試験の最終日に暗記科目を集めたドSはいったい職員室のだれだ。日本史と地学とおまけに世界史って合わせて何百年分のテスト範囲ですか。光年も入っているからそれもプラス? いや光年は距離だったような気がするが眠くてもうよくわからない。

午前二時机に頬杖ついてうつらうつらしていると、おもむろに背後のふすまが開かれる。ふりかえれば片手に数冊のノートと教科書を抱えた岩ちゃんが立っていた。いつも不機嫌なその顔は俺とおなじく眠気のせいでさらにドンだ。おおかた自分の部屋で危うく寝そうになって俺の部屋に来たとかそんなところだろう。試験中にはよくあることだった。おう、と低い声でうなった岩ちゃんはふすまを閉じてデスクライトだけだった室内に蛍光灯を点けると、部屋の真ん中の布団にどんと座り込む。

「俺勉強すっから、寝てたら起こして」
「うん、いいけど。俺の方が先寝ちゃったらごめ、」
「寝んな。起きてろ」
「……」

明日の試験中うしろの席からずうっと上履きのかかとを踏んでやるかどうか真剣に検討したが、結局やめることにしてあげた俺ってやさしいと思う。岩ちゃんのぶつぶつ唱える暗記の呪文をBGMに、さっきよりすこしだけ目の覚めた頭でフランス七月革命のページをなぞる。


成績はそれほど悪い方ではなかったが、三年に上がって最初の中間試験で手を抜けるほどの余裕はさすがになかった。地学の壊滅している岩ちゃんにとってはよけいに厄介な最終日にちがいない。二年に上がるとき選択で何を取るか聞かれたから俺が地学と答えたのは多分いまでも恨まれている自覚があるが、面倒くさいからといって全部俺と同じ科目を選んだのは岩ちゃんだから俺はわるくないともおもう。

背後で連呼されるスイキンチカモクドッテンカイメーの呪文に軽くノイローゼになるころそういえばとふと思い出す。

「冥王星って今度、太陽系から外されるってニュースでやってたよね」
「まじでか」
「うん。先生も理由言ってた気がするけど忘れた」
「……そこテストでっかな」
「どうだろ? ちらっと言ってただけだし。さいあく明日の朝だれかに聞けばいいんじゃない」
「んー」

岩ちゃんはだるそうにうなずいて、それからふはあ、あくびの混じったため息を器用に吐いた。ちらりと後ろを振り返る。

「岩ちゃん、何時ごろまで起きてる?」
「ああ…? あー、寝るまで」
「うんまあそうだね。俺としてはもうちょっと具体的な数字聞きたかったけどね」
「おう」

岩ちゃんは明確な返事もせずまた手元の教科書にもどってしまったが、この分だと案外早いうちに限界はきそうだった。受け答えは眠さのためにだいぶ雑になっているし、そもそも岩ちゃんはそんなに夜更かしのできるタイプではないのだ。どちらかの家に泊まりに行っても話しているうち先に寝るのは昔から岩ちゃんのほうだった。(それをいいことにおねしょを岩ちゃんのせいにしたことも何度かあるが、それはここだけの内緒である)

今日だって俺がなんと言ってもけっきょく岩ちゃんは寝て、明日の朝なんで起こさなかったって怒られるんだろうな、そう思いながらノートをめくっていると、「及川、コーヒー」二単語で命令されて仕方なく立ち上がる。徹になにかあったときはと俺の親に頼まれ家の合鍵まで託されている幼馴染だが、さすがに人の家のキッチンまでは勝手に触れないだろう。夜だしお砂糖入れないけどいいよね、たずねると岩ちゃんはめんどうくさそうにうんとうなずいていた。俺はすこしだけ目を細めて、それから自室をあとにした。

キッチンでお湯を沸かし、岩ちゃん用のマグにコーヒーをいれて部屋にもどると注文客はもう膝に片肘をつき、ほとんど陥落状態だった。ふうふうとカップをすこし冷ましてから、その背中を揺り起こす。岩ちゃんはぼんやり目を開けると、ああ、サンキュとカップを受け取った。布団にこぼさないでよと注意すればわかってるよと言ったくせに、俺が自分の座椅子にもどるころにはやっぱり畳にこぼして慌てていた。ため息をついて片づける。

ティッシュで細かい畳の目を拭いていると、とうとう我慢しきれず布団に横になった岩ちゃんがごめんとあやまった。眠くなるとまったく素直なものだ。汚れたティッシュを放り捨て、まだぬるく残ったカップをちらりと見やる。

「岩ちゃん、もう寝る?」
「ぅうん……」
「ハハ、それどっち?」
「うん、」
「コーヒーもったいないから俺のむよ?」
「う、ん……」

返事をする岩ちゃんの手は執念で地学の資料集を開いていたが意識がもうほとんど飛びかけてるのは明白で、おもしろくなって俺はとなりにしゃがみこんだまま岩ちゃんで遊んでみる。

「ねえ岩ちゃん、俺ってイケメンかな?」
「うん、」
「あ、やっぱり? だよね〜俺もそう思ってた! 岩ちゃんも、こんなイケメンが幼馴染でよかったよね?」
「ぅん〜……」
「じゃ、もうなにかあるたび俺にボールぶつけるの岩ちゃんやめる?」
「……うん、」

思わず唇の端が持ち上がった。岩ちゃんは眠くなるとうんしか言えなくなるからかわいいと思う。そうしてそれしか言えなくなるころの記憶はいつも翌日になるとキレイさっぱりなくなっているから、きっと岩ちゃんがさっき必死に覚えたハレー彗星も、かわいそうに明日には記憶から消えていることだろう。

Tシャツを羽織った肩が小さく震えたのに気づいて掛け布団をかけてやると、おいかわ、不意に名前を呼ばれてどきりとする。なに? と思ったがそれぎりで、どうやら半分寝言のようだった。夢の中にも俺がいるのかと思うとなんだか得意になって、すこしだけいたずらをしてやりたい気持ちになる。俺は岩ちゃんの顔の横にそっと手をついた。

「ね、岩ちゃん、……好きだよ」

返ってきたうんは、ひどく小さく掠れていた。それでも気にせず問いかける。

「岩ちゃんも俺のこと、好き?」

今度はうんと言ったのかどうかもわからないくらいの声だ。それでもその首がかすかに動くと、俺はばかみたいに嬉しくなる。最後は耳元に唇をよせて、そっとたずねた。

「ねえ俺たち、付き合おっか」

しばらくのあいだ返事はなかった。岩ちゃんは小さく寝息も立て始めているし、もしかしたらもう眠ってしまったのかもしれない。まあそんなにうまいこといかないか、苦笑して立ち上がった瞬間しかし、うん、と小さな声がたしかに聞こえて俺は戦慄する。手にしたマグカップを取り落としそうになって、あわててもう片方の手で支えてやった。

くだらない遊びだったが、それでも嬉しかった。じっさい俺は岩ちゃんのことがもうずうっと好きだ。他の人にはそうでもないくせに俺の前でだけはこんなふうにわがままばかり言って甘えてくるのだから、そんなのどうしたって好きになってしまうと思う。

鼻歌くちずさみながら座椅子に座って、岩ちゃんの残したコーヒーを飲んだ。すこし冷めていたが猫舌にはちょうどいいくらいで、無糖で苦いのも浮かれた俺には気にならなかった。そういえば間接キスだなと思ったが、俺たちは今「付き合って」いるのだからべつにいいだろう。岩ちゃんが朝起きるまで一晩にも満たない、あとわずか数時間の関係でも俺には構わない。俺がどれだけ好きだって岩ちゃんにとって俺はただの幼馴染だとわかっているから、たとえ仮初めの恋人でも嬉しかった。

コーヒーを飲み干してノートをとじると、その日は押入れから客用(というか、実際は岩ちゃん用)の布団を一組だして、岩ちゃんのとなりに敷いて寝た。同じ部屋で眠ることなんてざらにあったがその日はすこしだけ特別な気分だった。子どものころとちっとも変らない幼い寝顔も健やかな吐息も今だけは俺のものだ。明日になれば岩ちゃんが全部を忘れていたって俺は忘れない。それでいい。投げ出された手と手をつないで目を瞑り、その日はひどく幸福な夢を見た。


***


「ふ、はあ〜〜」

三限の終わりシャーペンを置いて俺が思いきり伸びをすると、前の席の岩ちゃんがなあと振り返った。問題文をとりだして、ここなんだっけ、聞いてくる。

「あー、んとねえ、……エかな、俺はエにしたと思う」
「うえっまじで? イにしちまった、」
「大丈夫じゃないかなあ、むしろこっちの文章題の方が配点……アッごめ、岩ちゃんが文章題なんて書いてるわけ、」
「ふざけろちゃんと書いたわ! ……中身てきとうだけど」
「今回もおもしろ回答期待してますネ!」
「やめろ笑えねえ!」

ぎゃあぎゃあ言いながら上着をはおり、俺たちは財布だけ持って教室を出た。試験の最終日部活は午後からだからそれまで空いた時間はいつもふたりで街に出て、ちょっとリッチに外食をするのだ。リッチと言ったって牛丼とかラーメンとかその程度だったけれど、高校生の身分にはそれだってちょっとしたイベントだった。

下駄箱で履き替えて外に出ると、五月の風は颯爽吹き抜けて気持ちいい。試験は好きではないが試験の終わったあと肩の力がふっと抜ける心地は好きだった。あしどりは自然かるくなって革靴が跳ねる。解放感にスキップするとさすがに恥ずかしいからやめろとストップが入って、俺はてへぺろ舌を出す。岩ちゃんは俺のおでこをピンとはじくと、あきれたようにため息をついた。

「えへへ、」
「えへへじゃねえよ」
「うん」
「うんて、」

しょうがねえやつだなと頭をかく岩ちゃんのとなりをにこにこと歩く。朝起きるとやはり岩ちゃんは昨日のことを忘れていたが、それでも俺は変わらずこうして一緒にいられるんだからそれでよかった。

テストも終わったし、これでもう産業革命もハッブル望遠鏡も、似通った名前ばかりの徳川歴代将軍ともお別れだ。次に待っているのはお昼になにを食べるかというすばらしい問題だった。(うーんさすが出題者俺!)何食べよっか、俺米が食いたい、正門を出て坂道をくだりながら相談していると、「あ、」ふいに岩ちゃんが顔を上げる。

「あのさ、俺さ、」
「うん? なあに、」
「昨日、おまえと付き合うことになったんだっけか」
「……へっ?」
「いやさっき試験中に答え思い出そうとして、そんときふっと思い出したんだけどさ、」

昨日おまえ、付き合う? って聞いたじゃん。なにげない口調で言われ思わず立ち止まる。正直かるくパニックだった。まさか岩ちゃんが覚えているなんて、考えもしなかったのだ。どうしようどうやってごまかそうか、考えているとぐぐう、間抜けな腹の音がする。俺のじゃないから岩ちゃんだ。眉をひそめて自分のお腹を手でおさえると、岩ちゃんは、「じゃあそうすっか」やはりあっさりそう言った。

「え、……えっ?」
「だって俺、多分うんて言っただろ」
「えっうん、でも、えっ?」
「ん、だろ。じゃ、この話これで終わりな。腹へったし、メシ食い行こうぜ」

な、と背中をかるくたたかれ思わず泣きそうになる。ちょっとだけ泣く。信号待ちのあいだにばれて岩ちゃんに笑われる。岩ちゃんはひどい。でも好きだ。今はもう嘘じゃなくて本物の俺の恋人だ。夢みたいだけど夢じゃなかった。ぐずりながら手をにぎったら恥ずかしいやつと顔をしかめられる。でも離したりはしなかった。

「昼さ、駅前の定食がいんだけど、おまえそれでいいよな」
「ぐす、……うん」
「そういえばさっきのこと思い出したかわりに結局その問題解けなかったから、及川は俺にデザートのダッツも奢るよな」
「うん、……うん? アレちょっと待って今なんかおかし、」
「今うんて言ったじゃん」
「……それとこれとは話がね?」
「抹茶味な」
「ちょっと待って自分の頭のわるさを棚に上げて話を先にすすめるのやめよう!?」

俺今月地味にピンチだしさあ? 及川なら大丈夫だよイケメンだし。こうゆうときばっかイケメンていう! ハハ。ハハじゃないよもう〜。ぐだぐだ喋っているうち定食屋にたどり着き、のれんをくぐったところでその話題は立ち消えになる。

席に通され注文を待ちながら、そういえば冥王星の問題出たよね、俺がぽつりと言えば岩ちゃんはあ、と気まずげな顔をして、さっき思い出せなかったのそれだわと目をそらすので笑ってしまった。そうか、冥王星は犠牲になったのか。どうして太陽系から外されたのかという文章題はやっぱりさっぱりだったが、そんなことはもうどうでもよかった。抹茶味なら学校に戻る途中のコンビニにあった気がするから、帰りはふたりでそこに寄ろう。





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夢だけど、夢じゃなかったー!はさつきちゃんとめいちゃんだし、それに五月はさつきだからさつきにした。地学は高校の頃先生が好きだったから取った。テストで頑張ると一言だけど先生のコメントがもらえるから嬉しかった。懐かしいね
(2013.0421)