ゼエハア、ゼエ。 十二月の風が肺を刺して寒いのか、全速力で走っているせいでそもそもの器官が壊れてしまったのか、酸素の足りない頭ではまるで判然としなかった。 学校前の坂を飛び降りて夕方の駅前をつむじ風のようすり抜け、ホームにやってきたJRに飛び乗ってようやくまともに息がつけるようになる。 汗だくで肩を上下する俺を混み合った車内の視線がうざったそうに見つめるのはわかったがうるさい呼吸はなかなかに落ち着かなかった。 スポーツバッグからタオルを取り出す余裕もなく、制服のブレザーで滴る汗を乱暴に拭って電車のドアにもたれかかる。むっと立ち上る汗のせいか触れたガラスは一瞬でほわりと白くなった。 窓の向こうに遠ざかってゆく見慣れた景色にほっとしながら、しかしどこか昂ぶってもいた。 ぎゅうっとこれまで硬く硬く閉じていた右の掌を、周りには見えないよう顔の前でそっとひらく。 キラキラ、キラ。 握力のせいで壊してしまったんじゃないかとすこし不安だったが、そこには数分前と寸分変わらないシルバーの指輪があってほっとしたような、どこか残念なような複雑な気分だった。 何カラットなのかなんていう名前なのかさえもわからない透明のハートは俺を見て笑うようにきらめいていて、今度はそれを取り落とさない程度に力込めてきゅっと握り締める。 ふっと息をついて顔を上げると視界に入った窓ガラスにはどこか満足げな自分が映っていて、今さらながらしにたくなった。空いた方の手で手すりをつかんで、俺はつい数分前を振り返る。 指輪はバレー部の部室にあった。 部室の書き物用の、机の上に無造作に置いてあった。 これは及川のものだ。 ひと目見てわかった。(だって今の彼女とお揃いなんだって数日前及川は得意げに見せつけてきた)そうしてわかったときには手にとって走り出していた。 机の上にはペンが置いてあって、今思えば及川はきっと部活の日誌を提出しに行っていたところだっただろう。そのあいだに俺は指輪を盗って学校を出た。この間、何も考えていなかったと思う。及川に見つかったらとか、そんなこと考える余裕まるでなかった。 ただ、及川からそれを遠ざけたかった。 たぶん、それだけだった。幼馴染の(そして心底言いたくはないがおそらく親友の、)恋人との大切な指輪を盗んで逃げるなんて自分でもたいがい頭がどうかしていると思う。 でも数日前それを見せられたとき俺はああこの男が好きなのだとすとんと落ちてしまったのだ。 女関係にゆるい及川だから、今までどんな相手と付き合ってもどうせすぐ別れるんだろうと思って気にしていなかったが今回の女子大生はちがった。 及川はああ見えて女に薄情だからお揃いのものなんて身につけるようなやつじゃなかったのに、今の彼女とは指輪でつながってしまった。のろまな俺はそれを知って危機感を抱いてようやくいやだと思ったのだ。 及川はやれない。今まで俺と同じリストバンドしかつけていなかった及川の手に女との指輪が光るのなんて見たくなかった。でもだからと言ってあいだに割って入るようなこともできはしない。そんなふう思っていたとき目の前に指輪があった。 JRの車両は頭の上、生真面目な声で俺と及川が降りる最寄り駅の名前を告げる。 いつもなら二人で降りる田舎駅のホームにひとり足をついて、はあ、と白いため息を吐く。 電車の中何度か震えていた携帯電話をのろのろと取り出すと、及川から電話とメールが数件入っていた。留守電はなく、メールには先に帰ったのかと責めるような文面がいくつか。 そういえば今日は手首の調子が悪くて部活の終わるのを教室で待っている約束だったのを思い出してわりいと一通返事を打った。 送信ボタンを押しながらいったい何に対しての「わりい」なのかは、自分でもよくわからなかった。 及川は次の日の朝からさっそく俺の二の腕をねえねえとつらまえて話しかけてきた。 「ねえねえ、岩ちゃん俺さ、彼女と一緒の指輪この前見せたじゃない、」 「……そうだっけか」 「も〜〜、覚えててよ、まいいけど。……でその指輪さ、昨日、どっかでなくしちゃったみたいで」 「ふうん」 「ね、岩ちゃん」 どこかで見てないかな? たずねる及川はどこか見透かすような目をしてうすら寒く、しかし視線をそらして知らねェよと言えば困ったなあとのほほん言ったぎりその話はそこで終いになった。 朝練を終えても授業の合間にも、帰り道の間も及川がそれに触れることはなかった。 けれど及川はそのことを、決して忘れはしなかった。 昼休み彼女の話題になったとき、及川の部屋に放課後寄ったとき、折にふれて及川は指輪を探すそぶりを見せた。 「見つからないなあ」 「こんなに探してるのに」 「いったいどこ行っちゃったんだろう」 ぽつりとつぶやくような言葉を聞くたび罪悪感は雪のように積もって、しかし俺の部屋で唯一鍵のかかる勉強机の引き出しにそれがあることはとうとう言い出せないままクリスマスが近づいてきた。 「彼女がね、なくすなんてサイテー、イヴまでに見つけないと別れるって泣いちゃったんだよ」 と、左の頬に湿布を貼った及川はある日言った。うららかな冬晴れ、学校に向かう途中のことだった。 俺は寒さにかじかむ鼻を噛んでいたところで、おかげでぶふぇ、と思わずヘンな声を上げてしまう。 及川は岩ちゃんバカっぽ! と笑って俺に殴られて、それから空を見上げて部室でなくした気がするんだよねえとつぶやいた。内心どきりとする俺のとなり、明日あたりまた探してみようかなあとも言った。 俺はあの日指輪をとった掌をぐっと握り締め、 「そうかもな、見つかるかもしれないな」 震える声でうなずいた。 次の朝あの日から閉まったままにしていた引き出しの鍵はカチリと開けて、俺は制服の内ポケットに指輪をしのばせて学校に行った。 返してやりたくなんてなかった。いっそこのまま別れてしまえばいいと、わるい頭で一晩悩んだのも本当のことだ。 でも結局これ以上及川に偽ることはできなかった。 及川の頬が痛々しく腫れているのを昨日部活の終わり、湿布貼り替えるときに見てしまってはもうだめだった。俺のせいで及川が傷つくのは見ていられない。 自分で傷つけておいてそんなこと言うのも虫のいい話だと思うが、彼女の手の跡が及川に刻まれるのはまたちがう意味でも見ていられなかった。 昼休みの終わりトイレに行くと言って教室を出て、俺はくるりと上履きの向きを変え部室棟に走った。及川が放課後そこを探す前に、他の部員と鉢合わせしない時間に指輪をそこにもどしておこうと思った。 急いで行ってみると案の定誰かの弁当の匂いがかすかに残るばかりで、予鈴の鳴った部室に人の影はない。 俺はほっとして内ポケットから指輪を取り出した。午後練が終わっていないから今日はまだ日誌のある机の上に、ことりときらめくシルバーをのせる。昨日まで俺の引き出しにしまいこまれたそれは窓の向こうの日差しを反射してキラリとうつくしかった。 及川と彼女はきっとこれで仲直りをする。笑いたいような、泣きたいような、あるいはくたびれたようなそんな気分だった。それでもああ授業が始まるからとどこか冷静な頭で上履きをひるがえした、 ――そのときカチャリと、部室のドアが開いた。 及川が、立っていた。 なんで。 たったその三文字絞り出すまでに、いったいどれだけ時間がかかっただろう。そのあいだに及川はふわりと微笑んで後ろ手に部室の鍵をガチャリと閉め、 「岩ちゃんったら詰めが甘いんだから」 とまるで歌うように言ってのけた。 そうして俺の問いには見向きもせずつかつかと歩みよって机の上のシルバーリングをおもむろに持ち上げ、ぽいっと驚くほどのかんたんさで部室の隅のゴミ箱に放り捨てる。 「っ! お、おい、」 「――いいんだ、あんなの最初っから捨てようと思ってたから」 「……え?」 「クリスマスまでは女の子除けになるからつけてるつもりだったんだけど、でも途中でどうでもよくなっちゃった」 くるり、及川は振り返って窓の向こうに芝居がかった人差し指を向ける。 「ねえ、岩ちゃん。教室から部室棟にくるときって、あの、渡り廊下を通るでしょう」 「そ、それが、なんなんだよ」 「あの日、あそこに岩ちゃんが見えて、だから俺、もしも岩ちゃんがこうしてくれたらって思って、……そうして指輪をはずしたの」 「!」 言いながら、及川は薄く笑って俺にキスをした。左の頬に触れるそれはひどく手慣れていて、色んな思いがぽたりと自分の目から零れ落ちるのがわかる。 「彼女とは一昨日別れたんだ」 ぺろりとそれを舐めて及川は言った。頬の腫れは別れたいと告げたときの怪我なのだと言って笑った。 「岩ちゃんあんな嘘ついてごめんね、でもああ言えば岩ちゃんやさしいから、俺のために絶対どこかで指輪を返しにきてくれるって思った」 それにと、きれいな微笑を浮かべた及川は俺の頬に自分のそれを擦り付ける。湿布の匂いがつんと鼻に染みて、思わず顔を背けるとそれすらもだめだと右頬にキスされ許されない。 及川の笑みは酷薄だった。 ごめんね、ごめんね岩ちゃん。 「岩ちゃん真面目なのに、やさしいのに俺のためにわるいことして我慢してる顔もえるから俺岩ちゃんにひどいこといっぱい言っちゃった」 でも、岩ちゃんだってわるいことしたんだから、おあいこだよね? たずねる及川の伸ばす手に、俺は震えながら重ねることしかできなかった。 触れた手は意外なほどにあたたかくやさしげで、背筋がぞっとするような心持ちでその身体を抱きしめる。 「きっとこうなるって、信じてた」 まるで夢見るような声音で、及川は俺の首に手を回した。指輪なんかよりよっぽどおそろしい、それは輪っかだった。 +++ わるいわちゃんとこわいかわくん こひかくしってタイトルにするつもりだったのにスポーンと忘れて残念 今度どっかで使えるかな〜〜〜〜 (2013.1212) |