パキ、と小気味いい音を立ててシャーペンの芯が折れる。同時に集中も折れて、俺はペンを置いた。背もたれによりかかってハアと肩の力を抜く。

現代文の宿題はなかなかはかどらなかった。原文を書いた三島由紀夫に罪はない。ただ今日はどうにも集中がつづかなかった。理由はまあ、だいたいわかっている。チクタクと置き時計の音だけが響く部屋で、俺は目をつむる。

今日、及川が女とキスしているところを見た。昼休み中庭でのことだ。驚いたが俺はすぐにその場を離れたから、たぶん気づかれてはいないと思う。実際その後の及川はいつもと変わらなかった。いつものように五限目の古文で熟睡して、いつものように部活をこなして、そしていつものように俺と一緒に帰ってきたのだ。

俺はそのどこかで及川から話があるんじゃないかと思っていたが、及川はなにも言わなかった。勘違いでなければ俺と及川は小学四年生のころから付き合っているはずだがひとこともなかった。家の前で別れるまぎわ、あの巻き髪は誰なんだと聞きたいような気もしたが、俺は結局きかなかった。

きけない、わけではなかった。そうしようと思えばきっと俺にはできたのだろう。それでもそうする気になれなかった。なんでだろうとあれから小一時間かんがえたが、たぶんたずねればどうしたって及川を責めてしまうからだ。わざわざ問いただして悲しい顔をさせるのは嫌だった。

俺はヘンなのだろうか。客観的に見ればたぶん俺は、「浮気なんてサイテー! 及川のドクズッ! キャッ!」とか言う立場なんだろう。(いやそういう言い回しじゃないかもしれないけどたとえばだ)けれどどうしてもそういう気分にはなれなかった。そもそもあれは浮気なのだろうか? だとしたら浮気ってどこから浮気になるんだろう。俺は及川としか付き合ったことがないから、そういうことはあまりよくわからない。

はたしてキスはセーフなのかアウトなのか考え込んでいると、ノックもせずに姉が部屋にはいってくる。

「ちょっとハジメ、あたしのTシャツこっちにきてるでしょ、」
「は? 知らね、……って姉ちゃん服着ろ! 服を!」
「その服を探しにきてんじゃん」

男子高校生の性欲にまったく無遠慮な風呂上りにううと泣きながら手で両目を覆って、ため息をつく。一瞬振り返った風呂上りは、下は部屋着を履いていたからまだいいが、せめて上も下着くらいはつけてくれないだろうか。無理か。無理だな。

「ていうかアンタも探しなさいよ」
「全力で遠慮します」
「ちぇー、」

しばらくガサガサやっていたが、そのうち目的のものを見つけたのかあったあったと姉は満足げに言った。ほっと肩の力が抜けて、そういえばと、ようやく服を着た姉をふりかえり聞いてみる。

「なあ、姉ちゃんさ、」
「んー?」
「たとえばなんだけど付き合ってる相手がさ、ほかのやつとキスしてたらそれって浮気?」

たずねると姉は数度ぱちぱちとまばたいて、それから噴き出した。

「やだ、ハジメ浮気されてるの? 超かわいそう〜〜」

うける〜〜とでも語尾につきそうな言い方のどこがかわいそうなのかよくわからない。べつに、俺の話じゃねえしと付け足したが都合のいい姉の耳には届かなかったらしかった。そうしてさんざ「カノジョに浮気されたかわいそうなハジメちゃん」をからかってから、

「まあアンタが選んだ彼女だし浮気とかあんまなさそうだけどね」

と興味なさそうに言って、姉は部屋を出て行った。もしも「俺が付き合ってんの、姉ちゃんの初恋の相手のトオルだよ」と言ったらどんな顔をしたのだろう。俺はすこし興味深い。

そうだ、姉ちゃんの初恋はトオルだった。そしてトオルの初恋は俺だ。あのころはまだかわいいところもあった(かもしれない)姉ちゃんが「ハジメこれとおくんに渡してきて」とキャラクターものの手紙を俺にわたして、それを俺が届けたことからはじまったのだ。

目の前で読み終えたトオルは泣いて、「ハジメちゃんなんでこんなのわたすの、おれハジメちゃんがすきなのに」といった。とくべつ泣き虫でもないトオルが泣いたから当時の俺はひどく動転して「ごめん、俺もだから」と口走り、そうして俺たちは付き合うようになったのだ。(と、考えてみるとなんだか姉ちゃんのおかげのようなかんじがするからちょっといやなのだが、じっさい事実なのだからまあしかたがない)

付き合いはじめてわかったことだが、及川はおどろくほどに一途だった。小学生のころからキレイな顔をしていたので女子にはよく告白されていたが、そのすべてを「好きなコがいるから」と断ったし、告白を受けるとその日の放課後はすこしすまなそうな顔で、「ハジメちゃんあのね」と打ち明けた。そうしてその習慣は中学に上がり、背丈の伸びた及川がより頻繁に告白されるようになって俺が「もういいから、全然怒ったりしねえから」というまで続いていた。及川は意外と律儀なやつだ。

中学二年に上がると、俺たちは初めてセックスをした。手をつないだり、家に泊まりに行っておなじ布団でねたり、あるいは親たちのいないところでキスのまねごとをしたりすることはそれまでもあったが、初めての性行為はそのすべてを足してもかなわないくらいの衝撃だった。

先に言い出したのは、及川のほうだ。いつものように俺の部屋でゲームをしていて、及川はゲームが苦手だからその日の鉄拳も俺がボコボコに勝って、「もうつまんない、ねえ岩ちゃん、」とキスをしてくるところまではいつもと変わらなかった。けれど五分、十分とそのまま続けていて、やがて、及川はしようといった。太ももには及川の制服のズボンがかすかに当たっていて、ああ、とうとうこのときがきてしまったのだと俺は思った。

夕飯を食べて及川の泊まっていくことを告げれば親がなにも言いにこないのは知っていたから、俺たちはその日声をひそめて、俺のベッドでした。俺はそのときまでてっきり自分が受け入れる側だと思っていたから、及川が「いれて、」と顔を真っ赤にして絞り出したときにはたいそうおどろいたものだ。だって一途すぎるくらいに及川が俺を好きなのは知っていたし、男なら好きな相手を抱きたいものだろうと思っていたから、俺はそうだと信じてうたがわなかったのだ。おどろきながらも言われたとおりになんとかおさめると及川は泣いて、そんなに痛いのかと気遣えば「うれしい、」と気丈に笑っていた。

行為の終わったあと、なんで俺がする側だったのときいたら及川は

「だって岩ちゃんが痛い思いするのやだったから」

といっていた。バカなやつめ、俺だって痛い思いしてもいいくらいにはおまえのことが好きなのにと思ったが、恥ずかしいから言わないでおいた。かわりにふとんの中で手をつなぐと及川はひどくうれしそうにすりよってきて、猫がごろごろいうみたいに岩ちゃんすき、といっていた。


(――ああ、だから、そうだ、)

だから俺は、及川を疑えないのだ。

及川はかるくて顔もよくてもてるから、女子と一緒にいるのはそれこそよく見かける。キャアキャア言われているのを目にすればいろんな意味で腹もたつが、それでも、及川がそのうちの誰かを好きになるのは想像がつかなかった。自分に自信があるとか、そういうわけではけしてない。ただ及川を信じている。それだけのことだ。

今日のことにも、きっとなにか理由があったのだろう、そう思っていると鞄に入れっぱなしの携帯が振動する。開けてみればちょうど及川からメールだった。『現文の宿題みして』に『自分でやれ』と返したが、となりの家の及川の部屋から電気が消えたから、たぶんやつはもうこっちに向かっているところだろう。

そうして三分も経たないうちに部屋のドアが開いた。姉ちゃんといいこいつといい、部屋のドアをノックするとかそういう習慣をもうちょっと持つべきだと思う。文句を言おうとふりかえって、しかし俺は途中で止めた。

及川はひどい顏だった。目が腫れていないから泣いてはいないようだが、その寸前といったかんじだ。「おまえ玄関でもそんな顏してたの、」念のためきくと及川は「さっきまでは我慢してたからお母さんはなんとも思ってないよ」と先回りしてこたえた。

すこしだけほっとして、まあ座れよと床のうえのクッションを指でしめす。丸い大きなビーズクッションは及川のお気に入りだったけれど、及川はううんと首を横に振る。そうして後ろ手に部屋のドアを閉め、「岩ちゃんあのね」と切り出すのを、ちょっと待てと俺は制した。立ち上がって部屋の鍵を閉め、それから及川に向き直り、つま先ですこし背伸びをして唇を押し付ける。

「……岩ちゃん、なんで、」
「だっておまえ、泣きそうな顏してる、」
「っでも俺、岩ちゃんに、」

言葉は途中から嗚咽がまじってほとんど聞き取れなかったが、「こんなことしてもらえないのに」と及川は言ったようだった。へたりと座り込んで泣きだす大きな身体を俺もしゃがんで抱きしめる。腕の中で堰を切ったように及川は泣いた。ぐずぐず、ぐずぐずと泣きながら及川は、岩ちゃん告白されても怒らないっていってくれたから、話すべきかしばらく迷ったんだけど、といって今日あったことを俺に話した。

あの女の子はいつものように及川に告白してきた二年生だった。及川はやはり断ったが、そうすると、一度でいいから、と女子に頼まれたらしい。そうして及川の迷っているうちキスされた。一瞬でも迷ってしまったのは小さい頃俺に対しておなじようなことを考えていたことがあったからだと及川は言った。

それでも岩ちゃん以外の人としちゃった、ごめん、ごめんねと何度もくりかえす口をふさぐ。しょっぱい味がした。ぐずぐずの及川の顔を乱暴に服のすそでぬぐう。制服よごれちゃうよと及川は言ったが、どうでもよかった。すこしだけすっきりした及川に、もう一度キスをする。そうしてしばらくつづけていると及川はぽつりと、「怒ってない?」ときいた。

「べつに、怒ってねえよ」
「ほんと?」
「ホントだって」
「……これって、浮気にならない?」
「…バカ、なんねえよ。だいたいおまえ未だに童貞のくせに、そんなことできるわけねえだろ」
「なっ! な、な、なんだったら、今ここで岩ちゃんをだ、抱いてもいいんだから!」
「ハ、無理だろ。……それに、」

お前は浮気とか、絶対しねえよ。そういって俺が笑うと、及川はようやくほっとした顔をして、それからふと思い出したように、現文の宿題みせてといった。

「おまえ、あれ口実とかじゃなかったのか」
「うん、だって自分でやるのめんどくさかったから」
「……明日なんかおごれよクソ川」
「えへへ」



+++
岩ちゃんの愛は深くてどっしりしてて木が根を張るみたいに広がっているから、風が吹けば先端の葉が揺れることはあっても、その根が揺らぐことはないと思ってる。
だから及川がなにをしても岩ちゃんは及川のこと信じてるよ。
岩ちゃああああああああああああああああん。゚(゚^o^゚)゚。
(2013.0324)