生活指導室にはいるのは、これが初めてだった。だって普通に学校生活をしている分にはほとんど縁のない場所だ。そんな部屋のソファにばつのわるい顏で及川が座っているので、俺はずいぶんとおどろいた。言葉を失っていると、となりに座りなさいと俺を呼んだ担任がいうので言われたとおりにする。安っちい、固いソファだった。

ちらりと横に視線をやると、目の下を赤く腫らし頬に湿布を貼った及川が痛々しかった。向かいのソファに同じよう軽い怪我をしたクラスの男子と、そのとなりに担任が座る。今年同じクラスになったその男子の方は、それなりに及川と仲もいいはずだったから、不思議だなと思った。

しかし担任の話を聞けば、おどろいたことに及川が先に手を出したのだそうだ。それも、教室で話をしていたら急に手を上げて、それぎり理由も言わないのでしかたなくクラスでも仲のいい俺が呼ばれたのだという。その話をしたときだけ及川はうつむいて、ごめんね、と小さな声で言ったが、けっきょく俺がきても、なにがどうして殴るに至ったのかは、及川は頑なに口にしなかった。

そうして二十分、三十分と経つうち教師も根負けしたのか、もういいから、とりあえず仲直りだけはきちんとしなさい、と二人は形だけの握手をさせられることになった。及川の罪状は、日ごろの生活態度もかんがみて今回は厳重注意と反省文だけになるそうだ。いくらかほっとして肩の力が抜けると、今度は担任の長ったらしい説教が始まったのでげんなりした。

仕方がないからいかにもぶった説教をききながら、なんでこんなことになっただろうと、俺はぼんやりかんがえる。

及川徹はなにがあっても怒らない人間なのだと、つい一、二時間前までそう思っていた。実際にそんな人がいることなんてほとんどないのだろうけど、及川の怒ったところは今日まで見たことがなかったから、そうだろうと思っていたのだ。だからその及川が殴り合いの喧嘩をしたなんて、湿布を貼ってぶすくれた及川を目にした今でも、にわかには信じられなかった。

記憶のなかの及川は、いつだってへらへらと楽しそうに笑っている男だった。

はじめにその笑顔をみたのは、たしか小学校の入学式のときである。廊下でころんでいるのを助けてやったら、へらりと笑って及川はありがとうと言った。痛くないのかときけば、ちょっと恥ずかしかったけど、でもきみが助けてくれたから痛くないよという。へんなやつだなと思いながらそういえばと名前をいった。

「おれ、いわいずみはじめ」
「じゃあ、いわちゃんだね」
「(よくわかんないけど)うん、そうだな。おまえは」
「とおるってよんで」
「うん、とおるか。わかった」

とおると仲良くなるのに、それほど時間はかからなかったと思う。俺は昔からあまり融通の利くような性格ではなかったが、とおるはおっとりとマイペースで、せっかちな俺が「早くいくぞ」とか「ぐずぐずすんな」とか、なにを言っても怒らないのできっとちょうどよかったのだろう。

二年生に上がるころには、席替えのあとにとおるの隣の席をゆずってもらうのは当たり前になっていた。当時からとおるのことを気にしていた女子たちのことを今思うとすこしばかり悪いことをしたような気もするが、もう済んだはなしである。となりの席同士で授業中にさわいで二人まとめて廊下に立たされることもしばしばだったが、そんなときでもとおるは笑っていた。なんでと聞いたら、

「岩ちゃんと一緒だから、うれしいなあって」

などと言うので、やっぱりおかしなやつだなあと思ったのを覚えている。

三年では、ちょっとした事件があった。ありがちな話で、バレンタインにとおるがクラスで一番かわいい女の子に本命チョコをもらったのをねたんだ連中がいたのだ。翌日教室の黒板にはいかにもわかりやすくその子ととおるの名前が書かれていた。俺はそれを見た瞬間カッとなってそれを消したが、とおるはやっぱりへらへらと笑っていた。そうして、

「ぼくの本命はだれちゃんじゃないのにね」

と笑顔でいったのには教室中が凍りついていて、俺には黒板に書かれた幼稚な嫌がらせよりよっぽどそっちの方が怖かった。それ以来とおるにあの子が話しかけるところは一度も見ていない。

四年生に上がって、俺はとおるのことを及川と呼ぶようになった。かといって、そのこと自体に大した理由はない。しいて言えば、格好つけたい年頃だったとかそんなことだと思う。低学年のころはみんな互いを下の名前で呼ぶのが当たり前だったが、このころになると苗字と名前も半々になってくる。だからなんとなく及川と呼んでみた。それだけのことだったが及川はその日初めて泣いた。ショックだったから、そのときのことはよく覚えている。

こいつも泣いたりするんだなあと思いながら中庭の花壇にならんで座って、及川の小さな背中をさすっていた。あのころはまだ及川の方がずっと背が低くて、髪の毛もくるくるくせっ毛で、まるで女の子みたいだった。となりに座ると男なのになんだかいい匂いがして、同性なのにときどきくすぐったい気持ちになったものだ。

及川は泣きながら、「なんでいわちゃん及川って呼んだの」と聞いた。本当のことを答えられるくらい俺は素直じゃなかったから、「みんなそう呼んでるからだよ」とそっけなく答えたはずだ。

「じゃあ二人のときはとおるって呼んで」

と及川は言うので、たしかにそのあとしばらくはそれを律儀に守っていたとおもうが、それがいつまで続いたかは、正直あまりよく覚えていない。俺がその場でいいよと約束をすると、やはり及川は涙をふいて、えへえへと笑っていた。かんたんなやつだと思った。

五、六年の担任は、理不尽なおばさん先生で俺はきらいだった。お気に入りの子とそうでない子の扱いの差が、子どもの目から見てもはっきりわかるのだ。クラスの中は及川を筆頭としたお気に入り派と、俺を含むその他のグループに見えない線で分かれていた。

ひいきしてくれなかったからその先生がきらいだったとか、そういうわけではない。そもそもひいきをすること自体が嫌だったし、テストの出来がいいと及川の頭をやたらに撫でるのも好きではなかった。そういう気持ちが向こうにも伝わっていたのか、俺はやたらとその先生に怒られることが多かった。

及川はやはりとなりでへらへらしていたが、ある日俺を叱った先生が出て行ったあとぽつりと、「あの先生キライ」とつぶやいた。及川があの教師についてなにかを言ったのは後にも先にもその一言だけだったけれど、いい気味だと思った。(そういう面では、今思えばあのころから今の及川の片鱗はあらわれはじめていたのかもしれない)

中学に上がると、及川のまわりは途端ににぎやかになった。小学六年でするすると背の伸びた及川は俺の背丈すらも追い抜かして、すっかり大人びた顔立ちになっていたからだ。もう女の子にはまるで見えなかった。

小学生の後半から一緒に習っていたバレーも中学ではより本格的になって、試合のたび応援にくる女子の数が増えた。及川が試合に出ても出なくてもそれは勝手に増えた。正直及川ばくはつしろと何回か思ったのは決して俺だけではなかったはずである。

一年のあいだに何度か彼女ができたという話も聞いたが、長続きしたような相手はあまりいなかったように思う。そういえばあの子さあ、と話題に出したときにはたいていもう別れたあとだった。(及川やっぱりばくはつしろ)なんでそんなに付き合っては別れるのかときいたが、なぜかにこにこ笑って俺を見つめるだけで、もてるやつの考えることはよくわからなかった。そのことに対してやはり小学生のころのよう陰であれこれやっかむ輩もいるにはいたが、及川は一向気にしていないようだった。

しかしそのつぎの二年に上がって早春の今日、及川は怒った。俺の知る限りでは初めてのことだった。担任の話も終盤に近づいてきた今では、(こいつでも怒ることがあるのか、現場に居合わせればよかったな)とそんなことをつい考えてしまう。中年の担任がこほん、とせきばらいをする。

「……ということで、以後こういった卑劣な行為は絶対にしないこと。じゃ、二人とももう帰りなさい、岩泉も、わるかったね」
「いえ、……じゃ、失礼します」

及川と連れ立って指導室を出ると、遅れて出てきたクラスメイトはちらりと俺をみて、

「わるかったな、」

となぜかあやまった。そうして俺が首かしげているあいだにさっさと行ってしまうので、なんのことだと及川をふりかえると、及川は原稿用紙もらいにいくから付き合ってと言った。そういえば反省文が課せられているのだった。そうだなとうなずいて職員室にいき、指定の三枚をもらって帰る廊下ではすでに及川はへらへら笑って原稿用紙を折ったり曲げたりしていたので、すこしだけほっとした。

「なあ、さっきの」
「うん?」
「どういう意味だ? あいつ、俺にごめんって言っただろ」
「ああ、あれね」

廊下をゆきながら及川はふふ、と笑った。

「あいつ、岩ちゃんの悪口いったんだ」
「……え?」
「なんであんなやつとつるんでんのって。だからつい殴っちゃった」

なにげなく及川がいうので、最初よくわからなかったが、要はクラスでも人気のある及川とつるみたいようなやつは、そのとなりにいる俺のことを快く思っていなかったということらしい。まったく初耳でびっくりだ。

おどろいている俺を尻目に、及川は妙に機嫌よさげに鼻歌なんかうたいだす。なんだよおまえ、さっきまで怒ってたくせにと肘でつつけば及川は、

「だって反省文書くあいだ、岩ちゃん俺につきあってくれるでしょう」

といって、それは嬉しそうに笑ってみせるので思わず肩の力が抜ける。そうして鈍い俺にはようやくああとわかるのだ。

ああ、そうだ、こいつは初めて会ったときから、ずっとそういうやつだった。俺を見て笑ったり、泣いたり、そして俺のために怒るような、そんなやつだったのだ。その気持ちに、どうしていままで気付かなかっただろう。

「……とおる、」

数年ぶりにその名を呼ぶと幼馴染は顔をあげて、やはりへらりと笑ってみせた。夕陽を受けた瞳はうっすらと赤がさして、一枚の絵のようにきれいだった。それはきっと俺にしか見せない顔なのだと、今ではもうわかっていた。





(2013.0310)