカってかんじで楽しかった。結構おつむ弱いからなにを言ってもだいたい「マジか」って真顔で信じてくれるのもおもしろかった。

俺はだんだん木曜日が楽しみになった。
岩泉だってそうだろうって、思ってた。

及川くんと一緒にいるときの岩泉はたしかに楽しそうだけど、でも、きっと岩泉にとっても俺といる木曜日は特別にちがいないってそう誤解してた。
そうしてその誤解をぶつけたのが夏休みのあの日だ。来る人もいないのにめんどくせーなって二人でぼやいてた図書室の開放日だった。案の定この暑い中本の貸し借りにくる奇特な生徒は朝からゼロで、俺と岩泉は早々に図書委員の業務を放り出してくだらない話をしていてその流れで俺は聞いた。

「ねえ、岩泉は好きなコとかいるの」

ぼんっ、と途端に赤くなる顔はおかしかった。(ああいるんだ)返事はひと目でわかって笑いながら誰よと肘で小突くと、しどろもどろの岩泉は貸出カードを入れる棚を思い余って倒してしまう。

しょうがないなと立ち上がれば自分でやるからと伸ばした岩泉の手に引っかかって俺まで椅子に足をとられてこけてしまった。ドミノ倒しみたいに岩泉もこけて、絨毯の床に二人で尻もちついてなんだかバカみたいだなと思った。思ったそのとき蚊の鳴くような声で「おいかわ」と岩泉は言った。

一瞬意味がわからなくて、いつのまにか身体の力が抜けていて岩泉の顔はあいかわらず真っ赤で、遠くできこえる蝉の声がやけにうるさくて、ああ、うるさいな、そう思いながら岩泉にキスをした。(頭はろくに回っていなかったけど、たぶん俺はあのとき岩泉のことを好きなんだってはっきり自覚したんだと思う)

岩泉はぽかんとまぬけに口を開けてなんでって聞いた。自分でもなんでかわからなくてただ呆然と、及川くんともこういうことしたいの、たずねれば岩泉はすこし考えて首を横に振った。

「及川は、そういうんじゃない」

打ちのめされるような気分だった。岩泉にとって俺と及川ではなにもかもがちがうのだとただ一言でわからされた。俺はつかのま唇を噛み締めて岩泉の半袖をぎゅっと握って、それから、――笑ってキスをした。

「じゃあ、こういうことは俺としようよ」

友だち同士でこんなこと、と岩泉は言ったが反対にどちらにも彼女がいないんだからとてきとうに言えば頭の足りない岩泉はそれもそうかとやっぱりうかつにごまかされてくれた。

性には興味しかない年ごろだった。キスをしてさわりあって興味本位で舐めてみて気持ち悪さに顔をしかめて、俺たちはかんたんにそれにはまった。そうしてそれからは図書室に人のいないのを見計らっては鍵を閉めて、本棚に隠れてこういうことをするようになった。


「――ッ! ……った、」

ガリ、と咎めるよう首筋に歯を立てられ、俺は慌てて岩泉の肩をつかむ。岩泉はすこし不機嫌そうな顔をして俺をにらんでいた。思い耽って手を止めていたのがいかにも不満げだ。ごめんと笑って握りこむと岩泉は汗ばんだうなじを背後の本棚に押し付けて善がった。本の背表紙が汚れてしまう、思うと同時にこんなに感じてる顔を「あいつ」は知らないのだと優越がにじんでたまらなくなる。

仰け反るあごにキスをして制服のポケットからハンカチを取り出した。普段はご丁寧に毎日持ち歩いたりなんてしないけど岩泉と同じ当番になる木曜はかならず持ってる。ティッシュだと捨て場所に困るけどハンカチならあとで洗ってどうにでもできるから。

どろどろになった互いのそれに押し当てて抜くと岩泉は強く唇を噛んで声を押し殺した。図書室の鍵は閉めてるし図書室のある旧校舎は本校舎から遠いのに、こういうときの岩泉はなにか罰にでも耐えるみたいな顔をして悲鳴を上げまいと我慢するからもえてしまう。うっすらと涙の滲む目元にちゅっとやってとびきり弱いところを責めた。

「っ、……ぁ、」

歯を食いしばって震える岩泉が俺のハンカチを汚して胸にもたれかかってくる。おなじくらい汚いものを吐き出しながらふうふうと荒い息を吐いて俺はその腰を支えた。表情が見たくて肩口で持ち上げると、岩泉はひどく切ない男の顔をしてなにも言えずに俺を見返してくる。

五限はサボったのにもう一限いってしまいそうで、俺は慌てて身を離した。くたりと本棚にもたれる岩泉の性器を拭いてしまって、自分の前もきちりと片づけて絨毯にわずかにこぼれた名残をぬぐい去る。

はなまき、掠れた声で岩泉が呼ぶので顔を上げればキスされた。ちゅ、と軽く落とされる唇にはまだかすかに先ほどの熱が残っていてぞくりとする。こういうことしたあと岩泉はときどき甘えるようにやってくることがあるのでかわいかった。汚れてない方の手で頭を抱いてやろうとしてしかし止まる。

ふと、うなじに視線を感じたような気がした。

くるりと振り返ってもそこにはいつもの本棚があるばかりなのに、そんな気がした。岩泉はいつものよう手を伸ばしてくれない俺を不思議そうな顔で見上げてくる。

「どうかしたか?」
「……いや、ううん、なんでもない」

あっていうかこの前借りたエロ本今日持ってきたから返すわ。思い出して言えばそういうこと今いうんじゃねーよって腹パンされた。ヘンなところでムードとかそういうの気にする細かいとこ、けっこう好きだった。

   ***

二、及川

うそだ、うそ、ぜったいうそ。
そうじゃなかったら夢なんだ、どこかに出口があるはずなんだ。

そう思いながら走っていた。出口はどこにあるかわからないから学校中を、ばかみたいに上履きでバタバタと走っていた。

たった今目にした光景は本当にまるで悪い夢みたいだった。幼馴染の男と自分の友だちの男が抱き合ってるなんて、だってそんな、そんなの、きもちわるい。

(そうだ、トイレに行かなきゃ)

混乱する頭と重たいお腹でそれだけは明確にわかって近くにあった男子トイレに慌てて駆け込んだ。旧校舎のトイレは古くてかびくさい匂いがして、でも今の俺にはそれどころじゃなくただただ個室に飛び込んだ。二人が追いかけてくるはずはないのに、鍵がちゃんと閉まっているか何度も確認してようやくぜえはあとしゃがみこむ。両手で顔を覆うとひたいから伝い落ちた汗が気持ち悪く、心臓はまだバクバクとうるさく鳴っている。手で覆って両目をつむっても脳裏に焼き付いたそれは、ちっとも消えてはくれなかった。

五時間目は自習でひまだったから、購買に牛乳買いに行くついでに岩ちゃんのクラスでも覗いてやろうってなんとなし思った、そんなささいなことがきっかけだった。のぞきこんだ五組幼馴染がいるはずの席にその姿はなくてあれって首をひねってそうして思い出した。

(そっか木曜日は岩ちゃん、図書委員の曜日なんだっけ)

マッキーと一緒に当番してるの前にからかいに行ったことあるから覚えてた。岩ちゃんが図書委員とかなんかゴリラがショートケーキ作ってるみたいな違和感だよネ〜ってそんなバカなこと言って殴られたのだって記憶に残ってる。マッキーとそのままサボることがあるのはそのとき聞いてたからもしかして今日もそうなのかな、じゃあ俺も合流しちゃえなんて、かるい気持ちで旧校舎に足を向けた。

そうして、見てしまった。

人間って、どうして開けたらいけないものほど開けちゃうんだとおもう? 俺は今日わかった。ただ、開けたいから。それだけなんだ。俺もただそうしたかったから図書室の鍵を開けた。内側から閉まっていたけど、古いドアだったからヘアピンを突っ込んでぐちゃぐちゃやったら開いてしまった。もしも鍵をかけてサボってるんだとしたら、驚かせてやれるって思った。得意だった。得意な気持ちでそうっとドアを開けて、そうして目玉を見開かされた。

岩ちゃんとマッキーはぴったりと身体をくっつけて、くちにするのもおぞましいようなことをしてた。いつもはきちんと着ろやって俺の制服を叱る岩ちゃんがシャツのボタンを胸まで開けて、マッキーにねだるように突き出していた。マッキーは慣れたふうな顔で笑って、それに吸い付いていた。

生徒が学ぶための部屋にはぐじゅぐじゅと濡れた音が響いてそれは二人のあいだから生まれていて、俺は力を失って思わずドアを閉めてしまいそうになり慌てて右手に力を込めた。込めてからなんでだろう、こんなもの見たくないのにって、思ったけれどそらせなかった。目の前で二人の同性がみっともなく擦りつけ合う行為から目が離せなかった。

幼馴染のあんな顔を見るのは、初めてだった。

岩ちゃんとはほとんど胎児のころからお母さん同士仲が良くて一緒で、幼稚園も小学校も中学も、俺は未だ短い人生のしかしおおよそほとんどを共にしてきたのに岩ちゃんのあんな顔を見たことはなかった。ようすから察するにマッキーがおそらく何回も、何十回も目にしたであろう岩ちゃんのあの感じ入った顔を、俺は今日まで見たことがなかった。

気が狂いそうだった。
色っぽかった。うつくしかった。汚いのに浅ましいのに、いやらしいのにきれいだった。十八の誕生日をつい先日迎えた幼馴染は俺の知らないうちにぐっと大人の男の色香を増して、しかしどこかあどけなさを残した顔で苦悶の表情を浮かべていた。俺じゃない男の手で責められ興奮している顔だった。

二人はいったいいつからここで、「図書委員」の仕事をしていたんだろう。そう考えると頭がおかしくなりそうで、足下からなにかがガラガラと音を立てて崩れていくような、そんな絶望感に見舞われた。

それでも凝視する俺の前でふたりはいった。張りつめていた糸のまるで切れるようにぐたりと岩ちゃんはマッキーにもたれかかり、そうしてふたりは恋人のように見つめ合ってあと片づけをしてそれからキスをした。岩ちゃんからのキスだった。もうだめだった。限界だった。

俺はその場を走って逃げた。泣きたいような叫びたいような気持ちで、でもそうしたら岩ちゃんたちに気づかれてしまうかもしれなくて、こわくて、こわくてひたすら走ってこのトイレに逃げ込んだ。落ち着いて古びた洋式にすがりついたってまだ歯がガチガチと震えていた。

俺はたまらなく勃起していた。
もしかしたら知らないうちに射精していたかもしれなかった。制服の前は先走りだかなんだかよくわからないもので湿って気持ち悪くてたしかめたくもない。けれど幼馴染の善がる顔を見て、俺はたしかに興奮していたのだった。

ぼたり、ぼたり。涙か汗か入り混じったものは手のひらのあいだをすり抜けて落ちて、俺はみっともなくしゃくりあげながら岩ちゃんのことを思った。

岩ちゃんはマッキーのことが好きなんだろうか。(たぶん、そうだ)だとしたらいつからだろう、どうして俺には打ち明けてくれなかったんだろう。(俺はそんなに信用がおけないの)それに、それに、――俺は岩ちゃんのことこんなに好きなのに、どうして今、気づいてしまったんだろう。

これまで幼馴染のことをこんなふうに思ったことはなかった。こんな、考えるだけで胸がぎゅうっとするような気持ちになったのは生きてきて初めてのことだった。きっと最初の恋だった。芽生える前には終わっていた。岩ちゃんのことが大好きだった。もうほかのだれかのものだった。大好きだった。

岩ちゃんが吐精する瞬間の顔を思い出して震える手で俺は下着からとりだして触って、数度擦っただけでどくりと吐き出した。好きな人を汚しながらいくのってこんなに気持ちいいんだ。涙に霞む視界で、ぼんやりとそう思った。

   ***

三、岩泉

おう、及川部活行くぞ。
いつもみたいにそう言うはずだった。けれど及川の教室を開けて
「及川くんなら早退したよ」
と、けろりとした顔で近くの女にそう言われおどろいた。聞けば六時間目の途中に具合がわるいからと言って帰ったのだという。あいつがこんなふうに俺に黙っていくことなんてないからずいぶんおどろいてメールを打った。俺からはめったに送らないメールなのに及川からの返事はない。なんだ、こいつはよっぽど調子がわるいんだな。朝会ったときはピンピンしていたのにと思いながらひとり部室に向かう。

と、階段の途中で花巻と鉢合わせたので合流した。ついさっき図書室で別れた男はふああと気の抜けたあくびをして、そういえばさあと人のいない渡り廊下で口をひらく。

「な、さっきの図書室のカギ、俺、ちゃんと閉めてたよね?」
「? そうだろ。てかそうじゃねえとやべーじゃん」
「だーよなあ?」

でも、なんか、開いてたんだよねえ。うーんと首を捻る花巻をじろりとにらむ。

「バカおめ、誰か人でも来たらどーすんだよ」
「だっ、からちゃんと閉めたっつったっショ!」
「うそこけ。だったら開いてるわけねーべ」

ちゃんと閉めたのになァ。首を捻り花巻はまだぼやくのでもうやめようぜと首を振った。部室は一歩一歩近づいていたから誰に会話を聞かれるとも限らなかったし、あの部屋での話を、あまり他の場所ではしたくなかった。


花巻と初めてあれをしたとき、最初に思ったのはああ、及川もこんなかんじなんだろうかということだった。面と向かってる相手に失礼にもほどがあるが、花巻だって俺が及川を好きなのだと聞いた上でしたんだからおあいこみたいなものかとも思う。

花巻は当時から及川とほとんどぴったりおんなじ背丈、似たような体重だった。背格好が似ていて仲もよかったし、先輩たちにはときおり名前を間違われることもあったくらいだ。花巻のことはだからそれなりに好きだった。俺は小さいころからずうっと及川のことが好きだから、それにどこか似た部分のある人間のことはたいがいそうだった。

だからキスをしたときも、触り合ったときも思わず想像したのだ。及川もこんなふうだろうか。こんな熱っぽさでだれかにキスして、俺じゃないだれかを愛するんだろうか。そう思うとたまらなく興奮した。

及川が俺のことをただの幼馴染にしか見ていないのは誰より知っていたのだ。承知の上で好きだった。花巻とする行為をすんなり割り切れたのも、たぶんそのせいだっただろう。及川が俺を好きになることはない。付き合うなんて夢のまた夢だ。そう諦めていたからべつに花巻とのそれを及川に対する裏切りだとは思わなかった。

「気持ちいいんだし、べつにいいじゃん」

花巻もそう言ったからそのとおりだなと思ってずるずると何度もやった。花巻の手はいつだって俺をたまらなくいい気分にさせた。

でも途中から、たぶん二年生ぐらいから花巻はもしかして俺のことを好きなのかもしれないと思うようになった。及川からはよく鈍いと言われるけど、さすがに一年くらい経ったら俺でもそうじゃないかとうすうす感じるようになってきたのだ。向けられる熱っぽい視線も抱き寄せる掌も、決して欲情のためだけじゃないと思える瞬間は何度もあった。そうしてそれに気づいてからはすこしだけ、花巻に対して申し訳ない気持ちになった。

俺はきっと、花巻の気持ちを利用している。たぶん、まちがってないだろう。だから良くされるとすこしとがめられるような気分になって、キスされると反射的に目をつむってしまうよう、いきそうになると思わず我慢してしまうようになった。そうすると、自分が今わるいことをしているのだと実感して背徳感でたまらなくなる。たまらなく気持ちよくなる。花巻とするのはだから好きだ。

でも行為が終わるとさすがにわるいことをした気になるから、最近は俺からキスするようになった。汚いものを吐き出したあとのそれだけは花巻に対する誠意だった。及川以外を好きにはなれないから、そんな俺が唯一花巻に渡せる気持ちだった。


そうしてそんなこと思い出しながら部活のボールに当たってもれなく鼻血を出した。かっこわりい。でも及川のいないバレーはどうにも気がゆるんでだめだ。

そういえばあいつは家に帰ってどうしただろうか。おばさんもおじさんも遅くならないと帰らないはずだ。具合がわるいなら、俺が行ってやらないと。

そう思って部活のあと開いた携帯に及川の返事はまだきていなかった。これはスーパーに寄ってりんごを買っていくコースだな。昔から弱るとすりりんごしか食べられなくなる幼馴染のことを考えて、その日は部活のやつらと別れていつもとちがう帰路を行った。俺たちは幼馴染以上にはなれないけれど、しかし幼馴染であることだけは決して変わらないからこういうときほっとする。りんごのふたっつ揺れるビニール袋をさげて軽い足どりで家路をゆき、俺の家の手前、及川の表札のインターフォンを押す。

おばさんたちはまだ帰っていないのか、しばらく待ったが誰も出なかった。無遠慮に庭を跨いで玄関を開ける。俺が自宅に帰ると及川が来て待ってるなんてこともしょっちゅうある間柄だ、今さら何を言われることもないだろう。

そう思って二階に上がり及川のふすまを軽くたたいたのに、しかし中にいる及川は来ないでとくぐもった声で言った。

(おまえ、……なんで、おまえ、)

思わずりんごの入ったビニールが滑り落ちてゴロゴロと音を立てる。慌てて拾って、ふすまの向こうに問いかけた。

「及川、なんだおまえ、泣いただろう」
「……泣いてなんかないよ」
「アホ、何年幼馴染やってっと思ってんだそれぐらいわかるわ。……なにがあった」
「なんも、ないもん」

つまんねえ嘘つきやがって。そう思うのに無理矢理は入れなかった。鍵もかかっていないただのふすまなのに、及川が来ないでと言ったら俺はそっち側に行けない。歯がゆくもどかしくて、いらいらと壁を蹴ると及川は怒ったようになにかをふすまに投げつけた。昔からパニックになるとすぐ物に当たる。(……おたがいさまか)

ともかくこうも嫌がっているんじゃどうしようもない、お勝手借りんぞ、勝手に言って包丁とすり皿を借りた。ひと切れはうさぎにしてやらないと面倒くさいことをいうのでいつものようにそうして、すった液状のりんごのわきに添えてふすまの前に置いた。

「おい、及川」
「! ……なに」
「りんご、やっといたから。置いとくぞ。俺もう帰るし、ちゃんと食えよ」
「べっ、べつに、そんなの頼んでないじゃん!」
「おう、そうだな」

じゃあ、ここに置くから。小皿をことりと床に残してしかたなく去ろうとするとしかし

「岩ちゃん待って」

めんどうくさい男はひどく弱々しい声でそう言った。たぶん、聞こえるか聞こえないかの小ささだっただろう。でも聞こえた。なんだとは答えず立ち止まる。

「……ねえ、俺たち、幼馴染だよね」

間のあった末の及川の質問はとうとつだった。なにが言いたいんだこいつは。言いたくなるのをぐっとこらえてそうだろとうなる。俺はそうじゃなくなりたかった。幼馴染以上になりたかった。でも及川はそうじゃない。

案の定ほっとしたように及川はうなずいた。
「……そうだよね、明日も明後日もそうだよね」
及川の言葉は、わけがわからない。でもさっきほど落ち込んでいるわけではなさそうだ。

「りんごありがとうね」

最後にひとこと聞こえたぎり声はしなくなったので、俺はじゃあなと踵を返した。及川の廊下につながる硝子戸をしめて、ふと、図書室のドアが開いていたのを思い出した。

まさかと一瞬、よぎって、やめる。

俺たちは幼馴染なのだ。及川の言ったとおり今日も明日も明後日も、きっと死ぬまでそうだ。(だったらそれで、いいじゃないか)開きかけた疑念にはそっと蓋をして、そうして俺は玄関のドアを開けた。






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書いていてとても楽しかったし、最近のほもの中では1番気に入ったかも
こういう話は好きです。タイトルは木曜日にする悪いことと迷って、でも、後から読み返したら「開ける」っていうのがけっこう一貫したテーマになっているなと思ってこちらにしました。ひらがなだけっていうのも、ちょっとホラーなかんじがするから
たまには考えてます。たまにですが
(2013.1215)