「岩ちゃん、俺昼休み委員会だから今日はそっちで食べんね」

四限の終わり及川はそう言ってひらひらと手を振るので黙ってうなずいた。嘘をついてるときの顏だなというのはひと目見たときからわかっていた。及川はほっとしたような目をしてひとり教室を後にする。残された俺は面白くないため息をついた。


及川は今日一日中こんな調子だった。
朝会ったときからどこかぎくしゃくしていた。ようすがおかしかった。

「岩ちゃんおはよう」
いつもならそれを言うのが幸せでたまらないみたいなふにゃけた顔をするくせに、今日はどこか声に元気がなかった。

梅雨時は隙あらば人の傘に押し入ろうとするのに今日はそれもせずとなりを歩いていた。どころか目が合わないように自分の傘をこころなし傾けている節すらあった。

どうかしたのかとそれとなく聞けば、
「昨日夜更かししちゃったからちょっと眠たいの」
てへへと頭かきながら及川はやっぱり笑顔でごまかした。部屋の電気がきちんと十時に消えたのを隣の家の俺は知っている。ふうんと流して学校に行った。

学校に行くと及川はお腹がいたいとか生理なんだとかそんなことを言って休み時間のたびトイレに消えた。(余談だが及川が生理って言うとなんか冗談にきこえないから怖いと思う)そうして昼休みの嘘である。

嘘をつくのは、べつにかまわない。
俺にだって及川に言えないことのひとつやふたつくらいあるし、それはきっと及川だってそうだろう。幼馴染だって、付き合っているといったってそんなものだ。かまいやしない。

でも及川がこんなふうに俺を避けるのはめずらしいことだった。ここまでされるとさすがに、よほど後ろめたいことでもあるのかとそんなふうにも思ってしまう。

「なあ、どう思う」

及川がいないから仕方なく押しかけた三組、焼きそばパン頬張りながら花巻にきけば花巻はアイフォン眺めたまま
「今度N女と合コンするから及川くん呼んどいてよ」
と言った。俺と及川がそういう間なのを察しているくせにこれだ。無言でにらめば視線に気づいた花巻は悪びれもせず、
「だって顔よくて女の子に興味ないとか最高じゃん」

肩をすくめながらそう言った。(いやべつに及川はゲイじゃないし女子にだって興味はあるぞ)ていうか質問の答えにせめて一ミリくらいは掠る答えをしてくれてもいいのに。そう思いながら机に置かれてた花巻のアポロチョコの紙箱を片手で丁重に保管してやる。花巻がスマホからようやく顔を上げるころにはどろどろになっていた。

「及川もたいがいだけど岩泉も案外たちわるいよね」

教室のうしろのゴミ箱にアポロの箱を放ると、花巻は唇の端を指で拭ってそう言った。食べかけの焼きそばパンを半分も持ってった口である。空いた腹の分はあとで及川におごらせよう、考えてからそういや及川はようすがヘンなんだったと思い出した。

「なあ、及川どうしたんだと思う」

自分の教室にもどるまぎわもう一度たずねれば花巻はうーんと首を捻って、
「それって本当に嘘ってわかるの」
と俺にたずねた。

「だって、俺わかんないけどもしかしたら岩泉がそう思ってるだけで全部気のせいかもしれないじゃん」
「ハア? なわけねーべや、アイツ、嘘こくときスゲーわかりやすいだろが」
「エ?、そんなことないよ」
「あるっつの。あいつ、嘘ついてるときはこう、眉毛がこう、こうなってあと鼻が微妙にくすぐったそうな気持ちワリィ笑い方すんだよ」
「あ〜〜」
わかったと言うかわり花巻は諦めたように肩をすくめた。

「岩泉もおんなじくらい気持ちワリィのはよくわかりました」
末長くお幸せにネ。ピシャリとドア閉められシャットアウトされてなんとなく納得いかないが、予鈴が鳴ったので渋々と自分の教室にもどる。

廊下を行く途中むこうの階段からは及川と女子生徒が数人降りてくるのが見えた。うちの一人は俺と同じ体育委員の女だ。たぶん俺を避けててきとうな女子のところにでも避難していたんだろう。教室の後ろのドアをくぐりながら、やっぱりアレは嘘つくときの顔だったのだと冷めた頭で確かにそう思った。


及川の笑顔の意味なら、なんだって知っている。
おはようと朝一番向けてくるのから始まってまた明日ねと手を振られる帰り道のそれまで、俺は生まれたときから毎日となりで見ているのだ。

「岩ちゃん」と俺を呼ぶときとそれ以外の誰かに呼びかけるときの笑顔が全然ちがうのも知っているし、反対に俺が及川と呼べばあのでかい図体が犬みたいに嬉しそうに振り返るのもわかっている。

小さいころはトオルと呼ぶたびとびきり幸せそうな笑顔を見せるのでそうしていたが、小学五年のときクラスメイトの女がそれをじっと眺めていたのでやめた。あれを誰かに見せてやるのはいやだった。どうしていやなんだろうと考えてああ俺は及川をひとりじめしたいのだと気づいたから及川と付き合うようになった。及川だって俺のこと同じように思っていたんだからかんたんだった。

そうして子どものころ、ただお互いが特別なのだという認識でしかなかった「付き合う」は中学高校と上がるにつれてそのかたちを変えた。

二人で休日に出かける朝、坂をくだりながら及川が得意げな微笑を浮かべることも、キスをするとまるで内の獣を抑えるようにどこか苦く笑うことも、それから俺の腹の上でもういいかなと尋ねるすこしつらそうな笑みだって今ではよく、よく、知っている。

及川が嘘をついてることだって、だから俺には誰よりわかっているのだ。
五限の現文の時間ちらりと見やれば、授業中は俺を気にしなくていいから及川はひどくうっとりした顔で堂々と眠っていた。授業が終わって部活の練習をこなしたら今日は部室で問い詰めようと決めて消しゴムをちぎり、先生が黒板をみている隙に半分をその頭に投げた。びく! と大げさに起き上がってきょろきょろ辺りを見回すよだれ顔はちょっと滑稽で、なかなかいいざまだった。


夕方練習を終えて着替えを済ませると、及川はやはりそそくさと部室を出ようとした。

「職員室に用事あるからみんなは先に帰ってて」

鍵を管理している及川はそう言ったがどうせ一言一句うそっぱちだ。ドアを開けて逃げ出した背中を後から追えばやっぱり嘘つきは廊下を曲がったところで女バレの数人につかまっていた。

「及川帰んの?」
「一緒に帰ろーよ!」
「いーけど俺ちょっとだけ残んなきゃいけないんだよね」
「――そうだよな俺と話があるもんな」
「!」

ぎくり。振り返る及川の腕をつかんでつらまえる。職員室に用事が、とか、この子たちと帰るから、とかそんなことを及川はごにょごにょ言ったがため息ひとつで一蹴した。及川はすこし困った目をして、それから諦めたように肩の力を抜く。

「ごめんね、岩ちゃん俺がもててるとすぐ嫉妬しちゃうから、」
また今度帰ろーね。てきとうな相手をごまかす顔で及川は笑って手を振った。いつになく弱いその手を握って連れ戻る。すれちがう金田一や国見は不思議そうな顔で俺たちを見たがおうお疲れと声をかけ見送った。そうして残っていた部員が部屋を出るのを待って、最後のひとりが帰ったところで二人部室に残る。

俺はドアの前にドンと仁王立った。質問に答えるまでは帰さないぞと無言のままに示して、

「なにがあった」

単刀直入に聞けば及川はうぐ、と喉を詰まらせた。よく回る口のくせに、直球で聞かれると弱いやつだ。

浮気でもしたのか、あるいは他に好きな相手でも出来たか。なんだっていい、こんなふうに避けられてもやもやするよかよっぽどましだ。さあなんでも話せ及川。そんなふうに思っていた。

けれど及川はすこし考えるそぶりを見せると、それから、――なんでもないよと言って、そうして薄く口の端を持ち上げ笑ってみせた。

その頬笑みに背筋を戦慄が走る。及川は、俺につくり笑いをした。脳天をガツンと直撃されたみたいな衝撃だった。(だってこれは及川がどうでもいい相手を、たとえばさっきの女たちをごまかすための笑顔だ)両の頬が妙に熱い。思ったときには泣いていた。ぼたりぼたりとみっともなく、握り締めた拳で拭うことすらもできず、ただただ棒立ちのまま、目からは勝手にあふれでる。

バレーのほかで泣くのははたしていつ以来か、自分でもよくはわからなかった。(だって男はかんたんに涙なんか見せないものだ)けれどそんなプライドもどうかなるほど零れては落ちてゆく。

及川が俺につくり笑いをした。言葉にすればたったそれだけのことが苦しかった。嘘なんていくらだって吐いてかまわない。あるいは浮気だっていくらでもすればいい。(そんなのは一発ぶん殴ってそれから許してやる)でもこれだけはだめだった。

及川のきれいな顔が俺をごまかすために、その他大勢に向けるのとおんなじ微笑を俺に浮かべてみせたのだ。唇が戦慄くのを止められない。あとからあとから、涙は零れ落ちる。

及川はひどくとまどったような顔をして俺を見つめていた。岩ちゃん、とか、あの、とか、困ったような言葉の切れ端を口にしては、及川はその続きに詰まる。らしくないありさまだった。そんなにも言えないことなのか。

詰る言葉すら声にできずボロボロと落としていればやがて及川は深いため息をついて、そうして俺の頬を拭った。

「岩ちゃんごめん、ごめんね」
「なにが」
「俺、昨日ね、その……」
「ん、」
「あの、あのね、俺、――おれ昨日岩ちゃんで抜いちゃったの」

だから岩ちゃんと顔合わせるの、ちょっと気まずかったんだ。ひどく神妙な顔つきでぼそりと言われた告白に、思わずぽかんと口が開く。あまりに予想ななめ上のそれだった。ぱちくりと数度まばたいてそれから、真剣に向き合った俺たちがふたりともひどく情けない顔をしているのが悲しいくらいによくわかる。

(なんだよ、おまえ、そんなバカみてーな理由で今日一日ヘンだったのか。心配しただろうが。……不安になっただろうが)

てか、
「そんなら呼べよ、おまえ、となりの家だろが」
「だ、だって今日練習あったし、それにほら、インターハイも近いし、……岩ちゃん、無理とかさせられない時期じゃんか」
「オイなんか妊娠してるみたいに聞こえるからそれやめろ」
「あっそういえばそうだね? なんだかちょっとドキドキします!」
「アホか!」

スパンと殴れば頭を押さえた及川はへにゃりと笑って、――いつもの顏で笑って、それからごめんと目じりを下げた。ひどくほっとした、情けない、まのぬけた、そんな表情に膝が震えるほど安堵する。もうごまかしたりすんなよ、肩を小突けば及川はごめんと慌てて、泣かせるつもりなんかなかったんだよとまつ毛を伏せる。俺だって泣く気なんかなかった。思い出してすこし恥ずかしい。

「……ていうか、その」
「うん?」
「無理とかしなくても、あー、ほら、他にも、あるだろ」
「? 他って、」
「その、……手とか」
「え。手、だけ?」
「ッ調子にのんな!」

たたこうとすれば今度はその手をつかまれ引っ張られた。俺の両手を上から握り締めた及川はにへらと笑う。

「岩ちゃんのおててもおくちも、だーいすき」

……ああ、やっぱり言うんじゃなかった。後悔したときにはもう、部室の鍵は内側から閉められていた。






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「めずらしく裏表のない笑顔だな」って原作で言っていたのでこういう意味なのかなって二度目に読んだとき思った。オフはオフで好きだけど、こういうしょうもない話も気軽に載せられるのでそういうところはオンラインが楽しいなあと思います
(2013.1029)