あーあ、つまんないな。
そう思ってあくびをしていれば目ざとく見つけた岩ちゃんにコラと怒られた。「ちゃんと審判やれ」と幼馴染は言うけれど、自分が混ざれないバレーなんてただの生殺しだ。(やっぱりつまんないよ)コートわきのベンチで俺は膝を抱えこむ。テーピングで固めた右足はちょっと動かすのでも違和感があっていやなかんじだった。不機嫌に眉根を寄せながら審判の右手を上げる。スパイクの好調な岩ちゃんとは正反対に、俺は足首の全治二週間、こうしてぐずぐずとおあずけを喰らわなければならないのだ。

こんなことになるなら昨日知らない女の子なんて助けるんじゃなかった、そんな物騒なことをちらりと考えていると向こうの紅白戦を見ていた入畑監督がこっちのコートにやってくる。

足の調子はどうだと監督は聞いた。俺は思わず渋い顔になる。監督はハハとほがらかに笑った。

「まあ、昨日の今日でどうってこともないな」
「わかってるなら聞かないでくださいよお」
「はは、でも、まあ、おまえらしいじゃないか。階段から落ちそうになったのを庇ってやったんだろう?」
「……まあ、そうですけど」
「相手に怪我がなかったなら、よかったよ。おまえもたまには休んだ方がいい」

けど次の練習試合までには直してくれよ、そう言って監督はコートの方に向き直った。誰と誰はこのままこのコート、誰は新しく向こうに行ってと、すらすら選手の交代を告げていく。

そうしてコートの半分ほどは顔が入れ替わり、俺のとなりには息を切らした国見ちゃんがやってきた。どうやら次のセットは休憩らしい。いらっしゃいと声をかければ国見ちゃんはちらりと俺を見て、
「及川が寂しそうだからおまえちょっと行ってこい、だそうですよ」
と監督の言葉を律儀に伝言する。むむむ監督め、にらんでいれば、しかしとなりの後輩に小さく笑われた。
「冗談ですけどね」
あっさりとそう言ってのける国見ちゃんはまったく、涼しい顔をして食えない新入生だった。

きれいなお顔してけっこう言う子だよなあ、思いながら見つめていると「及川よそ見してんじゃねえ」悲しいかなこっちのコートに残ってしまった岩ちゃんの檄が飛ぶ。むむう、頬を膨らませると国見ちゃんは苦笑して俺がやりましょうかといい、そうしてその後は本当に買って出てくれた。中学のころから真面目な後輩だった。

おかげでやることのなくなった先輩の俺は体育座りをしたままぼんやりとそのようすを観察する。
国見ちゃんはベンチに座って、まっすぐに背筋を伸ばしていた。そういえば昔からこんなふうに姿勢のいい子だったなと思い出す。

どちらかのチームが得点を重ねるたび、片手を上げる国見ちゃんの黒髪はさらりと小さく揺れる。切り揃えられた前髪は、高校に入ってからいくらかのびたように見えた。横顔も三年前からすっかり大人びて鋭さを増している。その視線の先をなにげなく追って、あれ、と気がついた。

「ずいぶん熱心に見てるんだね」

――岩ちゃんのこと。
俺が名前を出せば国見ちゃんはまた片手を上げて、それから

「岩泉さんのこと好きなんです」

こともなげにそう言った。目の前ではいつものように岩ちゃんがサーブを打つところ、すぐとなりのコートではそのときスパイクが決まりピィとコーチの吹く笛が鳴ったところで、体育館はざわざわと活気に満ちていて、だから俺は、聞き間違いかと思ったのだ。けれどそうではなかった。

「本人には言わないでくださいね」

と付け加えられた言葉はさっきの台詞がけして嘘じゃないのだとそういっている。国見ちゃんはあいかわらず冷めた目でコートを見つめていた。岩ちゃんのサーブはゆるやかな弧を描いて相手のコートに落ちる。国見ちゃんの瞳は跳ねたボールをちらりと見たきりまた岩ちゃんにもどる。見慣れた練習風景なのに、その日はどこか、ちがって見えた。


国見ちゃんと話をするようになったのはそれからだ。今までだって部活の用事があれば教室に行ったりはしていたけれど、最近はとくべつ用がなくても顔を見にいくようになった。国見ちゃんは俺がくるとクラスの女の子が騒ぐからちょっとだけ嫌そうな顔をして、それからおずおずとついてきてくれる。

お昼休みはだから週に二、三度国見ちゃんと一緒に過ごすようになった。旧校舎の裏庭の、ひそかに日当たりのいい芝生のうえに足を伸ばして俺たちはお弁当を食べる。

話題はたいてい岩ちゃんのことだった。
「今日は岩ちゃん授業中にこんな顔で寝ててね、先生に当てられたらこんなまちがいをして、それから体育の授業ではサッカー部顔負けのゴールキーパーをして、」
そんな話をすると国見ちゃんはふうんと興味なさそうにうなずいたあと、けれど隠し切れないようにほんのすこしうれしそうな表情を見せる。部活をしているときには見たことのない、穏やかな顔だった。俺はそれを見るたび、ああ、もっと岩ちゃんの話をしてあげなきゃ、そんな気持ちになる。

実際国見ちゃんは、俺以外の誰かにその気持ちを告げたことはないらしかった。こんな話したら引かれるからだとそう言っていた。まあ、たしかにそれもそうだ。じゃあなんで俺には言ったのときけば国見ちゃんはすこし押し黙って、それから「岩泉さんの幼馴染だったからです」と目をそらした。俺が勝手に岩ちゃんの話をしているだけなのに、気兼ねでもしているのだろうか? 律儀な国見ちゃんらしいなと思った。大丈夫俺あたたかい目で応援してるしと笑いかければ、国見ちゃんは困ったような顔であいまいに笑っていた。


「おまえ、今日も国見のとこ行くのか」
岩ちゃんにそう聞かれたのは五月の、ある晴れた水曜日のことだ。天気がいいから国見ちゃんといつもの裏庭に行こう、そう思って立ち上がった昼休みの初めだった。ひとつ前の席から俺を引き止めた岩ちゃんを振り返る。

「なあに、岩ちゃん寂しいの? 俺がいないと寂しくてしんじゃうの? うさぎさんなの?」
「……おまえの気持ちはわかったうさぎさんが正義のボディブローをくれてやる」
「ちょっ、待ってよ冗談じゃん! 岩ちゃん正確にみぞおちついてくるから俺いやだよ、」

あわててお弁当箱かかえて逃げれば岩ちゃんはため息をついて、手の甲をひらひらと振ってみせた。

「もういいよ、クソ川ほら、国見のところでもなんでもとっとと行っちまえ」
ぞんざいな口調はいつもどおりだが、今日の岩ちゃんはなんだかすこしようすがヘンだ。気になったけれどちらりと一度振り返ったきり俺は教室をあとにする。国見ちゃんはこのところ、「及川さんがくると色々女子に聞かれてめんどうだから」といって俺が迎えに行かなくてもひとりで裏庭にくるようになった。お昼のチャイムが鳴ってからもういくらか経っている。あるいは待たせてしまっているかもしれなかった。

早く行かなきゃ、そう思ってようやく捻挫の治った足で走れば国見ちゃんはやはり先についていた。

「遅れてごめんね、」
声をかけると、国見ちゃんは手にしていた単語帳から顔を上げる。

「あれ、勉強中?」
「中間テスト、もうすぐだから」
「ああ、」

まじめだね、言いながらとなりに腰をおろした。勉強はたしかそれなりにできる子だったはずだ。普段からまめに勉強してるんだろう。

「そうだよかったら今度岩ちゃんでも連れてきてあげようか?」

お勉強できる方じゃないけどさすがに一年の内容なら見てあげられると思うよ。俺がそう言うと、しかし国見ちゃんはいえ、と首を振る。

「大丈夫です、自分でできるし、それに、」

同じチームで一緒にいられるだけでいいんです、と国見ちゃんは言った。

「ときどき話ができたら、笑ってくれたら、それでうれしい」
「……中学のころから、ずっと憧れです」

とも言った。うらやましいなと俺は思った。
国見ちゃんから、そういう風に言われる岩ちゃんがうらやましい。
ほとんど無意識にそう思ってから、俺はああ国見ちゃんのことが好きなのだとばかみたいに今さら気がついた。国見ちゃんはすこししゃべりすぎたとでもいう風に口をつぐんでお弁当の袋を開ける。

その横顔を、冷めているようで温度をもった黒い瞳を、岩ちゃんが好きだといわれたときから俺はきっと好きになっていたのだ。

だから、俺だけがその秘密を知っていると聞いたとき本当はうれしかった。
だから、いつだってその笑顔が見たくて岩ちゃんの話をしていた。
……だから、今、どうしようもなく岩ちゃんに嫉妬している。

ねえ、国見ちゃん。
「岩ちゃんね、茶髪の巨乳の子が好みなんだよ」
泣きたい気分で初めて国見ちゃんに嘘をつけば、国見ちゃんはくくと笑って、
「……ちょっと、意外です」
それすらも楽しそうにそう言った。


そしてその嘘は一週間後本当になった。
岩ちゃんには初めての彼女ができたのだ。ここしばらく俺が国見ちゃんとばかりお昼を食べていたからその間となりのクラスの子に誘われるようになって、そうして

「昨日付き合うことになったから」

と岩ちゃんは五時間目、体育の授業のとき俺に言った。青城は体育が二クラス合同で、岩ちゃんの彼女は校庭の向こうの方で大きな胸を揺らしながら走っているところだった。

岩ちゃん本当にああいう子が好みだったの。(いや大きいのが好きなのはうすうす知ってたけど)ていうかそれって婉曲的には俺のせいでお付き合いに至ったってことじゃん。(そうかあの日態度が妙だったのはそういうことか)国見ちゃんにどんな顔してあやまったら、……いやむしろこの話をするべきなのかどうかわからない。(どうすれば、どうしたら)

おしよせる混乱に黙り込んでいると
「オイなんか言えよ、」
困ったように岩ちゃんが俺の腕を肘でつくので思わず「ごめん」と言ってそれからああちがう、思い直して「おめでとう」俺は言葉をただした。おうとうなずく岩ちゃんの頬は五月の日差しのせいでなく赤く、俺は国見ちゃんになんて言ったらいいだろうと、ただそのことばかりを考えていた。


けれど俺が話をするまでもなく、とうとつに、その日の放課後それは訪れた。岩ちゃんの彼女は正門で初々しく、彼氏の部活が終わるのを待っていたのだ。歩きながらマッキーと話していた俺がそのことに気づいたときにはもう遅かった。彼女の腕はあっというまに岩ちゃんの腕に巻きついて、岩ちゃんは困ったようなしかしまんざらでもないような顔で文句を言っていた。俺はとっさに振り返る。その瞬間、数歩うしろを金田一と一緒に歩いていた国見ちゃんの黒い瞳が驚きに凍りつく。

ああ、と思った瞬間にはその手を引いて、俺は走り出していた。


「っはあ、……は、」
行くあてなく走った足はいつの間にかいつもの裏庭にたどりついていて、痛いですよという国見ちゃんの声にようやくはっとして俺は身を引いた。国見ちゃんは肩から肘までずり落ちたエナメル鞄をもとにもどし、つかまれていた手首をいたわるようにもう片方の手でさする。痛くしてごめんね、とっさにあやまってから、そうだ俺はあやまらないといけないのだと気がついた。

「国見ちゃん、ごめん、ごめんねその、……岩ちゃんのこと、俺話そうと思ってたんだけど、その、つまり、俺がわるいっていうか、いや、その、あのさ、」

しゃべるのだけ得意なはずの口はしかしこんなときに限って上手くははたらかなくてしにたくなる。ごめん、あのさ、ごめん、数回くりかえしたところで国見ちゃんは不意にすっと目を細め、それからゆっくりと首を振った。

「……及川さん、あやまらないでください」
「! でも、」
「ちがうんです、俺、――ごめんなさい、及川さんに、嘘をついてました」

国見ちゃんの言葉はとうとつだった。なんのことかと顔を上げれば、国見ちゃんの瞳はひどくまっすぐに俺を見つめている。
岩泉さんのこと好きだって言ったのは、あれは嘘なんですと国見ちゃんは言った。
「……それって、どういうこと」
聞き返せば、強いひかりで俺を見つめていた双眸はそのとき初めてくしゃりと揺らぐ。国見ちゃんは泣きそうな顔をして、けれどそれでも最後まで、俺から視線はそらさない。

「及川さんのとなりにいられたら、――岩泉さんになれたらって、俺、本当はずっとそう思って、あの人のこと、見てたんだ」

最後まで言い切るまえにはその身体を、両手いっぱいに抱き締めていた。一拍遅れて気づいた国見ちゃんは慌てるそぶりを見せたが、それでも背中に回した腕の力はゆるめない。俺たちの骨ばった身体はぴたりとくっついて、だから、俺が震えているのか国見ちゃんが震えているのかは、よく、わからなかった。

「岩ちゃんのこと好きなんて、なんで、国見ちゃんなんで言ったの」

すぐそばの耳にたずねると、国見ちゃんの喉が小さく上下するのが触れた皮膚越しに伝わってくる。国見ちゃんは、ゆっくりとくちをひらいた。

「だって、そう言ったら及川さんやさしいから、……俺のはなし、きいてくれたでしょう」

そしたら、一緒にいられるじゃないですか。半分泣いているような、あるいは笑っているような声だった。

国見ちゃんが、「岩ちゃん」に向けて言ったことばを思い出す。
「一緒にいられるだけでいいんです」
「話ができたら、笑ってくれたら、それでうれしい」
「……中学のころから、ずっと憧れです」

その言葉の本当の相手はきっと岩ちゃんじゃなかった。こみ上げるいとおしさに喉の奥が震えてくる。強く、強く、その身体を抱きしめる。あの、と国見ちゃんは耳元でささやいた。

「……及川さん、俺に、ゲンメツしましたか」

俺の両腕の中で身体をふるわせて、(きっと勇気をふりしぼって)そう聞いてくる健気を、いったいどうして嫌いになれるだろう。俺はそっと手を伸ばしてその頭を撫でた。初めて触れるまっすぐな黒髪は意外なほどのやわらかさで俺の指をこぼれ落ち、ああきっと俺はずっとこうしたかったんだとそう思った。

国見ちゃんの制服は内ポケットが震えて、たぶん金田一あたりがなにがあったと俺たちを探している。「及川さん、」とまどったように俺の名前呼ぶ唇はそっとふさぎ、「あともうすこしだけ、」俺は国見ちゃんの目をつむらせた。







(2013.0629)