※岩及前提の及←国です





「あれ? ……やだ、うそでしょ、」
「?」

慌てたような声に振り返れば、斜め後ろのロッカーで及川さんが制汗スプレーをぶんぶんと上下に振っているところだった。

(あ、切れちゃったんだな)
ぼんやりとそう思いながら、自分のTシャツに手をかける。数時間の練習ですっかりびしょびしょだ。めくりあげると手のひらに綿が張り付いてきもちわるかった。脱ぎ捨ててタオルに顔を埋めると、汗がじわりと染み込んでいく感触がわかる。

しょうがねえなあという岩泉さんの声が背後では聞こえた。
「及川俺の、貸してやっから。……ほら、」
「え、やだよ。岩ちゃんのやつヒリヒリするじゃんか」
「はあ? バカおまえ、それがきもちいんだろが」
「やー俺岩ちゃんとちがって繊細なお肌だか、……いてっ! いてて、岩ちゃん無表情で殴るのやめよう? ――あ、そうだ、」

ねえ、国見ちゃん。おもむろに名前を呼ばれてどきりとする。振り返り目をやると、中途半端にワイシャツを纏った及川さんがきらりとした目をこちらに向けているところだった。

「国見ちゃん、たしか俺とおんなじやつだったよね。ね、ちょっと貸してよ」
おねがい、と二つ年上の先輩は可愛らしく首をかしげてみせる。両手をわざわざ顔の前に組んだあざとい角度だった。言われるまま鞄からエージープラスのきみどり色を取って、アホ川後輩に迷惑かけんなとまた小突かれている及川さんにハイと差し出してやる。

「あ。わりいな、国見」
先にあやまるのは岩泉さんだった。及川さんは岩泉さんをちらりと睨んで身を起こし、スプレー缶に手を伸ばす。

「国見ちゃん、ありがとネ」
「……イエ、」

にこりと眩しい笑顔からはふと目をそらして自分のロッカーに向き直った。背後ではシュ、シュ、と及川さんが俺のスプレーを噴く音がする。かすかに広がるその匂いを感じながら、同じものを使っているのはいったいいつばれたんだろうと考えた。

観察力のするどい人だから、あるいはいつも近くのロッカーで香っているそれを気にして俺が同じものを買ったことにも、及川さんは気づいているのかもしれない。そう思うとすこし気恥ずかしい。

ワイシャツにぽたりと髪先から落ちる水滴をねめつけて乱暴にタオルでぬぐっていると、トントン、軽い感触に後ろから肩をたたかれる。及川さんがスプレー缶を差し出しているところだった。どうもと受け取ればふわりと一瞬、俺に背を向けた及川さんの匂いが鼻をかすめてそして消える。同じ制汗剤を使っているのに、なんだか、まるで女のひとみたいな香りだった。

ロッカールームでは十数人ちかくの男子高校生が着替えているのに、そのなかで及川さんだけどこかちがうのだから不思議だ。アルミ缶を二、三度振って制服の襟を持ち上げ、首すじにふきかけてみるけれど、やはり何度ためしたって同じようなそれにはならなかった。

「ねえ、今日スプレー買いたいから帰りマツキヨ付き合ってよ」
「ん、俺パス。木曜は彼女感謝デー」

岩泉さんの頭の上を飛び越えた及川さんと花巻さんの会話がきこえてくる。そのすぐ横のロッカーをつかう松川さんも、今日は彼女と帰るからとことわっていた。いつもつるんでいる四人組の、岩泉さんだけがハアとため息をついている。及川さんの楽しそうな笑い声が響いた。

「だいじょぶだいじょぶ、この中で岩ちゃんだけ彼女いないからって落ち込むことないよ。ネ! 元気だして!」
「うっせ! おめーもいねえだろうが」
「俺はつくらないだけだもーん」
ボス、とみぞおちあたりに入った鈍い音とうめき、それから周りの先輩たちの笑い声でそのあと何があったかは見なくとも知れた。彼女いないのは意外だなあと、俺はぼんやり思っていた。

そうしてそれからわずか翌日その反対の言葉をきいた。
昼休み人気のない裏庭で、午後の授業の前にうたた寝をしていたときのことだ。使われなくなった旧校舎と本校舎をむすぶこの渡り廊下を通る人はけして多くないから俺はその足音ですぐに気づいた。ぺたぺたとコンクリートを蹴る数人の上履きの音は木陰で休んでいた俺のすぐ近くで立ち止まって、どうしよう場所を変えようかと俺が考えているあいだにもう彼らの会話は始まっている。俺のいる場所から姿は見えないが、男女ひとりずつのようだった。そのうちの片方は自分のよく知る声だからどきりとする。

これを渡してほしいとどうやらラブレターかなにかを少女に差し出された声、――及川さんは彼女に向かって、ごめんねと言った。
「ごめんね、岩ちゃん彼女がいるから、だから俺そういうの取り次げないんだよ」
(……え?)

昨日はそう言っていなかったのにと俺が首をかしげているあいだに、二、三を話して女子は去ったらしかった。顔は見なかったがソプラノのきれいな少女だった。及川さんはどうしてあんなことを言ったのだろうと気になり草の上立ち上がって、そうして俺は絶句する。

穏やかな微笑だった。
心からほっとしたようなそんな表情で、及川さんはそこに立っている。この人は故意にああ言ったのだとひと目でわかった。わかってからはその微笑がひどく空恐ろしいものに見えた。気づいたときには俺は半歩ほど後ずさっている。青草をザッと踏みしめた物音にしまったと思った瞬間、及川さんはもうこちらを振り返っていた。

静かな瞳と目と目が合って、心臓がどくりと大きく飛び跳ねる。なりゆきとはいえ盗み聞きをしてしまった心苦しさにどうしようか考えていると、及川さんはふっと微笑みその手を持ち上げた。

(――え、)

及川さんの長い指は、ゆっくりと秘密のかたちをつくる。
一本だけ立てられた人差し指はくちびるに添えられて、その仕草はひどく色っぽく見えた。「岩ちゃんには言わないでね」きっとそういう意味だろう。言葉はなくともその目でわかる。俺はぎゅっと唇を噛んだ。
(……だって、そんなの、岩泉さんの気持ちはどうなるんだよ、)

もしかしたら、今の子と気が合って親しくなることだってあっただろうに、及川さんはあまりに自然な声でその芽をあっさり摘みとった。あるいはその行為に慣れているとも感じさせる態度だった。背筋がぞくりと震えるのがわかる。こんなにも無感動に嘘を吐ける人を見たのはこれが最初だった。

顔をしかめたまま無言の俺に、及川さんは業を煮やしたのかつかつかと歩み寄ってくる。上履きがコンクリートをうしろに蹴る、ぺたりと間の抜けた音がどうしようもなく俺を不安にさせた。

「ねえ、国見ちゃん」
おねがいだよ。言いながら及川さんは顔の前で両手を合わせてみせた。それは昨日スプレーをと俺に頼んだときとまったく変わらない甘えた笑顔だ。昨日までは年上なのにかわいいだなんて、そんなのんきなことを考えていた自分がひどく滑稽に思えた。

幼馴染の恋路を踏みつぶしたことを黙っていろと、目の前にいる人はひどくかわいい顔で俺にねだっている。それは恐ろしいとかそんな単純な言葉では及ばないおぞましさだった。

つばをごくりと飲み込んで、でも、岩泉さんがと、やっとの思いで絞り出した声はしかし及川さんに一笑される。
「べつにいいんだよ、そんなの。だって岩ちゃんならこのこと知っても、俺のことゆるしてくれるもん」
ま、一発か二発は殴られるけどネ。アハハ。
それはまるで、岩泉さんのことならなんでも知ってるみたいなそんな笑い方だった。

「じゃあ、どうして秘密になんかするんですか」
せめてもにらみながら尋ねれば及川さんは鼻で笑って、あたりまえじゃんと吐き捨てる。そうして続けられた言葉に俺は絶句した。

「だってさあ、岩ちゃんが本気で俺を殴ってそれを後悔して泣くとこ、俺、見たくないんだよネ」

岩ちゃんて昔っから、俺がわるいことするとすぐ叱るくせに、そんで俺が泣いちゃうとつられて自分も泣いちゃうんだよ。かわいいでしょ? かあわいいよねえー、だから大好き。
幼馴染を語るうっとりとした顔に、この人の世界には本当に自分と幼馴染しかいないのだなとぼんやり思った。さきほど声を震わせて歩き去ったどこかの少女なんて、この人たちにとってはそこらに転がる小石ていどのものでしかきっとないんだろう。

「――ねえ、このこと内緒にしてくれるよね」
すでに決まった出来ごとに念を押すようような口ぶりで及川さんは言った。素直にうなずくには抵抗があった。岩泉さんはお世話になっている先輩だからともごもご喉の奥で言いかけ、けれど半ばでそれは途切れる。

及川さんは、ひどく澄んだ目をして俺を見つめていた。それは彼がバレーをしているときに時折見せる、落ち着いた、まるですべてを見透かしているみたいなそんな瞳だ。心臓を鷲づかみにするようなその目の力に、俺は思わず息をのむ。

うそつき、と、及川さんは言った。
「そんなこと言って、けっきょく国見ちゃんは黙っててくれるんだよ。俺、知ってるもん」
「……なんで、ですか」
「エ、だって国見ちゃん、俺のこと好きでしょ?」
「!」

さらり。五月の中庭を新緑の風が吹き抜ける。一瞬の呆然のあとに、俺はああ、とため息をついた。(最初から及川さんを責める資格なんて俺にはないってこと、及川さんは、きっとわかっていたんだろう)

だって本音をいえば、岩泉さんの気持ちなんて実際は大義名分だったのだ。俺は、本当は岩泉さんがあの子と付き合って及川さんが絶望すればいいと思った。岩ちゃん、岩ちゃん。気に入っている相手にはちゃんを付けて呼ぶあの人がすこしは俺の方をふりむいてくれたらと、それは数分前までそこにあった醜い浅はかな期待だった。くしゃり、顔の歪むのが自分でわかる。

「ねえ、国見ちゃん、秘密にしてくれるね」
そうしたら今までどおりに可愛がってあげるよ。艶のあるひそやかな声はまるで悪魔みたいに俺の耳にささやいた。首を横に振る気力は俺にはもう残っていない。重力に従うままほんの小さくうなずけば及川さんは俺たち共犯だねと言ってにやりと目を細める。

共犯という言葉の甘やかさにぞくりと、背筋に震えの走るのがわかる。及川さんはきっとそれを知っていてわざとその言葉を選んだにちがいない。そうとわかっていてもそれは抗いきれないほどの魅力だった。だってこのことを岩泉さんは絶対に知らず、これは俺とこの人だけの秘密なのだ。

岩泉さんがいるかぎりきっと、俺の手がこの人に届くことは一生ないだろう。それでも今の、この一瞬だけは俺が及川さんの特別だ。だったら他に、なにもいらない。

ね、及川さん、
「共犯、ですね」
小さく笑って手のひらを差し出すと、俺のものにならないその人はひどくうつくしい微笑でその手をとった。







(2013.0901)