その日の夕立はまるで、滝のような豪雨だった。
ゴオゴオとしたたかにアスファルトを打つ飛沫に、軒下まで水滴を吹きつけ八つ当たりをする不機嫌な風、なにもかにもが凶悪だ。家路時だろうに道を歩く人影はほとんどなく、目の前の二車線をゆく車はみんな、どこか急いでいるように見えた。

不意の雨に逃げ惑う人の群れで、最寄りのJR東口はすっかりごった返している。どうしようかと相談する声や、すこし遅くなるねという誰かへの電話、あるいは途方に暮れたため息が、そちらこちらから聞こえていた。

つい五分前駅に着いたばかりの俺も例にもれず、そのうちのひとりだった。
「……ハア、」
短く吐いて背後のコインロッカーにもたれかかり、先ほど切ってきたばかりの前髪に手を伸ばせばその毛先はすでに湿気で、ゆるやかにすこし跳ねている。

「空ちょっと暗いですけど、及川さん気をつけて帰ってくださいね」

となり駅前の美容室、そう言って手を振った美容師の笑顔がふと脳裏によみがえる。(思えば馴染みのお兄さんの、あの忠告に従っておけばきっとよかったのだろう、)それでもついつい長居してしまった。

七月末の駅ビルは昨日始まったバーゲンの呼びこみで、それはにぎやかだった。だからうっかり足をとられて小一時間も回ってしまったのだ。

よさそうなリストバンドは買えたが、おかげで今のこのザマである。せっかくセットしてもらった髪もすっかり台なしだ。(超イケメンがただのイケメンになってしまった。遺憾の意)

雨はちっとも止む気配がないどころか、ますますその勢いを増したようにも見えた。時折コンバースの爪先に触れる雨脚を初めは律儀によけていたが、今はそれすらももう面倒くさくてそのままにしている。

湿気は身体中にまとわりついて鬱陶しかった。降っているせいでそれほど気温は高くないけれど、あんまり人の多いせいでどこかじっとりとした暑さがある。すこし身じろげばとなりの人と肘がぶつかる程度の距離が落ち着かず、なんとなし鼻につく他人の匂いが気持ち悪かった。

中にはそんな状態に焦れて濡れるのを覚悟で駆け出していく人の姿もあったけれど、風邪を引いて明日の部活に出られなくなるのはいやだから俺にその後はとても追えそうにない。けれどかといって雨が弱まるのを待つにしても、これではずいぶん時間がかかりそうだ。

もういっそ、てきとうなお姉さんでもナンパして、近くでお茶でも奢ってもらおうか? そう思いきょろりと見回して、俺はあっと声を上げた。

そこにはこの雨の壁を割り開いてまっすぐこちらに走ってくる、一本の傘があったのだ。足場の悪い中、懸命に走るせいで何度も転びかける不器用な傘の持ち主の姿は雨に遮られ判然しないが、その紺地には、よく見覚えがある。

(……うそ、まさか、うそでしょ、)

思いながらも一歩踏み出すと、滑りかけて体勢を立て直したその傘のした、――幼なじみの岩ちゃんと目が合った。ドオンと大きな雷の落ちる音が、どこか遠くで響いているときのことだった。


「岩ちゃん、迎えにきてくれたの」
傘をたたんで屋根の下入ってきた幼なじみにたずねれば、岩ちゃんは頬に飛び散った雨を拭って、今週のジャンプ買いにきただけだよと口の奥でもごもごつぶやいた。決まりわるげなその表情に、俺は思わず笑ってしまう。

下手くそな嘘だった。だって今日は日曜日だ。(だいたいジャンプならいつも、朝に近くのコンビニで買って電車に乗るくせに)

にやにやしていれば岩ちゃんは俺をジロリとにらみ、
「あーそっか今日日曜だっけあーあ間違えちまったなー」
とヤケクソの棒読みで言った。そういうことだから及川それ以上余計なことは聞いてくれるなよと、そんなふうに言いたげな顔だった。かわいい嘘つきの岩ちゃんだ。

昨日の夜「明日は夕方美容室に行くから」と言ったのを漫画読みながら、それは興味なさそうに聞き流していたくせに本当はちゃんと聞いていたのだろう。そうしてこの雨の中走ってきてくれたのだ。俺がいるかどうかもわからないのに、たぶん雨に気づいてすぐ家を飛び出してきてくれたにちがいない。岩ちゃんはTシャツ1枚と中学のころのジャージ、いつもの部屋着姿で、スニーカーを履いているくせに素足だった。(岩ちゃんてば本当に俺が好きなんだから)

うふふと笑ってそのひたいをハンカチで拭ってやった。岩ちゃんはてっぺんからつま先まで、汗と雨水でずぶ濡れだ。上着を持っていれば自分のを貸してやれたのにと残念に思った。けれどこのままでは身体を冷やしてしまうから、とにかく早く帰ろうと持ちかける。

雨はあいかわらずひどかったが、傘があればまだ歩いて帰れないこともないだろう。
おおとうなずいた岩ちゃんの両手をちらりと見やる。

「ところで傘、一本なの?」
「え? ……あ、やべ急いで来たから、」
「ああそっか。俺のために慌てて来てくれたんだもんね」
「っ、な、ナルトの続きが気になったんだよ!」
「うんうん、そうだネ岩ちゃん」

(迎えに来たわけじゃないからって冷静に返せない岩ちゃんのちょびっと足りないところも俺は好きだよ)

思いながらその手から傘を取り上げる。しっかりと重たい木製の傘だ。
帰りは俺が持つよと言ってひらくと岩ちゃんはすこしだけ不機嫌な顔をしてとなりに入ってきた。どうせ俺が手慣れているとか、女の子相手にもこういうことをするんだろうとか、そんなくだらないことを考えているんだろう。たとえ同じことをしたって俺がどきどきするのは岩ちゃんだけなのに、鈍感なこの人はそんなことちっとも知らないのだ。

「俺の方が背ェ高いんだから当たり前でしょ」

わざと茶化してやれば岩ちゃんは一言でむっと眉間にしわをよせて、俺のつむじをべしと殴った。きっと「ちぢめ」の呪いだろう。もしこれで背丈が1センチ縮んだとしてもかまわない。岩ちゃんがいつもの顔にもどったのだからそれでいい。ルンと軽い足どりで、俺は最悪の大雨に踏み出した。

紺色の傘は大きく頑丈だったが、百八十センチ近い男二人で入ると、お互いの肩を濡らしたくない俺たちは自然とほんのすこし身体の重なる距離になった。さっきとなりに立っていたお姉さんよりもそれはずっと密接した近さなのに、相手が岩ちゃんならちっとも気にはならないどころか俺は反対にうれしくなってしまう。

うれしかったから手の揺れたふうを装って、素知らぬ顔でお尻を撫でれば明日からの俺のあだ名はヘンタイクソ野郎になった。ついでに鳩尾に一発熱い裏拳のプレゼントもついてきた。光栄のきわみだけれど胸の痛みで泣きそうだ。(一応言っておくと物理的な痛みで泣きそうだ)

ゴメンナサイもうしません、ぐずりながら謝ると、岩ちゃんはその顔を不意にこちらによせてくる。

「エ、なに? やっぱりまたしてほしかった?」
きらめいた俺の純真な瞳はきっちり無視された。岩ちゃんはわずかに眉をひそめて、その首をかしげる。

「おまえ、なんかつけた?」
「え」
「いつもとちがう匂い、する」
「……あ、」

言われてたしかに先ほどワックスをつけたことを思い出した。店員さんに今日はどうしますかと聞かれて、このあとどこに行くわけでもないがなんとなく言われるままに任せたのだ。たしか青リンゴだったかなと言えば、岩ちゃんは俺の耳もとにすんと鼻先をよせて、
「けっこう好きかも」
とつぶやいた。岩ちゃんがふと身を離して、一拍おいて、ぶわ、と顔中熱くなる。(だってなんだか、まるで俺が告白されているみたいだ。岩ちゃんはときどき無意識にこういうことを言うから困る)大きく脈打つ心臓を落ちつけながら、岩ちゃんが向こうの車線をザアザア走る車に目をやってくれて本当によかったと思った。

雨の中いつもより時間のかかる駅前を過ぎ、今の大通りをすこし行って角を二つ曲がれば俺たちの家はすぐそこに見えてくる。膝から下はほとんど濡れてしまったが、これくらいならすぐお風呂に入れば大丈夫だろう。片手に提げていた買い物袋もビニールだからとちらり見下ろして、それからああと気がついた。ビニール袋を持ち上げて、岩ちゃんにはいと差しだしてみせる。

「岩ちゃん、ね、これ」
「ん?」
「あげる。リストバンド、前にあげたのもう汚れてきちゃったでしょ」
「……ああ、」

サンキュ、そっけなく返して岩ちゃんはそれからきょろりとあたりを見回した。この雨で見えるものなんてほとんどないのに、いったいなにをとすこし考えてその視線の意味に気づく。俺はすっと目を細めて、手にしていた傘を傾けた。

岩ちゃんの唇は雨に触れたのかかすかに濡れて、いつもよりほんのすこしだけ体温が低かった。風邪を引かせる前に帰らなくちゃと思いながら身を引けば、その顔は一瞬でもう真っ赤な風邪を引いていて思わず笑ってしまう。

周りを見回して人がいないか気にしたくせに、雨の日はときどき俺がこうするのを知っていてビニール傘は持たないくせに、(本当は自分がキスをねだったくせに)岩ちゃんはばかやろうと俺を罵った。理不尽だ。理不尽なこの人が俺は好きだ。

俺はにこりと満足して、びしょ濡れのスニーカーでまた一歩踏みしめる。帰ったら一緒にお風呂に入ろうね、通りの角を曲がりながら俺がいうと岩ちゃんは舌打ちをして、やっぱりヘンタイクソ野郎だなとつぶやいた。

(あれそのあだ名って確定なの? いやまさかね? ……ちょっと待って岩ちゃん今なんで目をそらしたの)






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HQきてから雨の話ばっか書いてる思ったけど別に前のジャンルからそうだったしその前のジャンルでもそうだったし結局雨っていうテーマそのものが好きだよねウン
(2013.0730)