十五時五分、十分、……十五分。時計が九十度ほどすすみ、下校する生徒の波もまばらになったところで俺は立ち上がった。制服のズボンについたすのこの破片をむしゃくしゃと手で払う。

岩ちゃんめ、今日は部活お休みだからサーティワン行こうって前から言ってたのに。遅くなると混みそうだから六限終わったら下駄箱ねって言ったのに、きっと覚えていないにちがいない。ずんずん廊下を行って三階に上がり、岩ちゃんのクラスの教室をのぞけば案の定岩ちゃんは同じクラスのマッキーたち数人とだべっていた。(マッキーぜったいにゆるさない)

「ちょっと、岩ちゃん、」

入口から呼べば振り返った岩ちゃんはあれ、という顔をする。

「なんだよ、遅かったじゃん」
「はあ? こっちのセリフだし、今日サーティワンて俺ゆったじゃん」
「へ? ……あ、」

ややあって、岩ちゃんは慌てて立ち上がった。ワリ、そうだっけ忘れてた、いそいそと机の中身をスポーツバッグにしまって岩ちゃんはバタバタとガニ股でやってくる。

そうして教室の後ろのドアの前に立つ俺のところまでくると、くるりと振り返ってマッキーたちにじゃあなと手を振った。マッキーは俺の目を見て自分の未来を想像したのかちょっと遠い目をしてた。(チームメイトには多少は容赦するから、まあがんばってほしいとおもう)

並んで廊下をゆくと、おまえてっきり迎えに来ると思ってたんだよ、と岩ちゃんは言った。

「エ、なんで?」
「だって部活ない日はだいたいおまえが迎えにきて一緒に帰るじゃん。だから今日もそうなんだと思って待ってたわ」
「うわ。なにそれ超勝手。大好き」
「文句言ってんのか告ってんのか」
「だいすき〜!」
「まあ知ってっけど」
「えへ。手ぇつないでもい?」
「無理」
「せめてダメって言おうよ!!」

付き合ってるくせにまったくどこまでもひどい岩ちゃんだと思う。(まあ俺はちょっぴりエムだから嫌いじゃないけど。ほんとはけっこう好きだけど)

くだらない言い合いしながら下駄箱にたどり着くと、半分くらいはそうじゃないかと思ってたけど岩ちゃんはやっぱり傘がないと言った。昼から降りだすってニュースでやってたのに、梅雨のど真ん中のくせに平然とそういうことをやらかすのが岩ちゃんだ。どうせ俺の傘にいれてもらえばいいやって思っているんだから。まあ実際そうなんだけど。靴を履き替えてピンクの水玉をさすと、岩ちゃんはひょっこりとなりに入ってくる。そうして傘を見上げると眉根をよせた。

「おまえ、恥ずかしいからこの柄やめろって言ってんじゃん」
「いやそれ入れてもらっといて言うセリフじゃないよね!?」
「まったく恥ずかしい及川だな」
「聞いてない!!」

聞く耳もたないくせに、恥ずかしいとか言ったくせに雨のしたに出ると岩ちゃんはそっと俺に寄り添って、それからもっとそっち寄せていいからと傘を指差した。やさしいねって言ったらおまえがセッターだからだよってそっぽ向いてたけど、岩ちゃんは嘘をつくのが上手じゃないからたぶん嘘だった。約束のことすっかり忘れてたのはむかついたけど、まあ今日はゆるしてあげよう。さらさらと降り続く雨のもと、俺たちは並んで街へと続く坂道を下りた。


だいたい、岩ちゃんが俺との約束を忘れるなんて今日が初めてでもなんでもないのだ。今日みたいなことはまあ、よくあるといえばよくあることだった。

岩ちゃんはもともと忘れ物とかよくする方だし(俺がなんだって貸してあげるけど)人の話だっててきとーにしか聞いてないし(まあ一緒にいる俺が覚えてるから特に問題ないんだけど)だからどこか行こうって約束しても半分くらいしか待ち合わせには来てくれない。(俺の家となりだからいいけどねべつに)……なんだかこうやって考えると俺が岩ちゃんの惰性を助長してるような気がしないでもないけど気にしないことにする。

でもそんな岩ちゃんのことだから、あのときのことだってきっと覚えてはいないんだろうな。駅前に向かって歩きながら、俺はちらりととなりの幼馴染を見やった。


記憶の中にある遠いあの日は、やっぱりこんなふうに静かな雨だった。

そのころ俺と岩ちゃんはまだ幼稚園に上がったばかりの子どもで、目に見えるものはみんな眩しくて、雨の日でさえ二人で散歩をしては紫陽花やテントウ虫にはしゃいでいたものだ。

あの日は近くの山の中ほどに見つけた、二人だけの秘密の空き家に行くところだった。六月の雨はしとしとと降っていたから出かけると言うと親たちは気をつけなさいよと心配していたが、そんな心配をよそに俺は上機嫌だった。

新しい黄色のレインコートを買ってもらったばかりだったのだ。俺はそれをはおって岩ちゃんとお出かけできるのがうれしくってたまらなかったのだけれど、その日の帰り道、岩ちゃんはいつもよりすこしだけ急いでいた。なんでって聞いたら当時流行っていた、戦隊ヒーローの特別番組が夜にあるからなのだと岩ちゃんは言った。片手で小さな傘を差し、もう片方の手で俺の手を引く岩ちゃんの足どりはちょこまかと忙しかった。

岩ちゃんがそのヒーローをすごく好きなのは知っていたから、俺も遅れないようにしよう、そう思っていたら木の根に足を持っていかれてしたたか転んでしまった。俺を助け起こした岩ちゃんのあんなに慌てた顔は、あとにも先にも知らない。

俺は一瞬でどろだらけになっていた。頬も手足も擦りむいてしまったし、レインコートは草木に引っかかって、あっというまにぼろぼろになってしまった。そのあとの帰り道、痛くて悲しくて俺は泣いた。なによりお気に入りのレインコートがダメになってしまったのが悲しくて、岩ちゃんに手を引かれながらわんわんわんわん泣いていた。

すると山のふもとが見えてきたころ、それまでぐっと押し黙っていた岩ちゃんはおもむろに振り向いて言ったのだ。

「とおる、ごめんな、おれ、せきにんとるから」

せきにんって、なに。ぐずりながら尋ねれば岩ちゃんは鼻の頭をかいて、結婚しようとまだ幼かった俺に言った。たぶんドラマかなにかで、岩ちゃんはそんなセリフを聞いたんだろう。涙はかんたんに止まってしまった。結婚するってことは岩ちゃんと一生一緒にいられることなんだと思ったから、すごく嬉しかった。

家に帰って仰天する両親に「おれ岩ちゃんのお嫁さんになるの」ニコニコ言うと親たちは顔を見合わせて頭でも打ったのかしらと青ざめたが、結局そのあと後遺症はしっかりと残って、俺は今でもあいかわらず岩ちゃんが大好きなままである。たとえ岩ちゃんが覚えていなくても、俺は嬉しかったから雨が降るとときおりこうして思い出している。


ひとりにやにやしていると、自分のアイスを買ってきた岩ちゃんは俺の向かいに座ってけげんな顔をする。

「なにデレデレしてんだよ、溶けんぞ」
「えへへ。いただきます」

叱られて舌をのばしたアイスはおいしかった。名前は忘れたけどキャラメル系の新作と、その上にちょっとよくばりしてストロベリーチーズをのせたダブルだ。新しいのを見るとつい手を出してしまう俺と反対に、岩ちゃんはいつもチョコミントだった。おいしーねえ、ニコニコ言えば、岩ちゃんはちらりと周りを見回して小声、

「かわいい子でもいたのか」

と聞いてくる。一瞬むっとしたけど、ああそういう意味じゃないなってすぐわかった。俺が機嫌よくしてたし、店の中は女の子ばかりだから、近くに好みの子でもいたんじゃないかって岩ちゃんは心配したんだろう。(俺の好みなんて岩ちゃんしかいないのにね)

「うーんどうかなあ?」

わざとぼかすと岩ちゃんはため息をついて、俺のアイスをばくりと食べた。お気に入りのレアチーズは半分ほども持ってかれてしまう。激おこ。俺がチョコミント嫌いなの知ってる岩ちゃんは自信満々に自分のアイス持ってたからそのコーンの一番下をガブッて食べてやった。

「! おま、バッカおま、もれんだろうが!」
「あ、ホラホラもうこぼれちゃってるよ岩ちゃん急がなきゃ」
「〜〜ッ!」
「♪」


* * *


「ああ、つらかった」

店を出るなり岩ちゃんはげっそりとそう言った。

「も〜岩ちゃんたらあんなに急いで食べるからだよぉ」

傘をさしながらそう返せば、無言のまま目線だけで迅速に抹殺されるのがたまらない。俺を殺して自分もしにそうな顔した岩ちゃんの横で、俺はるんと鼻歌うたいながら家路をあるいた。俺たちの家は来た道を戻って学校をとおりすぎたさらに先だからここから歩くと軽く三十分くらいはかかるけれど、お腹はいっぱいだし腹ごなしていどにはちょうどよかった。


けれど、それは、サーティワンを出て十分ほど、大通りにさしかかったときのことだ。すぐそばの車線を走るトラックが通り過ぎざま跳ねさせた水が盛大に俺を打った。ばしゃり、ズボンに上着、それから顔まで雨水は跳んで、怒ることさえ忘れてああどうしようと思っていると、岩ちゃんは舌打ちして俺の頬に手をのばした。硬い指にぐ、となぞられて、水滴をぬぐわれる感触がある。運転手に悪態を吐きながら、

「おまえホント雨の日ついてないよな」

と言って、岩ちゃんはカバンの中からタオルを差し出して俺にくれた。あれ、と思いながらもありがとうとそれを受け取り飛び散った水を拭う。上着はもしかしたらクリーニングに出さないといけないかもしれないなあ、お母ちゃんごめんね。心の中であやまっていると、

「風邪ひかせるわけにもいかねーし、さっさと帰るぞ」

岩ちゃんはそう言って、今度はわざわざ自分が車道側に回った。女の子じゃないけれど嬉しくなって、俺はつい茶化してしまう。

「やだ、心配してくれたの? 岩ちゃんってばホントやさしいんだから、」

けれど岩ちゃんは、いつになくむっつりと眉を寄せた。

「……バカ。おまえ、顔だけはいいんだから、勝手に汚してんじゃねえってはなしだよ」

俺と結婚するんだろ。さらりと続けられた言葉に絶句した。

(なんでそういうことは覚えてるのさ。いっつもてきとうなくせに、俺の約束なんてすぐ忘れちゃうくせに)

聞きたいけど聞けなかった。言葉は嗚咽になってぐちゃぐちゃと雨の中に消えていた。

まったくべそっかきも変わんねえよな、つぶやいた岩ちゃんはひどくめんどうくさそうな顔をして俺の手から傘を奪った。外でつなぐといつも怒るくせに、その日もう片方の手をつないできたのは岩ちゃんの方だった。








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雨の話が好きだからこの時期はなんだか嬉しくなってしまう
(2013.0606)