ぺちり、

苛立ちに尻をたたけば及川は女みたいにあんと声を上げてその身をのけぞらせた。皮膚をビリビリ伝わる痛みにぎゅっと細められた瞳は、けれどまるで、もっとしてと言わんばかりに潤んで俺を見上げてくる。ため息を吐いて、その腹を突き上げた。及川の身体はびくりとしなる。

そうしてなにを思ったか震えるその右手は握っていたシーツを離れ、宙を泳いで俺の頬に伸ばされる。及川の指はつう、と俺の頬骨を撫ぜた。触れたところから皮膚にピリと走って、思わず眉間に皺がよる。

及川はそれを見るとひどく満足げに目尻をさげて、俺の頬に指のはらを押しつけた。
ついさっき別れた元カノに引っぱたかれたばかりの、熱く火照った頬だった。

三年に上がって同じクラスになった彼女と付き合い始めたのは四月の半ば、それからひと月でようやく今日家に呼んだ。すこし気の強いところはあるが話しやすかったし、噂で聞いたDカップは間近で見るとそれは魅力的に見えた。制服の下に透けるブラの淡い色を思い描いて一度か二度、(いや実際はもう何回か)抜いたことだってある。けれど魅惑のDカップには一度も触れないまま、俺たちはけっきょく終わってしまった。

「ねえこれ、なに」
ベッドの上座って話していると、不意に顔を強ばらせた彼女が言った。なにがと思えばその白い指は、一本の鳶色の髪の毛を持ち上げている。この春大学受験のために染めた彼女の髪は胸まである長い黒髪、手のひらのそれは、どう見てもショートカット程度の茶髪だった。

「枕のところに挟まってたけど」
さっきまでいい雰囲気だったはずの甘い声はどこかに消えて、そこにはただただ静かな怒りがあった。ねえ、だれの。もう一度聞かれて束の間、俺は言葉に詰まる。

ひと目見て及川のものだというのはわかっていた。長さも色も、すこし癖のあるやわらかさも、どう見たって昨日俺の部屋に来た幼馴染のそれだった。及川はこのひと月髪を切っていないからそろそろ伸びてきたなと思って見ていたし、昨日だっていつものように人のベッドを占領してバレー雑誌を読んでいた。

たぶんそのことを正直に話していれば、彼女の誤解は解けていただろう。それでも俺はめんどうだなと、ほんの一瞬思ってしまった。だって彼女のたれ目はもうすでに、非難するような強さで俺をにらみつけていたからだ。女はこうなるとまるで数学の公式みたいに隙なく弁明しないと許してくれないし、その言い訳のあいだに好きだよというのを何度もはさまないとだめだから面倒くさい。口下手な俺には以前にもこんなことが何度かあったからもうわかっている。

けれどそうしてようやく誤解のなくなったところで、現金な相手は自分の勘違いなんてたいていけろっとした顔で忘れているのだから、それを思うとやる気もすっかり萎えてしまった。

だから「サイテー」も「こんなやつだと思ってなかった」も渾身の平手も、黙って受け入れその背を見送って、それから及川に電話をかけた。

電話に出るまで寝ていた及川はまだ眠そうに、けれどものの二、三分で部屋に来たから俺は寝起きの幼馴染をそのままベッドに押し倒して突っ込んだ。

突っ込んでからそういえば今こいつには彼女がいたような気がしたがどうせ飽きっぽい及川のことだ、すぐ別れるに決まっているから浮気のひとつにもならないだろう。そう思っていらいらと好き勝手動かし始める。

及川は突然のことにやだとか待ってとか言っていたが、前をすこし触ってやればすぐにあっあっと声を上ずらせていた。

女と別れた腹立ちをただガツガツと、欲望のままぶつけているだけで及川は俺の怒りの原因も読みとってしまうから楽だった。女とはちがって「どうして」と理由をたずねることもせず、及川は重たく腫れた俺の頬をひとなでしたきり大人しく抱かれるようになる。彼女を呼ぶことは昨日言ってあったから、及川はきっともうこの部屋で起きたほとんどのことをわかっているのだろう。

そのことにさえむかついたからむしゃくしゃ膝の裏を持ち上げて、身体をぐっと押しつけて及川を責める。及川は引き攣れたような悲鳴を上げたが気にもしなかった。そもそも今日は親がいないのを見越して元カノを呼んだんだから誰かが聞きつける心配もない。

及川と寝るのは初めてではないから、こいつのいいところはたいがいもう知っていた。今日はわざとそれを外して、自分ばかりがよくなるところに擦りつける。及川はいやいやと首を振って尻を押しつけてきたが乗ってやらなかった。いらいらはまだおさまらない。

「う、岩ちゃん、やだ、……ね、もう、」
及川は俺にその気がないのを知ると、今度はぐずぐず涙をにじませて泣き落としにかかってくる。あざとい上目遣いだった。

パチン、わるい子どもにそうするようもう一度尻たぶをたたく。ふと見下ろせばかわいそうに、及川の白い尻はきっと俺の頬と同じくらいに赤くなっていた。いい気味だ、そう思って目線を上げれば及川ははあはあと息を切らしてシーツに涙を擦りつけている。かすかに伸びた鳶色の髪が不健全な汗に濡れ、白いシーツの上で泳ぐさまがいやらしかった。

見られているのに気づくと、及川はその目をいっそう潤ませる。
もうゆるして、だめ、だめ、おねがい。ねだる及川の口もとは必死で、みっともなく端からよだれをたらして、――しかし、どこか笑っている。

ああやっぱりかと気づいて、俺はふと動きを止めた。

「なあ、おまえ、わざとやったんだろ」

とろん、と、まどろむようにほほえんだ及川の目は、それはつまりは肯定だった。やっぱりこいつは、自分で自分の髪の毛を引き抜いたにちがいない。俺は確信する。

薄くひらいたくちびるからは赤い舌がちろりとのぞいて、及川はまるでイタズラのばれた子どものような顔でうふふと笑う。

「でも、岩ちゃんゆるしてくれるでしょ?」
語尾をわざわざ持ち上げているくせに、俺の返事をわかりきっている声だった。(ちくしょう、またか。この性悪め)答えるかわりに唇を噛み締め、俺はまた腰を打ちつける。及川はあんあんと、発情するネコみたいによく鳴いた。

こういうかたちで彼女と別れるのは、実際、これが初めてのことではない。この前は及川が俺の携帯を触っていて、女友だちからのメールを彼女に間違って転送したのがきっかけで別れたし、その前はちょうど教室にいなかった俺の行き先を「岩ちゃんなら女の子とどっか行ったよ」と及川の言った一言で破局した。

本当のところは担任のおばちゃん先生と職員室に行っていただけだが、頭に血が上っていた彼女にはなにを言ったところで信じてもらえなかった。

自分には彼女もセフレもいるくせに、俺が誰かと付き合い始めると及川はすぐこうやって邪魔をする。

なんでと聞いたらへらへら笑っていたから、たぶん俺を誰かにとられるのが気に食わないとかどうせそんな、子どもじみた理由だろう。(十年越える付き合いだ、及川の笑顔の意味ならたいていは知っている)

いつまで経っても大きな子どもの、そんなわがままに別れさせられたのが腹立たしくて突き上げる。及川は限界が近いのか、がくがくと身体を震わせてあごをのけぞらせた。

「あっ、……岩ちゃんなか、なかがいい、」

快楽に咽びながら及川がねだるのでその日は顔にぶちまけてやった。汚い白濁がその頬を伝い落ちるのを見て、ああそういえばシーツは俺が片付けるんだとぼんやり思う。過ぎてしまったことだった。

「あーあ、俺中に出してって言ったのに」
そうつぶやいたわりに、及川は前髪に散ったそれを指さきで掬ってひどく満足げにぺろりと舐めている。

「明日は美容室にいかなきゃ」
この日のために髪をのばした及川は、ニコニコ笑ってそういった。



(2013.0718)