及川からメールがきたのはちょうど、部活の終わる時間のことだった。

『おいでよ』

タイトルもないたったの4文字にため息をついて、影山はロッカーを出る。チームメイトたちはいまだ着替えの途中だったが、部屋を出る影山に声をかける者はだれもいなかった。ついでにいうならドアの閉まる瞬間自分への悪態がきこえた気がしたが、もう、どうでもよかった。

学校を出てちょうど間に合ったバスに乗る。及川と会うときはいつも駅前で待ち合わせだった。外はもう暗く、数時間の部活で身体は疲れていたが今学校出ましたとメールを返して携帯を折る。バスの一番後ろの席でひとり揺られながら、及川の顔を見たいような、見たくないような、そんな気分だった。

今日の部活も、最悪だった。最悪というのはもっとも悪いということだから毎日最悪というのもヘンな話かもしれないが、影山にとってはそうなのだから、そうだ。中学に入って丸二年が経とうとしているが、このチームにはまるで馴染める気がしなかった。否、馴染むという考えすら、影山にはなかったのだ。

中学二年の影山にとって、周りのチームメイトは愚鈍に見えた。バレーボールの強豪として地域に知られる中学だったが、セッターである自分のトスを活かせる者はここには誰もいない。影山はだからいつもいらいらしていた。鬱憤がたまって思わず周囲に当たり散らすことだってしょっちゅうで、チームメイトの態度はそのたび冷淡になっていった。

そうしてそれは今日もである。同級生のつまらないミスを影山が注意したのが発端で、部活の雰囲気が一気に凍りついた。影山からすれば、前から気になっていたその生徒の癖を指摘して改善させたかっただけだが、いかんせんその言い方が悪かった。影山はバレーの才能を授かったかわりにその他の、たとえば言葉をオブラートに包むとかそういう才能は一切持ち合わせていないのだ。もうすぐ春も近いとは思えないほど冷たくなった空気の中黙々と行われる練習は、やはりいつものとおり憂鬱だった。

でも、と駅前に向かって流れる景色をながめながら、影山はぼんやり考える。

中学校のバレーも、去年はまだよかった。それはまぎれもなく、同じ部活に二つ上級の及川徹がいたからに他ならない。及川はうつくしいセッターだった。見目の話にはあまり興味がないが、その流れるような力強い動きは、中学に入ったばかりの影山の心を打つには十分だったのだ。それからはただ及川のようになりたくてひたすらに練習した。

教えてくださいと頼んでも及川は影山に直接なにか教えることはしなかったが、しかし影山が自主練習をしていると「俺もやろ〜っと」と言い出し、よくとなりでサーブを打っていた。当時はそれを見て真似るのに必死で気付かなかったけれど、今思うとあれは及川なりの教えだったのだろう。その動きは今影山の身体に染みついている。

あのころはただただ練習が楽しかった。今だって嫌いになったわけでは決してないが、一年生のころと比べればそれは雲泥の差だ。あのころは練習して一日も早く上手くなって、及川たちとおなじところに立って試合がしたかった。

けれどその練習が実をむすび、影山がスタメンに入ったのは、及川たち三年生が大会を終えて部活を引退したのと同じ日のことだった。影山はチームを抜ける及川のかわりに、北川第一中の正セッターになったのだ。及川とおなじチームで試合をする夢は、とうとうかなわなかった。

その日の部活の終わった後、だれもいなくなったロッカールームで影山はひとり泣いた。ベンチに座ってこらえきれずぼろぼろと流れるのをそのままにしていたら及川に見つかった。及川は影山をみつけると、

「忘れ物しちゃったんだ、」

と笑って部屋の鍵をしめ、ベンチに膝をついて影山にキスをした。そうして突然のことに驚いているあいだに、影山は童貞を失っていた。

行為が終わってベルトを締めると、及川は学生手帳を一枚やぶって影山にメールアドレスをくれた。そうして「いつでも連絡するから」というので、いつでも連絡していいよじゃないのかよと思ったが、及川さんらしいなとも思った。

そして本当に、及川はそれからいつでも影山に連絡をしてくるようになった。中学のあいだは及川が受験勉強に飽きるたびメールがきたし、今日のように呼び出されることだって何度あったかわからない。セックスするときもあったし、しないときもあった。すべては及川の気まぐれだった。

今日はいったいなんの気まぐれに付き合わされるのだろう、思いながら駅前に停車したバスを降りる。そうして二階のデッキに上がっていつものコンビニの前にいくと、及川は女子大生くらいの女ふたりにつかまっているところだった。声をかけようかすこし迷っていると、目が合った及川が二人にあやまって歩いてくる。

「トビオちゃん、いたなら声かけてくれたらよかったのに」
「(かけたらかけたで邪魔しないでとか怒るくせに、)すんません」

向こうの二人はいいのだろうかと思ってちらりと見たが、巻き髪の女たちはもう次のナンパ相手を探しにいくところですこしほっとした。及川はにこ、と笑う。

「なあに、妬いた?」
「なわけないでしょ」
「え〜〜、トビオちゃん素直じゃなあーい」

及川は怒ったような顔をしていたが、「付き合ってるわけでもないのに」と影山がつぶやくと人の悪い顏でまあねと笑って、鼻歌を口ずさみながら歩き出した。駅を出て西の方にいくので、今日はどうやら家に連れて行かれるらしいと思いながら、影山はそのあとを追った。

及川の家は老舗の旅館である。築何十年だかわからない木造の立派な母屋と、それを囲む立派な庭園をながめに遠くからでも客がやってくるそうだ。初めて見たときすごいですねと思わずほめたらどうでもいいよと及川は笑っていた。

及川たちの家族が暮らすのは、母屋のとなりの離れである。離れと言ってもそこには十分な広さがあるので、今日のように連れられて行っても及川の家族と顔を合わせたことはほとんどなかった。あるいは及川はその部屋の広さに耐えられなくなると自分を呼ぶのかもしれないと考えたこともあったが、影山は及川本人でないから本当のところはよくわからなかった。

八畳間のふすまを閉めるなり、及川は敷きっぱなしの布団に影山を押し倒した。まだ鞄も下してないのにと慌てれば、いつになくやさしいキスをされて文句をふさがれる。及川のキスは上手くて、影山の抵抗などすぐに力をなくされてしまった。あげくに舌をもてあそばれると、酸素が足りなくなってしにそうになる。

「たまってたんですか、」唇の角度を変える合間切れ切れにたずねれば及川は笑って、「トビオちゃんが不機嫌そうな顏してるの見てたらもえちゃった」などと言うので内心舌打ちした。本当に、いつまで経ったってやりにくい相手だ。影山は今日の練習のことなんて一言もいっていないのに、顔を見ただけできっと及川にはたいていのことがばれているのだろう。人の感情の機微を読むのは、腹が立つほど上手い男だった。影山がもうかんたんにその気にさせられていることだって、きっと筒抜けにちがいない。腹いせに自分より大きい身体を押し倒してマウントをとってやると、及川はくすぐったそうにうふふと笑った。自分がいつも受け入れる立場のくせに、いつだって余裕満々のその顔が、すこしずつ汗に濡れ上気していくさまを見るのが影山は好きだった。

ぐ、と膝を折った身体に押し込んでひとつながりになると、数週間ぶりの感触にそれだけでいきそうになって影山は大きく息を吐いた。眼下で短い呼吸をくりかえす及川の顔はもう情欲に赤く潤んでいて、たまらなくそそられる。シーツに手をついて体勢を変えると、いいところに当たったのか及川はあんと短く鳴いた。それ以上の我慢はもう利かなくて、影山はひたすらに腰を打ちつける。

ゴムをつけろと言われることは、不思議とあまりなかった。及川は腹の中に出されるといつも妙に嬉しそうな顔をしているからもしかしてこの人はそっちの趣味だったんだろうかとも思ったが、部屋に彼女がきた跡をときどき見ることもあったのでどうやらそういうわけでもないようだ。どちらにしろ、影山にはどうでもいいことだった。白い裸身にただ熱を穿つ。

運動部のくせに、及川の肌はいつだってきれいだった。外での練習だってあるだろうに、その身体はときおり女と錯覚するほどにすべらかだ。四つん這いにさせ、かたちのいい尻をつかんで犯すと身も世もなく及川は鳴いた。誰かが来たらどうしようとふすまの向こうを一瞬気にすると、気づいてふりかえった及川がふふ、と笑う。

「へいきだよ、親、全然こっちにいないもん」

だからもっとして。誘う及川の目はもうとろんとしていて、言われるまでもなく影山は腰を振った。うしろから抱くと、つながったところがよく見えるから好きだった。

限界の近い意識の中、ああ、この人とおなじになれたらいいのにと影山は思った。及川とセックスしていると、いつもそんなことを考える。

影山は及川になりたかった。自分よりずっと背が高くて、バレーができて、そして影山とはちがってチームメイトにも慕われる及川にずっと、なりたかったのだ。けれど二年生になって技術が上達すればするほど、俺はどうしたって及川さんにはなれないんだと影山にはわかっていった。影山には及川のような愛想のいい笑顔はどうやったってできないし、だれかを気遣うことなんて、もっと難しい。それでも及川はまぶしくて、羨ましくて、憧れで、どうしようもないから影山は及川を抱くのだ。及川とつながって、ひとつになって、この人になりたくて、なれなくて、絶望に咽びながら腹の中に吐精する。

すべてを吐き出して動きを止めると、及川はくたりとシーツに倒れこんだ。いつのまにか射精していたらしく、身体を離すと布団はびちゃびちゃに汚れている。独特の倦怠感に襲われてぐったり及川の上に覆いかぶさると、振り返った及川にキスされた。鼻に、頬に、唇にちゅ、と落として及川は機嫌よく笑う。尻の中に他人の精液を出されてよくこんなにへらへらしていられるなとぼんやり思いながら、一回だけのろのろと返してやった。

そういえばトビオちゃんももうすぐ三年生だねえ、身体の汚れをティッシュでぬぐいながら及川がいった。そうですねとてきとうに返すと、「うちのガッコくるんでしょう?」当然のように及川はそういったが、返事はしなかった。高校は及川とはちがうところに行って、そこで必ずセッターになって今度こそ及川とバレーをするのだと決めていた。

影山は及川にはなれないけれど、けれどそれでも、この人に近づこうとあがくことは、きっとずっとやめられないのだろう。乱れたシャツを羽織る大きな背中をながめながら、そう思った。

***

「それじゃあ、またね」

影山を玄関まで送って、及川はひとり自室にもどる。締め切ってあったふすまを開けるとそこにはまだ青臭い性の匂いが残っていて、つんと及川の鼻をつく。さっきまで二人で寝ていたふとんに座って部屋着を膝下までめくると、ろくに掻き出しもしないまま乱暴に履いた下着にどろりとたれていた。指先で惜しむようにすくって舐めると、めまいがするほどまずい。それでも及川はぺろりと舐めた。それから膝をひらいて寝そべり、さっきまでくわえていたそこに自分の指をつたわせる。入口は白い肌のなかでそこだけかわいそうなほど赤く腫れて、二人の行為の不道徳さを感じさせた。つ、とつつくと、影山の吐き出したものがとろりとあふれてくる。はあ、と思わずため息をついた。
中に出されると、まるで影山と本当にひとつになれたような気がするから好きだった。そんなはずないとわかってはいるけれど、どうしたって及川はそう思ってしまう。及川は、影山になりたかったのだ。

影山飛雄は、及川がバレーを始めて、初めて出会った天才だった。三年に上がって入ってきた一年生を初めて見たときは、生意気そうな子がいるな、くらいに気に留めていた影山だが、その才能はともに練習するうち嫌というほど実感させられた。

影山は、とにかく呑み込みが早いのだ。一週間前はできなかった動きや、考えられなかったことを、ちょっと目を離したあいだに身につけて、気が付くとあっというまに伸びている。それは恐ろしい速度だった。

小学一年生のころから何年もかけて磨いてきた自分の技術を、ともすればこいつはほんのわずかな時間で追い越してしまうかもしれないと、最も及川がそう感じたのは部活を引退するまえの練習試合を見たときのことである。

一、二年には知らされていなかったがその試合は次期スタメンを決めるための選考で、影山はセッターとして試合に参加していた。そしてそこで、影山は及川のサーブを打ったのだ。一年でまだ背も小さく、パワーだってずっと劣っていたが、それはほとんど及川のものだった。観戦していてぞくりと戦慄の走ったのを、いまでもよく覚えている。天才と自分の才能の差を初めて見せつけられた瞬間だった。そうして及川はあの日からずっと、影山に焦がれつづけている。

さっきまで影山に突っこまれていたところに自分の指をいれると生温かいものが絡んで、前がすこしだけ持ち上がった。影山の帰ったあとはときどきこうして、ひとりで自慰をする。そうするとその前の行為を思い出して、ひどく興奮するのだ。腹の底にたまったものを、全部吐き出してしまいたい気分だった。今日は春の大会のスタメンを決める日だったが、及川はそこに選ばれなかったのだ。

むずかしいところだった。もうひとりのセッター候補の先輩と及川のあいだに、技術的な差はおそらく、ほとんどなかったように思う。むしろ及川の方が秀でているところもあっただろうが、名前を呼ばれたのは先輩の方だった。春の一戦目は体格のいい選手がほしいからとのことで、及川は補欠にとどまったのだ。

悔しかった。いまだ成長途中の身体もそうだけれど、なにより体格差さえねじふせられない自分の実力が悔しかった。影山とおなじくらいの才が自分にあったらと思わずそんなことを考えてしまったくらいだ。だから影山を呼んでセックスした。機嫌の悪い顔を見たら興奮したなどと言って押し倒したが、本当にむしゃくしゃしていたのは及川のほうだ。監督に名前を呼ばれた瞬間の先輩の笑顔も、自分の非力も、それから影山の才能も、なにもかもがぐちゃぐちゃだった。ぐちゃぐちゃと自分の尻をかきまわして、及川は唇を噛む。

どんなに練習しても、セックスしてみても、影山にはなれなかった。腹の中にその精を受け入れてみても、影山の子どもになるはずだった精子はただ及川の中でしんでゆく。わかりきっているのに、やめられなかった。影山にさんざ突かれたそこを自分で弄り、びくびくと震えて及川は達する。とぷりと吐き出しながら、とびおちゃん、と小さく名を呼ぶと、たまらなく胸が苦しくなった。荒い息をくりかえしながら自分の吐き出した醜い欲望と、手のひらにのこる影山のものをからめてみても、影山には、やっぱりなれなかった。

賢者の重さにひとり黙り込んでいるとふと、畳に投げ出した携帯が振動する。汚れていないほうの手でなにげなく見れば岩泉からで、メールには、先輩が家の手伝いの途中に怪我をしたからセッターは及川に代わる旨書かれていた。もしかして知らぬうちに自分の呪詛でも届いたのではないかとすこしうすら寒くなったが、携帯をとじて、及川は右手を拭いた。一年とすこしあと影山が高校に上がってきたとき、及川は天才になれなくても、そのとき影山の絶対の壁でなければならなかった。



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タイトル:アーバンギャルドより
(2013.0320)