冷房の利いたビルを出ると、七月の太陽は途端に押し付けがましく俺を焼いた。ちらと頭上をにらんで内心で舌打ちし、数メートルごとに置かれた街路樹のした、なるべく日陰になるところを選んでひとり歩く。左手に握り締めた紙袋のじわじわと、手汗に湿ってゆく感触がいやだった。

夏はあんまり、好きじゃない。コンクリートを跳ね返ってむっと押し寄せる熱気もひたいを滴る汗も、それが前髪の先から落ちて制服のシャツにつくる染みも、どれもこれもが不愉快だった。日陰をつくる緑の木々にさえ、蝉が何匹も張りついてはうるさく鳴いている。俺は考え事をしたいのに、まったく邪魔な断末魔だった。

頬に伝う汗を手の甲で拭って、紙袋を右手に持ち替える。けれど持ち替えたところで右手もおなじくらいに汗ばんでいるのだからなにも変わらなかった。進学塾のパンフレットはきっと、紙袋の中でうらめしげにむしむしと蒸れているにちがいない。


――進学。
中学三年生の俺にとってはひどく憂鬱な、たったの二文字だった。これからの曖昧な将来のことを、すこし考えるだけでも気が重くなる。

勉強はべつに嫌いな方じゃなかった。むしろ数学や理科は、それなりに、好きかもしれないとも思う。おそらくだけれど、見知らぬ顔が数十人詰め込まれる学習塾に夏休みのあいだ通うのも、まあ、べつにそれほど苦ではないだろう。


気が重くなるのは、それとはまるで別の理由だ。
中学三年間つづけてきたバレーボールをこれからもやっていくのかそれとも辞めるのか、中学最後の試合を終えて数週間が経った今でも、俺は、その答えを出せずにいる。

バレーが好きだったかと聞かれれば、それはたぶん、そうだ。好きなはずだった。ボールを打つのが、チームメイトにつなぐのが、俺は好きだと思っていた。けれど自信を持ってそう答えるには、今はすこし、迷っている。

中学の部活、最後の試合はひどかった。チーム全体がばらばらになって終わったようなそんな試合だった。ああ俺の三年間はこれで終わるのか、最後の笛を聞きながら涙さえ出なかった。あのときのことを思い出すとこれからもバレーをつづける気持ちは、どうしたって、揺らいでしまう。

(……でも、)

思い出したくない部活の記憶に混じってひとつだけ、俺をバレーに繋ぎとめる思い出もそこにはあった。バレーを始めたばかりの一年生のころ、だからもう二年も前のそれは記憶だ。

あのとき、と、思い馳せた俺の思考はしかしミンミンと、頭上ほんの数メートルで鳴きつづける蝉の声に遮られる。
渇いた喉に無理やり唾を飲み込んで、俺は猛暑のアスファルトを行った。


進学塾を出ると、五分ほどで駅前のバス停にたどりつく。バスを待つ屋根の下ではおばあさんがひとりベンチに座り、白いハンカチで汗をぬぐっていた。暑いわねェ、しゃがれた声にそうですねと会釈し、となりに立って携帯をひらく。十三時十五分。二十分おきに出るバスはちょうど数分前に行ってしまったところだった。

ちらりと駅舎を見やってそこに入っているコンビニに行くかどうか、すこし迷う。期末テストを終えてその足で塾に案内をもらいに行き、弁当なしで今まで歩いていた成長期の腹はとっくに空っぽだった。食欲は暑さのせいでそれほどないが、そのかわり喉がカラカラに渇いている。

二度、三度、向こうに見える看板を見やってけっきょくため息をつき、俺はまた日差しの下に歩き出した。家に帰ればきっと母さんが、この時期はそうめんと麦茶を作って待っているだろう。けれど目先の欲求にはかなわなかった。

そうしてオレンジと緑の看板の下、自動ドアをくぐろうとして俺はふと立ち止まる。

「あ、」
「? ……あれ、」

国見ちゃんじゃない、久しぶりだね。たったいま店から出てきたその人はそう言って、にこりと笑ってみせる。最後に見たときと変わらない、それは綺麗な微笑だった。

「……ご無沙汰してます」
狼狽を気取られないように小さく頭を下げると、その人――及川さんはかたちのいい眉をハの字にむすんで、
「もう、やだなあ硬い硬い」
その手は俺の髪をくしゃりと撫でる。一瞬迷った俺が半歩だけ身を引くと及川さんはあいかわらずだねといって、そうしてまた笑い声を上げた。同じ部活にいた頃はときおりこんなふうに俺をからかった、二つ年上の先輩だった。


「お昼食べに行くとこだったから、付き合ってよ」
と、及川さんは言った。お願いするような言い方なのにその足は俺の返事も聞かず歩き出すから、俺は慌ててその後を追わなければいけなかった。

機嫌よく鼻歌くちずさむ背中に「母が待っているので」と言い出すこともできず、けっきょく駅から数分行ったところにあるマックに連れて行かれるはめになる。あとでトイレにでも行ったときに母さんにはメールをしよう、そう思ってため息をつきながら、俺は店のドアをくぐる。

一歩先に入った及川さんは一階の客席を見て奥の二人掛けに学生鞄を置くと、財布だけを持って店の入り口にもどってきた。慣れた手際に感心していれば、俺のとなりでレジの上のメニューを見上げた及川さんがたずねてくる

「ね、国見ちゃん、どれにする?」
「ん、えっと……」
「好きなの選びなよ、俺がおごったげる」
「え? でも、」
「いーのいーの、俺が半分無理に連れてきちゃったんだからサ!」

(半分、よりはもうちょっと強制だったと思うけど、)
まあいいやこれ以上固辞するのも失礼かと思って、素直にえびフィレオのセットをお願いする。及川さんはチーズバーガーのセットを頼んで、ややあって先ほどの席にトレイを持って座る。いただきます。お礼を言って流し込んだ爽健美茶はひんやりと染みてひどく気持ちよかった。クーラーの効いた室内に入って噴き出した汗を備えのナプキンでぬぐって手を拭き、それからサンドイッチにかぶりつく。揚げたてのフライはサクッと小気味いい音を立て、その中に包まれたえびの甘さがじゅっと口の中に広がった。お腹はそれほど空いていなかったはずなのに、一口食べてしまうと途端にひどく空腹だったような気がするからふしぎだ。

無心でパクパクかじっていると不意に、向かいの席に座った及川さんに見られているのに気がついて恥ずかしくなる。あわてて口をつぐむと及川さんはくすくす笑って、

「お腹空いてたんでしょう、気にしないで食べなよ」
と、自分もストローに口をつけながら促した。すみません、小さくことわって続きにかじりつく。及川さんはそれを満足そうにながめながら、それにしても久しぶりだねと、あらためて俺に言った。顔を合わせるのはたしかに、OBが部活の見学に来たいつかの試合以来だ。

(そうだあのときも俺たちは、先輩にひどい試合を見せたんだっけ)

思い出すと喉の奥がすこしだけ重たくなって、フライの味が急に単調になったような、そんな気がしてくる。けれど及川さんはそんなことまで読み取ったように、さらりと話題を別に替えた。

「今日はこっち、期末テストだったから終わりも早かったんだよね。たしかそっちも、そろそろだっけ?」
「あ、ハイ。ちょうど今日、終わったところで、」
「アラ、それはお疲れさま」

どうだった、と聞きかけてしかし及川さんは首を横に振った。そうして

「国見ちゃん賢い子だもんね、聞くまでもないか」

といって、ポテトを口に放り込む。俺は照れくさい気持ちで「ふつうでした」と返したけれど、及川さんに褒められたことをすこし誇るような色が、あるいは声にはあったかもしれなかった。

及川さんとはそれから、学校のことや、バレー部の誰かしらのこと、それからこの頃の暑さにうんざりしていること、いろいろなことを話して数百円で数時間を居座った。及川さんは話すのも、それから聞くのもじょうずな人だから、普段はあまりしないような話まで、ついつい俺はしてしまう。ときどき、こんなくだらない話、つまらないかなと思って及川さんを見やったけれど、及川さんはそのたびニコニコと笑って「つづけて」といってくれた。

そうしてそのまま喋りつづけて、Mサイズの爽健美茶と俺の話題がなくなるころ、及川さんはそういえばさ、と口をひらく。口の中に残った小さな氷を噛み砕きながらハイとうなずけば、

「国見ちゃん、高校でもバレーは続けるつもりなの?」
と及川さんはいった。それとなく避けていた話題にふと切り込まれて、俺は一瞬押し黙る。その表情を見て、及川さんはなにかを察したようだった。ん、と小さくうなずいて、ま、国見ちゃんにもいろいろあるんだろうけど、と続けられる。

でも、と及川さんは不意に、俺の目をまっすぐに見つめてそして言った。
「俺はさ、続けるもんだと思ってたよ」
「! な、んで、」

くす、と小さく持ち上がるその微笑に、背筋がびくりと、震えるのがわかる。やさしいはずの及川さんは、それでも次の言葉を待ってはくれなかった。

「――ねえ、ずっと前に一度だけ、俺、国見ちゃんにボールを上げたことがあったでしょう。練習の終わったあと、たまたまさ。国見ちゃん、あのときすごく楽しそうに笑っていたよね。……だから続けるだろうって、そう思ってたんだ」
「っ、」

(なんで、どうして、)
どうしてそんなこと、覚えてるんですか。
俺が唯一バレーに残した未練をなんで今、このタイミングで口にするんですか。

目の前で微笑むおきれいな顏にいくらだって質問をたたきつけてやりたくて、でもたずねてしまえばきっとひどく当たり前のように返ってくる言葉はかんたんに想像できて、ギリ、と唇を噛み締める。この人のたった一言にたまらなく嬉しくなっている自分が悔しかった。

そうそう、と、ファンタを飲み干した及川さんは思い出したように口をひらく。
「うちの高校、スポーツ推薦の締切もうすぐだけど、中学の大会実績がそれなりにあればエントリ出来るから」
よかったらちょっと考えてみなよ、それじゃバイバイ。ひらひら手を振ってそれぎり及川さんは去った。


バレーボールをこれからも続けるのか、それとも辞めるのか、残された俺はひとり考える。

けれど答えの出る前に身体は勝手に、動き出していた。鞄を引っ掴み、夏期講習の申込をマックのゴミ箱に放り捨て、トレイの上に残っていたものも強引に押し込んで、そうして俺は、走り出す。

狭い店内を何度か客席にぶつかってそのたび謝り、それでも駆けて店を出ると、しかしそこには、帰ったはずの及川さんが立っている。

俺と目が合うと及川さんはにやりと笑って、その手を差し出した。待っていた、わかっていたとでも言うようなその顔が口惜しいからほんのすこしだけにらみつけて、それからその手を握り締める。硬い、大きな掌だった。








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そういえばえびフィレオっておいしいですよね
先月初めて食べたのですがフライのわりにあっさりしていて結構好きです
マックってときどき無性に食べたくなるよねえ
(2013.0717)