あ、右足の靴下を忘れちゃった。

そう思ってからああ、べつに右足と決まっているわけでもないんだなと気がついた。学校指定の靴下は柄が両足おんなじ紺色のやつだ。紺色の二十七、五センチがかたっぽだけない右足はローファーの中ですこしだけ寒い。

十一月ってこんなに寒かったっけって、毎年冬がくるたび思う。てきとうに羽織ったダッフルのボタンをかじかむ指さきで留めてひとり外灯の下をゆくと吐く息はすっかり白かった。まだ五時半なのに田舎の夕べは暗くて右足はしんと底冷えする。

俺が忘れた靴下は幼馴染の岩ちゃんとおんなじサイズだから、もしかしてあれは明日から岩ちゃんのものになるのかもしれないなと思った。たぶん、岩ちゃんのベッドの上に忘れてきたはずだから。

(……岩ちゃん、どうしたかな)

呆然としてるかな、それとも後悔してるのか、あるいはまだ泣いてたらそれはちょっといやだなと思う。岩ちゃんのこと泣かしたのはそういえば久しぶりだ。(もしかしたら小学校でつまんないことでケンカして、俺が岩ちゃんと遊ぶ約束を無視したとき以来かも)

あーあ、泣き顔なんて見るつもりなかったのになあと、俺は両の手のひらをコートのポケットにつっこんだ。


つい数時間前、昼休みにマッキーとまっつんと、それから岩ちゃんが喋ってたのがきっときっかけだった。

月曜日で部活はお休みで、だから今日はひと狩り行こうぜって岩ちゃんはDS片手に誘ったのにマッキーとまっつんは彼女と遊ぶ日だからってそれを断ったのだ。残された俺をちらりと見て岩ちゃんは諦めたように首を振った。(俺は回避もへたっぴだしすぐ味方斬っちゃうから二人で行くのは岩ちゃんの機嫌がよっぽどいいときだけだ)

でもそんなあからさまにガッカリしなくたっていいじゃんてムカついて、彼女がいないかわいそうな岩ちゃんのことをちょっとからかったら十七歳の話題は自然とそっちの方向に行った。今の相手とはどこまでいったとか逆にこれは絶対にやらせてくれないとか、部室には他の部員もいないのをいいことにぽんぽん話は弾んでゆく。

盛り上がる会話と反比例するように、岩ちゃんの口元だけはムッツリと押し黙った。マッキー彼女有りまっつん彼女有り、俺は作らないけど女の子には不自由しない。この中で童貞は岩ちゃんだけなのだ。同じように眉間の皺に気づいたマッキーは笑って岩ちゃんの肩を軽く抱いた。

「だいじょーぶだいじょーぶ、岩泉にもいつかモテ期が来るって」
「っな、なに言ってんだよいきなり、」
「いや。俺もそう思う」
「え? 松川まで、」
「きっと来世あたりでは女子にモテモテになってる。そんな気がする」
「だってよ。よかったじゃん」
「せめて今世がよかったわ!!」

ツッコミ入れる岩ちゃんのとなりでメロンパン頬張りながら、そんなもの今世でも来世でも来なければいいのにと思っていた。俺は幼稚園でおみせやさんごっこしてた頃からお店ごと買い占めるくらい岩ちゃんのこと好きなのに、小学校では女の子からのお誘いを全部伝えず断ったくらい好きなのにこれ以上競争相手が増えたりしたらまったくたまったもんじゃない。

大学あたりでもしホントにそんなもの来ちゃったらどうしよう。悩める俺の横でマッキーとまっつんのからかいは続く。

「だいじょーぶだいじょーぶ、童貞でもべつに世の中生きていけるから心配いらないよ」
「うんうん。童貞だってメシは美味いもんな」
「いっそ三十まで守り抜こう」
「魔法使いになれるってインターネッツに書いてあったし」
「〜〜〜ッ!」

(……あーあ、岩ちゃん、バカだな)
そんなのてきとうにかわせばいいのに、岩ちゃんはむっつりバカ真面目だからすぐに黙りこんじゃう。不器用でばかばかしくて格好悪くて、これだからまた好きになって困る。

パンの袋をくしゃりと丸めてゴミ箱に投げると、岩ちゃんはふと逃げ道を見つけた顔で俺の手をとった。

「及川次、移動だろ」

同じクラスでもないのに覚えてる岩ちゃんはそう言って立ち上がる。たしかに五時間目は理科の実験だ。じゃあなと言い捨てる岩ちゃんの口実に使われたのはわかってたけどそれでも嬉しかった。(だってたぶん明後日の三時間目の俺の授業をたずねたって岩ちゃんは即答してくれる)

嬉しくって教室にもどる途中の廊下でくすくす笑って、俺の手を引く岩ちゃんにけげんな顔をされて、なんでもないよと首を振りながらああそうだとそこで思いついた。

そうだ、岩ちゃんとセックスしよう。童貞なのからかわれるのはかわいそうだからってごり押せば岩ちゃんは単純だからきっとかんたんにできる。

そうしてひらめきは実際当たっていた。

いつもみたいにパートでおばさんがいない岩ちゃんの家で、マンガ本が散らかったベッドの上で、なにげない口調で俺はしようといった。

「しよう、岩ちゃんしてあげる。来世まで童貞なのはかわいそうだから俺がもらってあげる」

昼間のからかいを口実にそう言うと岩ちゃんは「でも」とか「ちょっと待て」とか抵抗したけれど、俺の手がひと撫ですればやっぱり押し黙ってそのまま好きなようにさせてくれた。

がっしりと筋肉のついたお腹を脚で跨ぎながらたまらなく幸せだった。男のそれを初めて口でくわえながら、もっと早くにこうしていればよかったと思った。岩ちゃんのは太くて苦くてマズかったけれど、それでも感じてる顔がやらしかったから俺も興奮した。ゴムは持ち歩いてるのがあったからそれを被せてあげて、ちょっとサイズ合わないけどまあいいやって思ってネクタイを外して岩ちゃんの両目も隠してあげた。

(だって制服を脱いだら岩ちゃんは男の裸に萎えちゃうかもしれない)

そう思うとすこし寂しかったけれど、しかし身体の中に岩ちゃんの一部を受け入れてしまうとそんなことは途端にもうどうだってよくなった。だって岩ちゃんのお腹に手をついて腰を振ると、もうそれだけでなにも考えられなくなるくらい善かった。

夢中でやってる間にやっぱりゴムは外れて、岩ちゃんは俺の中にすこしだけ出しちゃったみたいだった。お尻でしたのはさすがに初めてだなと、くたびれたものを身体から引き抜きながらぼんやり思った。女のように使った尻からはぽつぽつと血が垂れていてなんだかまるで処女みたいだ。

行為後のどこか醒めた頭でそんなことを考えて、岩ちゃんの汚れたのをティッシュで拭いてやりながら、そういえばもうこの口実は使えないんだって気がついた。

岩ちゃんは童貞じゃなくなっちゃった。
お尻が痛くて、嬉しくて、でもたまらなく寂しい。童貞じゃないから、かわいそうじゃないから岩ちゃんはもう俺とやってくれない。

「……及川?」

不意に手を止めた俺に気づいて岩ちゃんは困ったような声で俺を呼んだ。目隠ししたままだったのを今さら思い出してああごめん、慌ててきつく結んだネクタイに手をかける。

「よかったね、ドーテイ卒業おめでとう」

せめて笑顔で、岩ちゃんの気分が軽くなるように冗談ぽく言ったつもりだった。いつもの営業スマイルで上手に笑えてた、声だって震えてない自信があった。でもネクタイほどいた瞬間サアッと血が引いた。

岩ちゃん泣いてた。
両の目からボロッて大粒の涙こぼしてふと思い出したようにありがとうなって間の抜けた声で答えた。そんでまた泣いた。

俺は今さら押し潰されるような罪悪感でたまらなくなって、慌ててパンツを履いて制服を集めて岩ちゃんの部屋を飛び出した。コートも何もかも引っつかんできたから服はめちゃめちゃで、しっちゃかめっちゃかの頭でローファーを履いて、とにかく岩泉の家を出て途中で幼馴染の母親とすれちがってヒエッと肝を冷やしてその後の電柱の下で息を整えてようやくなんとか帰路についた。歩いて五分の俺の家、行き着くまでこんなに時間がかかったのはこれが初めてだ。

自室に上がってコートを脱いで、冷え切った身体を思わず両手で抱くと思いがけず岩ちゃんの匂いがして、ささいなことだけれど今の俺にはそれすらも居たたまれなくなる。

(明日いったいどんな顔して岩ちゃんにおはようって言ったらいいんだろう)

一晩そんなことを考えたけれど答えは出なくて身体は疲れていたから眠ってしまって、次の朝は寝坊をしたから結局その日おはようは言わなかった。

おはようどころか、日中ほとんどの会話をしなかった。というのが多分ただしい。俺も岩ちゃんも特別避けてるってほどじゃないけれど、顔を合わせるとなんだか妙に気まずくって何を喋ったらいいのかわからなくなったのだ。

おかげで部活の練習でもつまんない連携ミスをして溝口くんにこっぴどく叱られる始末だ。溝口くんはべつに怖くないからいいけど、怒ると生徒をすぐ残すからそれはダメ。特に岩ちゃんと気まずい今日なんかに残すのはダメ絶対。

恨みがましくそう思うけれど、罰として体育館倉庫の片づけを二人で命令されちゃったものはもうしかたがない。

はああ。ため息をついてバレーボールのネットを二つに折った。大きい割に糸が絡まってすぐぐちゃぐちゃになっちゃうからめんどくさい。いつもなら岩ちゃんに頼むけど背後の岩ちゃんはやっぱり俺と同じように黙って備品をかたしてる。

体育倉庫は埃っぽくてかび臭くて、一緒にいるのに俺たちはいつになく静かで寒かった。ずび、と鼻水をすすると鼻の奥がつんと冷えるような感じがする。思わずぶるりと肩を震わせれば、黙り込んでいた岩ちゃんは不意に、大丈夫かと俺にたずねた。

「え。あ、寒いけど、べつにへーきだよこれくらい」
「……そっちじゃなくて」
「へ?」

なにがってすこし考えてそれからハッとする。居たたまれなさに顔を覆いたくなった。だってこのタイミングで「大丈夫か」って言ったらひとつしかない。ダ、ダイジョウブデスヨ。さっきと同じ言葉なのに二回目はヘンに硬くなって恥ずかしい。そうかとうなずいて岩ちゃんはまた黙り込んだ。

沈黙は重たくて罪悪感は消えなくて、自分で誘ったくせに俺は今になって昨日のことを後悔した。あんなことしなければ岩ちゃんと今こんな風になってないのにって泣きたくなった。そうしてそれからふと、もしかすると岩ちゃんも同じように思ってるんじゃないかと考える。ちらっと振り返れば生真面目な背中は黙々とボールの整理をしていた。

大きな四番の背中を、俺が昨日愛して爪を立てた背中をすこし眺めて、それからううんと俺はかぶりを振る。

「ねえ、岩ちゃん」

話しかけると背中はびくりと、おおげさなくらいに驚いてこちらは振り向かずになんだと問うた。小さく苦笑して、それからゆっくりと口を開く。

「……昨日のことさ、なかったことに、していいよ」
「っ!」

岩ちゃん、やっぱり最初は女の子の方がいいでしょう。いいよ、彼女が出来たらその子には初めてだって言いな。俺はなんにも気にしないから。

畳み掛けるようにほとんど息もつかずそう言って、そうして用具入れのロッカーを閉めた。岩ちゃんはなにも答えずボールを持ってその場に立ち尽くしている。是とも非とも返事はなく、たしかめるように俺が
「明日からは元通りね」
と背中を軽くたたくと、幼馴染はようやく我に返ったようにああと声を出した。どこか気が抜けたような、力のない声音だった。


そうして些細な気まずさは残れど、俺たちはそれからすこしずつ時間をかけて「元通り」に近づいていった。

俺の下半身の痛みは数日で消え、岩ちゃんはぎこちなさを隠すのが上手になり、近づく年末は今年何をしようなんてそんな話もするようになった。時折どうしようもなく思い出してひとりで扱くことはあったけれどその回数もじょじょに減っている。

俺と岩ちゃんの間には何もなかった。何もなかった。そう思うたび胸が痛いのはきっとつまらない風邪でも引いているせいで、風邪っていうのはじっとしていれば治るものだからたいした病気じゃない。何もなかった。なんにもなかった。

刷り込むように毎日その言葉を自分にくりかえした。毎朝ネクタイを締めるたび、更衣室でユニフォームに着替えるたび、ふとした瞬間に手が触れるたびくりかえした。

人間ていうのは案外かんたんな頭のつくりをしているものだ。毎日くりかえし思い込めば自然と記憶はそっちに作り変えられる。俺は岩ちゃんと自然に笑い合えるようになる。めんどくさいことだって簡単に頼めるようになる。ただ風邪だけが毎日ひどくなる。後に残るのはそれだけで、俺たちはすっかり幼馴染にもどった。


そう思っていた。それは矢先のはなしだ。
いつものように俺たちは部室で四人でご飯を食べてた。なんにもなければそうするのがたいていで、岩ちゃんとまっつんはよくゲームの話をして、俺とマッキーはてきとうな雑誌を見て読モがかわいいとかこのジーンズがかっこいいとかそんな話で盛り上がる。

けれどその日の話題はもっぱら来週に迫ったクリスマスのことだった。まっつんは今の彼女と過ごす初めてのクリスマスで気合が入っているし、飽きっぽいマッキーはこの前の子と別れちゃったから次に遊ぶ子を選ぶのでなかなか忙しいのだ。

そうしてそんな流れでふと思い出したようにマッキーは岩ちゃんに言った。

「岩泉はイブの日どーすんの? 今年はとうとう卒業しちゃったりすんの?」

問いかけるにやっとした目は実際とてもそんなこと予想してない目つきだ。マッキーも人がわるい。まっつんも隣でまた悪ノリしてる。岩ちゃんこれはまたむっつり黙りこんじゃうな、牛乳パンかじりながらそう思っているとけれどその日岩ちゃんは顔を上げて、そうしてマッキーをきつくにらみつけた。

「ッせえいつまでもバカにすんな、俺だって、そ、卒業くらい、してるっつうの!」
「――!」

誰より驚いたのはきっと、マッキーでも、まっつんでもなく俺だった。たぶん、そうだろう。一瞬押し黙ってそれから矢継ぎ早に質問攻めしたマッキーたちとちがって俺はなにも言えなかった。

両手でつかんだパンの袋は揺れていてそれで自分が震えているのを知って、よく見れば牛乳パンは中のクリームがたらふくあふれて大惨事で、でもそれすらもどうでもよくってただただ岩ちゃんを見つめると質問に困り果てるその目と目が合って岩ちゃんは一瞬そらしかけて、けれど、それからくしゃりと笑ってくれた。どこか気恥ずかしいような、諦めたような吹っ切れたような、そんな笑い方だった。

俺はなにも言えなくて牛乳パンの袋をとじて、泣きたいような笑いたいような気持ちでポケットの携帯を開いて岩ちゃんにメールを打った。

『本文がありませんが送信してよろしいですか?』

無粋な警告文にはいと返して数秒後に岩ちゃんの携帯が鳴って、気づいた岩ちゃんは誰と誰とって詰め寄るマッキーたちを押しのけてそれを見る。その目は束の間見開かれて、それからひどく穏やかなかたちにゆるめられる。岩ちゃんは弁当をしまい、その相手に呼ばれているからと言って立ち上がった。

「え〜うそ見たい、俺たちも見たい見たい!」

騒ぐマッキーたちに軽く笑って岩ちゃんは部室をあとにする。俺も今日は用があるからと言って足早にその背を追った。

部室を出て次の曲がり角でやっぱり岩ちゃんは待っていて、飛びついて、怒られて、ごめんと笑ってキスをした。岩ちゃんいやじゃないの。あのとき泣いていたのが脳裏に浮かんでたずねれば、あれはもうお前とする理由がなくなったからだとぶっきらぼうに岩ちゃんは言うからひと月続いた俺の風邪はその一言であっというまに治ってしまう。

あの日のように俺の手を引いて廊下をゆきながら、今日はうちに寄っていけよと岩ちゃんは言った。なにかあるのと聞けば靴下忘れていっただろとさも当たり前のように返されるので嬉しくなる。途中でその上履きが教室でなく、二人でよくサボる屋上に向かっているのに気づいてますます嬉しくなる。

屋上の重たいドアを開けながら、岩ちゃんは
「そういやさっきの、俺もだから」
と不意につぶやいた。なにがといいかけてこの人がメールの返事を口頭でする癖を思い出して、ちょっと笑って、そうしてやめた。







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タイトルは童貞卒業記念日と迷ってさすがに安直すぎるのでやめた
やべ〜最近鬱ばっか書いてたからこういうよくあるほものやつ書くとなんか鬼恥ずかしい気持ちになるよお〜〜〜;;

(2013.1117)