※及川がクズです








教室に二人で戻ると、真っ先に窓ぎわの岩ちゃんと目が合った。俺のとなりにいたクラスメイトの女の子はぱっと顔を背けて、「あのさあ、」いつもつるんでいる子たちの輪のなか帰っていく。メイクは濃い目のコだったけど、うっすら耳まで赤くてちょっとかわいいなと思った。

思いながら岩ちゃんの前の席もどれば机の下からげしりと足を蹴られる。浮気してんじゃねえ、窓の外眺めてるふりしながら俺にしか聞こえない声で岩ちゃんは言った。

「え〜やだ岩ちゃんかわいー、お持ち帰りしていい?」

周りに聞こえる声でわざと冗談めかしてきけば、恋人は生ごみでも見るような目をして俺を見た。ああこの目すごい好きだな、五限目の数学の教科書とりだしながらそう思った。

だってすぐそんな目をするくせに、岩ちゃんはもう付き合って何年も俺のことを好きだ。ドン引きするくせに、クズってしょっちゅう言うくせにそれでも岩ちゃんは俺を捨てなかった。

むふふ。ひとり笑いながら、制服のポケットにしまっていた封筒をエナメルの鞄にしまいこむ。うなじに岩ちゃんの視線を感じたから振り返らず、

「大丈夫ちゃんとことわるよ」

そう言うと岩ちゃんはほっとしたらしかった。俺が岩ちゃん以外選ぶはずもないのに毎回いちいち確認してくるのは結構もえるからやっぱり今日の帰りは家に連れ込もう、そう決めて手紙は鞄にしまった。岩ちゃん宛の手紙だった。


夕方部活を終えて家に帰ると両親はまだ帰っていなかった。そういえば今日はどこか出かけるって言ってたっけ、鞄の中を探すがすぐには鍵が見当たらない。ごそごそやっていればとなりに立っていた岩ちゃんがしょうがねえなと言って制服のポケットから自分のそれを取り出した。

「あ、そっか。岩ちゃん持ってるもんね」
「ん、」

差し出された鍵で玄関を開けて家に上げる。

以前クラスメイトに言ったらなにそれおかしいよって言われたけれど、俺たちにとってみればなんら普通のことだった。岩ちゃんちの鍵なら俺だってひとつ持っている。なにかあったときのためにと持たされているからだ。

「どうせうちの子はハジメちゃんにべったりだし」
「どうせうちのはトオルちゃんと一緒なんだから」

示し合わせたようにうちのお母ちゃんと岩ちゃんちのおばさんはそう言って俺たちに合鍵をわたした。お母ちゃんたちこそ息ぴったりの仲良しでおやつどきはたいてい一緒にお茶飲んでるくせにと思ったがまあ言わなかった。

岩ちゃんを部屋に上げて緑茶を出してやる。このごろ急に夏めいた五月に汗をかいていた岩ちゃんはひと息で飲み干して制服の首元をパタパタと煽った。ごくりと唾飲み込んだ俺も煽られてふらりと手を伸ばす。

せんべい布団のうえ身を乗り出してその腰に触れると、俺をにらんだ岩ちゃんはぼそり、「ゴムは」と言った。すこし考えてそういえばもうないかも、そういうものしまってる押入れの中の棚を開けてみるとやっぱり切らしていた。

「えーうそ、いっこもないかな、」
「……おまえ持ち歩いてなかったっけ、ほら、その、俺の部屋で」

この前、したじゃん。
どことなくぎこちない岩ちゃんの声はひどくぎりぎりのところで俺を逆撫ぜる。学校の鞄を落ち着かない手で探すとこんなときにさっき探していた鍵の束がひょっこりと出てきた。一応とりだし畳の上に置いて、それからまたエナメルの中をのぞきこむ。

ややあって、ポーチの中に入れていたのをああそうだ思い出した。開ければひとつだけれど一応残っていてほっとする。

「岩ちゃん、」

ふりかえると岩ちゃんは手のひらに俺の鍵束をとり、それをながめているところだった。名前を呼ばれて顔を上げると、岩ちゃんはそのうちのひとつを持ち上げて「これなんの鍵?」とたずねてくる。柄の端がハート形に湾曲した、小さいアンティーク調の鍵だった。

「……ああ、べつに、たいしたやつじゃないよ」

それよりと言って押し倒す。制服に手をかけると岩ちゃんはすこしだけ汗を気にするそぶりを見せたけれど、どうせこのあと二人とも汗だくになるんだからべつにどうでもよかった。わざと腋のしたを舐めてやると岩ちゃんはひっと声をもらし、そうしてすぐにそれどころではなくなった。

親がいないのいいことに、その日は俺の部屋で二回も三回も岩ちゃんをやった。最近練習いそがしくて久々だったからけっきょく一回ゴムに出してもおさまらなくて、「いいよね?」ってきいたら岩ちゃんはなんにも言わずにそっぽを向いてくれた。むっつりした表情にますます盛って打ち付けた。「いい」とか「したい」とかそんな二、三文字を、何回抱いても絶対にいえない岩ちゃんが好きだった。

調子に乗ってたら三回目の終わるころお母ちゃん帰ってきちゃってちょっとたいへんだった。俺はべつにそうでもないけど、岩ちゃんは慌てて服着て廊下に顏出して、お腹の中に俺の精液のこしたまま「おじゃましてます」とか「あ、夕飯うちで準備してるんで大丈夫です」とか言わなきゃいけなかったからけっこうやばかったと思う。じっさい部屋のふすまきっちり閉めたあと殴られた。

殴ってそれから両脚ひらいて「出せ」って岩ちゃんは言った。そういうことは恥も外聞もなく堂々と言えちゃうところも好きで、ついまた反応してしまいそうになるからやめてほしいと思う。授業でやった数学の公式無心に思い出しながら掻き出して、それから向かいの家に帰してやった。今日途中で切れちゃったから今度買わなきゃ、そう思って使い終わったゴムはティッシュにくるんで捨てた。

そうしてあとかたづけ終えシャワーを浴びてからそういえばと思い出し、俺は鞄から手紙をとりだした。(「岩ちゃんメールとかより手紙で伝えてくれる子がぐっとくるって言ってたなあ?」なんてでたらめ吹き込んでおいてよかった)

指先で裂いて封を切る。白地に赤と青のフランスラインが入った、意外にもシンプルな便箋のセットだった。ふだん派手目の子ほどこういう飾り気ない柄を使いたがるのはなんでなんだろう。岩ちゃんの好きそうなやつを選んだってことなんだろうか。(まあ届かないんだけど)思いながらつらつらと文面に目を通す。

丸っぽい字で書かれたありていな言葉だった。どこをどう好きになって、よかったら付き合いたい、面倒だったら断ってくれて全然かまわない、要約すればそんなところだ。

なんだ、とりたてておもしろい誤字脱字もないし案外ふつうだったな、肩透かし喰らった気分で立ち上がり、俺は机の下の小さな引き出しを開けた。学校のプリントとか入っている中から青いベルベットの小箱を取り出してとじる。

小箱はむかしお母ちゃんが使わなくなったのをたまたまもらいうけたものだ。可愛いから買ったのはいいものの背が低いせいでたいしたものも入らないし、鍵はあっても特別しまうようなものもないからと言っていた。なにそれと聞かれたハートの鍵は、これのためのものだった。

カチリ捻って開けると、そこには十数通の手紙がはいっている。気まぐれにその一枚を手に取ると、裏面に書かれた名前に懐かしさがふと胸をよぎった。小学五年生のころ岩ちゃんと一番仲のよかった女の子だった。けれど六年のはじめに引っ越すから及川くんこれ岩泉にわたしてくれる? そう言って俺を頼ったショートカットの素朴な子だった。うんもちろんとうなずき受け取った手紙はそうして今俺の手のひらでもてあそばれている。

この手紙はおもしろかった。なにがって新しい住所がきちんと書かれているところだ。のこり一年しかない微妙な時期にほかの小学校に移った彼女はきっと毎日そわそわしながら新しいマンションの郵便受けをたしかめては届くはずもない岩ちゃんの返事を待っただろう。そのさまを想像するとたまらなく満足した気持ちになったから、あのころはふとした折に思い出してはこれを読んでいた。傷つけないようそっと箱のなかにもどす。

ユミちゃん、マリちゃん、カオリちゃん、……中学校入ってカトウさんにメグミちゃん、それから高校では、たしか今日のものが四、五通目のはずだ。いろとりどりの手紙の山に受け取ったばかりのそれを重ねて鍵をかける。自然と鼻歌がこぼれ出た。タイトルも歌い手もわからないが、岩ちゃんが部屋でよく聞いている曲だった。

岩ちゃんに宛てられたラブレターを集めるのはたぶん趣味だった。自分がもらったものはほとんど手元に残っていないが、岩ちゃんに渡してと頼まれたものは全部受け取ってしまいこんでいる。

岩ちゃんに直接告げる子は、おそらくほとんどいないんじゃないかと思う。だってこの子岩ちゃんのこと好きなんだなって思ったら俺はすぐその子と仲良しになっていろいろと「アドバイス」してやるからだ。機嫌がいいときだと仲介を買ってでることさえもある。そうして次の日岩ちゃんの言葉のふりをしてその気持ちを踏みにじる。そうやって今まで何度だって手折ってきた。

でも、それはあの子たちが勝手に勘違いをするのがいけないのだ。岩ちゃんはやさしいから、だれにでもすぐやさしくするから女の子はかんたんにそれを誤解する。かんたんに俺の岩ちゃんを好きになる。(「岩ちゃんもてないもんねえ」と時折り俺がからかうのはまったくただの皮肉だったが、きっと岩ちゃんには伝わりさえしてないんだろう)

女の子はある意味男よりよっぽど短絡的だと思う。岩ちゃんが本当に大事にするのは俺だけなのに、ちょっと親切にされただけで自分が特別みたいにみんなつけ上がるんだから。手紙はだから渡してやらない。

ひとり満悦にくちもとを持ち上げていると、「徹! 晩ごはん!」とお母ちゃんが俺を呼んだ。慌てて立ち上がる。髪を乾かしそこねていた。すぐいくから、大声で返し、俺は部屋を出た。

「忘れ物した」と岩ちゃんが言ったのは翌日の昼休み、お弁当を食べ終わってひと息ついたときのことだった。なにをと聞いたら俺の家に数学の参考書を忘れたという。

「あ、そっか三限のとき微妙に困ってたよね」
「ああ、そこで思い出してさ。今日取りにいくから、」
「ん、いーよ」
「うん。じゃあ俺委員会あるから、今日はおまえ先に帰ってろ」
「え、でも俺待つよ?」

そう言ったが、けれど途中で俺は呼び出されたからその話はそこでそれぎりになった。

「ちょっときて」とメールで呼びだしたのは昨日俺に手紙を渡したクラスメイトである。そういえば断るのを忘れていたからすこし申し訳なくなって、その日はとびきりすまない顔をつくってあやまってあげた。岩ちゃんこんなふうに言っててね? ってフォローもいっぱい入れた。つけまつげはすこしだけ震えてたけど泣かないでくれたからよかったと思った。

別れ際彼女は「及川ありがとね」といってそれから、及川のこと好きになれたらよかったのにとつぶやいた。俺クズだからやめといたほうがいいよと返せば、ばかだね、んなこと知ってるしちょっと言ってみただけだよといって、小さく笑っていた。

体育館の都合で部活もないし、岩ちゃんはああ言っていたからその日は久々にひとりで家に帰った。授業終わってすぐに帰ると背を焼く西日はたしかに暑く、俺は玄関に鞄を置くとまっすぐ浴室に向かってシャワーを浴びる。火照った身体に降りそそぐ三十七度が気持ちいい。ひたいに落ちる水滴を手の甲ではらいながら、そうだ後で駅前のマツキヨに行こうと思った。ゴム切れちゃったし、洗顔もそろそろなくなりそうだ。先週岩ちゃんちに泊まったとき見たらむこうに置いてあるシャンプーも切れかけていた。

(ポイントカードどこにやったっけ、)

そんなこと考えながら自室にもどって、そうして俺はぽかんと口をあけた。

そこには散らばった手紙と、それを読む岩ちゃんの姿があった。あ、と思わず喉からもれて、その背中はゆっくりと俺をふりかえる。

背筋はぞくりと震え、けれどなんでとたずねるまでもなく俺は思い出した。昨日小箱をしまい忘れたのだ。いつもならきちんと片づけるけれど夕食のあとは疲れて寝てしまったからそのままになっていた。岩ちゃんのかたわらにさっき玄関に置き去りにした鍵がころがっている。パンドラの箱はあまりにあっさり開いてしまった。

一歩あとずさった俺を、岩ちゃんはひどくしずかな瞳で見つめている。心臓が脈打ってうるさかった。女の子にわるいと思う気持ちはほとんどなかったが、もしかして岩ちゃんに嫌われるかもしれないと思ったらしぬより怖かった。

どうしよう、怒られるかも、許してくれなかったら、でも捨てられたくない、好き勝手な声がいっせい湧いて俺は言い訳のひとつすら口にできない。役立たずの喉が攣りそうだった。あ、あ、と意味持たぬ短い切れ端ばかりが唇からはこぼれてゆく。

けれど岩ちゃんはくしゃりと笑った。

“しょうがねえやつだな”

このうえなくやさしい声だった。岩ちゃんは散らばった手紙をもとの箱にもどすと、立ち上がってそれから廊下にへたりこんでいた俺の手を引いた。岩ちゃんのもう片方の手がふすまを閉めるなり俺は抱きついて畳に倒して、それからああ、けっきょくマツキヨは間に合わなかったなとぼんやりそう思った。背中に回された岩ちゃんの手のひらはあたたかく、俺だけのための体温はやさしかった。




(2013.0518)