その子は最初、自分のことが好きなのだとばかり思っていた。選択音楽の授業で知り合った、ちょこっとギャルの入った巻き毛のかわいい女の子だ。活発な性格で、話していてもポンポンと会話の弾む子だったから選択の時間は同じグループで組むことが多かった。

仲はそれなりに良かったと思うし、なにかあるとふざけて二の腕をたたかれたりするのもよくあることだったので、だから及川は「今日の昼休み音楽準備室にきてね」と言われたときも、ああ、とうとう告白されるんだなあ、などとぼんやり考えていた。

自意識過剰とは、たぶんまわりにも言われないと思う。実際バレー部の主将をつとめる及川はその見た目だけでもかなりもてる方で、見ず知らずの女の子に告白されることだってざらにあったからだ。


(……だから、つまり、こんなことにもなるとも思ってなかったわけでさあ、)

彼女の去った準備室、及川はハアとため息をつく。その手には可愛らしいクローバー柄の手紙があった。しかし宛名は及川徹ではない。そこには女の子らしい丸文字で、岩泉くんへ、と書かれている。彼女は及川ではなく、及川の幼馴染の、岩泉が好きなのだった。

こんなこと頼んでごめんね、でも岩泉くん真面目そうだし、及川なら頼まれてくれると思ったから、

と頬を染めた少女ははにかんで、お願いねと残してひとり出て行った。及川はうんとかそっかとかそんなことを返したような気がするが、呆然としていたのであまりよく覚えてはいない。

だって及川は、いつもなら逆の立場だったはずなのだ。岩泉が誰それの手紙を受け取って及川に渡しに来るのは、実際わりとよくあることだった。しかしこんな風に仲立ちを頼まれるのは初めてのことである。なんだかへなへなと膝の力が抜けて、しゃがみこんでしまう。大きなため息をつきながら、岩ちゃんはいつもこんな気持ちだったのかなあと思った。

岩泉と及川は小学校からの付き合いだが、高校に上がってからはもうひとつの意味でも二人は付き合っている。及川がその場の冗談で俺ら付き合っちゃう? と聞いたら岩泉がいいけどと言ったのでそうなった。ふざけた始まり方とは思うが、二年経った今でもやはり変わらず仲良しである。

しかしその二年のあいだにも、岩泉が及川宛のラブレターを持ってくることは何度もあった。及川のくせにもてすぎ、ハゲろ、とかそのたび岩泉は軽く言っていたが、本当のところどう思っていたのかはよくわからない。

これほんとどうしようかなあ、手の中の手紙を見つめ考えているとポケットの携帯が鳴った。表示された名前はちょうど今考えていた相手で、及川はすこしどきりとしながら通話をとる。

「……岩ちゃん?」
『あ、及川? おまえ今どこだよ』
「え、えっとお、ちょっと取り込み中が終わったとこ?かな?」
『んだよじゃあさっさと帰ってこい、ハラへった』
「えっ、もしや岩ちゃん待っててくれてる?」
『……今日購買行ったらおまえの好きなパン買えたから、たまたまだよ』
「! っうう、岩ちゃん、大好き〜…」
「はあ? バカかおまえ」

知ってるっつの、とそっけなく電話を切る岩泉が好きだ。岩泉のいう「おまえの好きな」牛乳パンは、本当は最初あまり好きなほうではなかったのだけれど、岩泉がそう勘違いして奢ってくれたときから好きになった。岩泉とパンが待っているのだ、教室に帰る足どりはもうすっかり軽かった。受け取った手紙はあとで落ち着いたときにでも渡せばいいだろうと思って、制服のポケットにそっとしまいこんだ。


しかしそのあと岩泉に手紙を渡す機会は、困ったことになかなか訪れなかった。人目のあるところで渡すのもあれだから、誰もいない教室で、と思ったときは人がもどってきてしまったし、部活のあとのロッカーもやはり同じで、そう思うと学校は意外と隙がなかったのだ。

そのあとの流れでいつものように岩泉の部屋に行ったときは今度こそ大丈夫だろうと思ったが、今平気かな、とちらちら岩泉を見ているうち「したいの?」と聞かれ、気づいたときには服を剥かれていた。さすがに及川も今セックスしたばかりの相手に他人の気持ちを渡せるほどの勇気はなく、結局その日はお夕飯をご馳走になって家に帰った。

そうしてそんなことが何度も続いて、気づけば手紙をもらってからもう一週間が経とうとしていた。選択音楽の授業は週一回だから、明日は彼女と顔を合わせなければならなくなる。ゆううつだった。机にうつぶせどうしようともてあましていると、トン、となにかが顔の横に置かれる音がする。ぱちり目を開ければ紙パックのオレンジ100パーセントだ。そしてとなりには岩泉が立っている。

「え、…岩ちゃん? どしたの、」
「これ、やるからおまえ次ちょっとサボれ」
「ええ? でも英語、」
「てきとうに女子のノート借りればいいだろ。よりどりみどりだぞ。ついでに俺にも貸せ」

言うなり岩泉は「てきとうに言い訳しといて」と近くの男子に残し歩き出している。及川はしかたなく、そのあとを追いかけた。

そうして岩泉に連れられやってきたのは屋上だ。昼休みなどはときおり生徒がいるのを見かけたが、さすがに授業の鐘の鳴った今は二人の他にだれもいなかった。フェンスにもたれて座った岩泉のとなりに及川も腰をおろす。

「おまえ、なんか俺に言いたいことでもあんの」

切り出した岩泉の言葉は直球だった。及川は唇を噛む。岩泉はよくもわるくもはっきりしたタイプだから、こうやって真正面から聞かれるのが一番やりづらかった。すこし迷って、いや今こそ渡すチャンスじゃないかとポケットに手を伸ばし、しかし指先は内側の紙に触れてふと止まる。

「……及川?」

となりで岩泉がけげんな顔をしているのがわかるけれど、どうしようもなかった。及川は、気づいてしまったのだ。

本当は、渡す機会がなかったわけでは決してなかった。ただ、及川が渡したくなかっただけなのだ。岩泉に、手紙でさえだれかの気持ちを受け取って欲しくなかった。きっと岩泉は読んだって自分を選んでくれるとそう思うけれど、けれどどうしたって及川は嫉妬してしまう。

教室でも、部室でも、岩泉の部屋だって、渡そうと思えばそれは一瞬で、だからチャンスなんて実際はきっといくらでもあったのだ。渡さなかったのはただ、岩泉を好きな及川のエゴだった。

こんな自分を岩泉はどう思うだろうと考えると、苦しくなってくる。

「岩ちゃん、岩ちゃんごめんね、」

喉から勝手に、くぐもった声が出る。鼻が詰まって、なんだか息がしづらかった。ぎょっとした岩泉がのぞきこんでくるので、自分が泣いているのがようやくわかる。岩泉は慌てて口をひらいた。

「な、なんだよ、そんな話しにくいことだったら、俺だって無理に聞かねえし、だから、」
「……ちがうんだ、俺がね、俺が悪くて、」
「え?」

震える指先が、とうとう手紙を持ち上げる。かわいそうに少女の淡い想いは、ずっとポケットにいれられていたのですこし曲がってしまっていた。これ、といって見せると、岩泉はすこし険しい顔をして、付き合うのか、と聞く。

「え、…付き合う?」
「それ、くれたやつと、おまえ付き合うのか」
「あ! ち、ちがうよ!? そんなんじゃないし、俺岩ちゃん一番だし、」
「うん」
「だから、これ…」

岩泉のほうによく見えていなかった宛名を向けると、岩泉はあ、と口をあけた。

「俺、宛?」
「……うん、」

岩泉はぽかんとしていたが、やがて手紙に手を伸ばすので、思わずさっとよけてしまう。動いた拍子にぱたたと涙がアスファルトに落ちて染みを作った。

「…及川?」
「ごめん、岩ちゃんほんとにごめん、」

これ岩ちゃんにって渡されたんだけど、俺これを渡したくないです。喉から絞り出すとしばらく岩泉は黙っていたが、それから誰? と聞いた。

「え、」
「誰? 俺、今日断りにいくから、」
「え、っと、あの、三組のNっていう…ほら岩ちゃんも前話したことある、」
「ん……ああ、あの」

わかった、と岩泉は言った。それから、手紙はお前から返しといて、とも言った。

「え、でも、」
「本当は俺が返したほうがいいんだろうけど、おまえ、俺に渡したくないんだろ?」
「あ、うん……」
「じゃあ、わるいけどおまえから返しといてよ」

そう言って岩泉は及川にキスをした。岩ちゃんからすることなんてセックスのときくらいなのに、こんなときばかりずるい、と及川は思った。涙と鼻水でぐちゃぐちゃだけど大丈夫かな、とも思ったが、身を離した岩泉はぽつりと、嬉しかった、といった。

「嬉しかったよ、俺もおまえに手紙わたすの、いつもやだったから」

そっぽ向いてそう言うのできゅんとして、ああ俺だけじゃなかったんだと思わず抱きつくと「おま、やめろバカ制服汚れんだろ!」と怒られたが気にしない。かたちだけの抵抗はするくせに、全力では嫌がらない岩泉はやさしくて、やっぱりこの人が好きだなあと思った。

そうしてさんざ騒いだあと岩泉の好きなオレンジジュースを「どうせ最初から半分こするつもりだったでしょ」「当たり前」と分けて教室に帰り、その次の日の授業のあと、及川は彼女に手紙を返した。

彼女はすこしだけ泣いたが、見る目あると思うよと及川がいうと、「でしょ?」と強く、笑っていた。






(2013.0310)