※60話のあとの内容です。本誌ネタバレもすこし含むのでご注意ください











ずいぶんと遅くなってしまった。

家のちかくの別れ路で岩ちゃんに手を振ったころにはもうすっかり星空だ。しんと沈む田舎の夜を吸い込むと左の鼻に詰めた綿がすこし苦しかったが、それでも気分はスッとしていた。

(今日はひさしぶりによく眠れそう、)

そう思ってたどりついた家の前、けれど座敷童みたいな子どもがずぐんでいて俺は思わず悲鳴を上げる。ヒッとさがって身構えて、それからあれ、と気がついた。表札の下にしゃがみこんでいたのは見慣れたジャージの黒髪だ。そっと近寄りのぞきこむと、顔を上げたトビオちゃんは「及川さん、」すこし掠れた声で俺の名前を呼んだ。

ああそっかトビオちゃんのことが残ってたんだっけ、思うといくらか気まずさが胸をついたけれど、ふり払ってそっと手を伸ばす。

「なに、ずっと待ってたの?」
「……すんません」
「いや、いいけど」

俺の手に引き起こされてトビオちゃんはのろのろと立ち上がる。数日のうちにまたすこし背が伸びたかもしれなかった。まったくいやな後輩だ。

「あ。トビオちゃん、家は? ちゃんと連絡した?」
「……しました」

ばつの悪そうな声だった。多分いつもみたく「友だちの家に泊まる」って言って、そのこと俺に聞かず勝手に決めたのが気まずいんだろう。普段ならからかって遊んだだろうけれど今日はそんな気分じゃなかった。上がりなよ、手を引いてトビオちゃんを連れる。

母親は玄関でトビオちゃん見るとすごい嬉しそうな顔してた。この頃よく遊びに来るようになったトビオのことを気に入っているのだ。ごめんそれも今日までなんだけど、とは言い出せずに、俺はトビオちゃんを自分の部屋に上げた。

電気を点け鞄を下ろし、「夕飯どうする?」言い終える前に背中から抱きつかれる。幼さの残った手のひらはぎゅうと強く俺のシャツを握り締めた。

「及川さん、したい」

それ以外に誘い方を知らない子どもが切羽詰った声をぶつけてくる。

「……いいけど、俺今日疲れてるからたぶんまぐろだよ」
「まぐろってなんですか」

言いながら押しつけられて眩暈がする。そんな言葉も知らない子どもとこれからセックスするのか。苦笑いして居間のお母ちゃんには「外で食べてきたから」とことわった。残念そうな顔をしていたが「今日は泊まっていくのよね? じゃあ明日朝ごはんがんばるから!」と意気込んでいた。なんにも言わずうなずいたけれど、泊まっていくかどうかは、正直よくわからなかった。

トビオちゃんはその日すごくがっついて俺を抱いた。だいたいいつもそうだったけど、今日はそれよりずっと飢えてるみたいだった。たぶんお腹も空いてただろう。俺じゃお腹いっぱいにならないのになって思った。(いや俺はお腹いっぱいになるけどさ)

「ん、んん、」

押しつけられる熱に声を抑えながら、覆いかぶさる子どもを見上げる。汗をたらして、鼻水をこらえて、ぐちゃぐちゃになって腰を振るトビオちゃんが好きだった。好きだったというとすこし、いやだいぶちがうのかもしれなかった。

トビオちゃんのことは大嫌いだった。顔を見るだけでイライラすることもあったし、無邪気に手を伸ばされるたびへし折ってしまいそうな気持ちと戦っていた。大嫌いだった。俺を愛さなかった神様が愛した天才なんてくたばっちまえって思ってた。

童貞を喰ってやったのはだからだ。かんたんだった。部室でちょっと撫でてやったらかわいいトビオちゃんはすぐ真っ赤になって俺にすがりついてきた。やさしく抱きしめ返しながら「俺でいいの」ときいて、単純なトビオちゃんがうなずくことなんて初めからわかりきっていた。

下手くそにやられて身体は次の日ひどく痛んだが、俺はそれでも満足だった。だってトビオちゃんが将来大好きな彼女と迎えるべき初めては俺が奪ってやったのだ。その子を抱くときトビオはきっとひどく後悔するんだろう、そう思ったらたまらなく嬉しかった。

嬉しかったからそのあとトビオが付き合ってくださいと言ったのにもうなずいてやった。飽きたら捨てればいいやって最低なこと思いながらいつも脚を開いていた。よだれをたらして善がるトビオちゃんを見るといつも、俺はひどく嬉しい気持ちになった。自分より背の高い男に興奮するトビオちゃんはみっともなかった。滑稽だった。

あの生意気な後輩を弄んでいるのだとひどく実感できるから、トビオちゃんとするセックスは楽しかった。トビオちゃんのこと傷つけられるから楽しかった。我ながら子どもじみている。トビオちゃんのこと子どもだなんて笑えもしない。

けれどそれももうおしまいだ。

「あ、あん、あっ、トビオ、」
「っ……及川さん、」

トビオちゃんはひどく必死な顔をして俺の鼻先に噛みついてくる。今日は鼻血を出したばかりだからいやだって言ったのに、何回嫌がったってやめようとはしなかった。まるでわかってるみたいだった。俺が別れようっていうの、トビオはわかってるみたいだった。

は、と息を詰めて、トビオちゃんが俺の中でのぼり詰める。はあ、はあ、と肩で息をくりかえしながら、ああ、やっぱりと思った。唇には鉄の味がかすかに染みて、数時間まえの痛みが鼻の頭にはうっすらとよみがえっている。指でなぞれはやっぱりそれは血液だった。まったくトビオちゃんのばかたれめ、それになにより、

「……岩ちゃんの石頭め、」

つぶやけば俺の上で息を整えていたトビオちゃんはぴくりと身じろいだ。ぼうっとしてたまぬけな顔はとたんに俺を見下ろしてにらむ。

岩泉さんの話しないでとトビオは言った。まるで恋人をだれかにとられて嫉妬してるみたいだ、思ってからそういえばじっさいそうなのだった。俺の身体を飽きずにぎゅうと抱き締めてトビオは唇をよせる。

「今日、あのあとなにがあったんですか」
「なにって、なにが」
「だって及川さん帰ってきたらすごい嬉しそうな顔してたから、」
「(そうだったんだ)……今日、ごめんね」
「なにがですか」
「トビオのこと、俺殴りそうになっちゃった」
「べつにいいです」

それよりと続けかけるトビオちゃんをさえぎって、ねえ、とその頭を撫ぜる。

「ねえ、トビオちゃん、――別れよっか」

告げると子どもは今にも泣きそうな、まるで母親に捨てられたみたいな顔をして俺を見た。数日まえの俺ならきっと、なにより欲したそれは表情だったんだろう。今ではちっとも、嬉しくなかった。

トビオちゃんとした最後のセックスは悲しかった。本当のこというと俺は今日トビオに抱かれるあいだずっと泣きそうだったのだ。そうする資格もないからただただ必死にこらえていた。いつもみたいにトビオの必死な顔を見ても、なにも楽しくは感じられなかった。

岩ちゃんに叱られて殴られて、俺はたぶんわかってしまったんだと思う。今まではただ、トビオを嫌うことで逃げてただけだった。年下の天才を子どもみたいにむずがって、けれど直接それをぶつけるには俺は大人に近づいていたからだから大人のやりかたをまねてそうしてトビオに当たり散らしていた、それだけのことなのだ。俺のばかにしたトビオよりももっとずっと俺はばかだった。

泣きそうになる。けれどこらえる。鼻をすすると鉄の味がする。手の甲で拭うと、なんでですか、それまで呆然としていたトビオは俺にたずねた。

「なんで、及川さん、やっぱり岩泉さんと、」
「……岩ちゃんとは、そんなんじゃないよ」
「でも、今日、二人だけで話してた、」
「ちがうってば」
「じゃあ、なんで。俺のこと、嫌いに」
「……嫌いだったよ。トビオちゃんなんて、大嫌いだった」
「――!」

トビオちゃんの信じられないって顔は、ちょっとだけおもしろかった。こんなに表情ゆたかな子だったっけ。別れるときになって今さらそんなこと考える。

じゃあなんで俺と付き合ったんですかって聞くからトビオちゃんのこと傷つけたかったからだよって素直に答えたら最低って言われた。(素直に答えてあげたのに)まあでも自分でも最低だと思うから文句は言わないでおく。

サイテー、ばか、あほ、しんじゃえ、そんな言葉で俺を罵ったあと「好きです」とトビオちゃんは言った。頭おかしいんじゃないのって思った。トビオちゃん国語ダメな子だっけ? 聞いたら算数も理科も社会も英語もみんなダメですって言ってた。ああこの子ちょっと足りていないんだった。

「ていうか好きって、なんでさ、最低って言ったのトビオちゃんじゃん」
「でも好きです」
「趣味わるいね」
「そうですね」
「この生意気! けど、なにがいいの、俺なんか。クズだよ」
「知ってます。……でも、顔とか、あとバレーとか、あと、や、やるのも、及川さんがいいから」

(俺の存在価値って顔と身体とバレーだけだったのか)

俺が微妙な顔してるのに気づいたのかトビオちゃんは慌てて「あとやさしいですよね」自分で言ってそれから首を傾げてた。俺は思わず笑ってしまった。笑いながらおでこにキスをして、それからトビオを抱き締めた。トビオはよくわけがわからないけど、でもきもちいいなみたいな顔して俺の鎖骨に顔をうずめてた。ちょっぴりばかだけどかわいかった。

まったくおばかなトビオちゃん。
このままでいたらおまえのことちょっと好きになっちゃいそうだったから別れようって言ったのに。

おばかなトビオちゃん。






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タイトル:アーバンギャルドから
指定ありがとうございました!
(2013.0520)