「岩ちゃんお昼、学食でいーい?」

及川がそう言ってのぞきこむと、前の時間のノートを慌てて書き込んでいた岩泉はようやく顔を上げた。

「あ、学食? あー……」
「?」

なんだか歯切れの悪い返事だな? と及川は首をひねる。いつものキッパリとした岩泉なら、おういいぞとうなずいてそれで終わるはずだった。しかし今日は妙にそわそわとして、廊下のほうに視線を向けている。

「なに、なにか約束でもあるの?」
「ん…んー、まあ、その――」

“彼女、できたから”

及川には、しばらく言われたことばの意味がよくわからなかった。岩ちゃん? 彼女? できた? 単語だけがつらつらと並んで混乱しているうち目の前の幼馴染は立ち上がる。そうして「わり、」と短く残して岩泉は去った。その背中をぼんやり目で追うと、教室後方の入り口には天そぎの小柄な女子が岩泉を見上げ笑いかけるところで、及川はそこでようやく岩泉の言葉を理解した。そういえばどこかで見たことのある子だな、ぼんやり思い出しているうち二人は並んでどこかに消える。

呆然と立ち尽くしていると、クラスの女子たちがとりまいて、及川くん今日は振られちゃったの? 一緒に食べようよと笑いかけてきたが、上手く笑顔を返せていたかどうかはわからなかった。

彼女とは委員会で知り合ったのだと、五限の体育の時間に岩泉は言った。三学期の末ともなるともう授業でやることもほとんどなく、余った時間は好きな運動をしていろと言われたから裏庭で軽くトス練習をしていた時のことだ。思わずボールを取り落として叱られた。なにやってんだよと拾ってから、岩泉はそのあともぽつりぽつりと彼女の話をした。

所属しているクラスはふたつ手前の二年三組で、名前はSといって岩泉と同じ保健委員なのだそうだ。笑うとえくぼが可愛い、と岩泉のぼそり言ったあたりで顔面にボールを受けた。鼻に真正面から当たって鼻血が出たので授業の後半はけっきょく見学になった。中庭でバドミントンに励むクラスメイトを眺めながら、芝生の上に並んで座って話をした。

「まあそういうわけだから、これからちょっと、付き合い悪くなるけどさ」
「うん、」
「すねるなよな」
「す、すねないし……むしろ俺こそ女の子と遊び放題でラッキー?みたいなね、」

うるさいお目付けもいなくなってホントせいせいだよね。及川がそう言えば岩泉はくしゃりと笑って、他の奴には教えるなよと言った。そんなの言われなくたってわかってるのにと及川は思った。

小さい頃から、二人の秘密はたくさんあった。他の人には言えないような秘密ができたとき、まずは相手にだけ打ち明けるのが二人の暗黙の約束である。

たとえば幼い及川がおねしょをして、泊まりにきていた岩泉と一緒に朝早く川までシーツを洗いに行ったことも、小学生のころ及川が初めて好きになった女の子の名前を岩泉にだけ教えたことも、給食で岩泉の好きなおかずが出たとき及川がそれをひそかにあげていたのも、全部そうだ。

他の誰にも言うなとはそういうときどちらも口にしなかったが、いつだって相手の目線ひとつで、これは人にしちゃいけない話だとお互いよくわかっていた。

だからきっと、わざわざそれを言うのは、岩泉にとって初めてできた彼女が相当大切な秘密だからなのだろう。なんとなく、おもしろい気分ではなかった。

鼻血のおさまって立ち上がると、座ったままの岩泉がめずらしくなにか言いにくそうな顔をしているので、及川はようやくああと気がついた。

「彼女、おめでとね」

笑いながら期待しているだろう台詞を言ってやると、途端にほっとした顔を見せる岩泉の意外なほどの単純さが及川はいっとう好きで、そして今日は同時にひどく腹が立って、しかたがなかった。

そうして苛立ちはけっきょく部活のあいだも、それから家に帰ってからも続いて、もう寝ようと布団にくるまってもまだもやもやと消えなかった。気がつけば日付の変わる前には横になったはずなのに、壁掛け時計はもう二時を回っている。腹の中の苛立ちはなんだか時間が経てば経つほど膨れていくようで、おさまる気配はなかった。寝返りをくりかえすのも飽きてしかたなく眠れない目をあければ、天井の染みと目が合って、いつだったかあれは何のかたちに似ているとか言って二人で笑ったことをどうしようもなく思い出した。

幼い頃から、よく岩泉が泊まりに来た部屋だった。及川の家は旅館で両親はいつも忙しく動き回っていたから、小さい息子と遊んでくれる岩泉はたいそう重宝され、隙あらば泊まっていけと子ども用の浴衣を渡されていたのだ。雪の降ってひどいときなどは、二、三日そのまま一緒にいることもめずらしくはなかった。

岩泉がとなりにいるのは、及川にとって息をするのと同じくらいに自然なことだった。だから、岩泉のとなりに自分でない誰かがおさまる日がくるなんて、考えたこともなかったのだ。そしてそれが、こんなに息苦しいことだというのも、知らなかった。

(……岩ちゃんは、)

これから、あの子と昼ごはんを食べたり、遊びに行ったりするのだろうか。この部屋に遊びに来るかわりに、あの子の部屋にそわそわと訪れるようになるのだろうか。キスをしたり、それ以上のことも――。

指先で、唇に触れてみる。他の女の子とはしたことがあるけれど、岩泉とはさすがになかった。考えたこともなかった。でも、しておけばよかったと思った。岩泉は不器用だけれどやさしいから、きっと、そういうキスをするのだろう。そうして、宝物に触れるよう丁寧にあの子を扱うのだろう。遠目に見ただけだけれど、及川とはちがってひどく小柄な少女だった。

(……たぶん、こんな、)

触れ方をするはずだと、肩を手で抱いてみたり、腰を撫ぜてみたりするうち、ひどく苦しくなってくる。喉の奥が詰まって、腹の底がもやもやと渦巻いて、そして、たまらなく勃起した。

それはいつのまにか岩泉が彼女に触れる想像から、及川が岩泉に触れられる想像だった。岩泉の手ならよく知っていたから、想像はひどくリアルだった。あの硬くゴツゴツとした指が、下腹を恐る恐る撫でるのを考えただけで、そこに歪んだ熱の溜まるのがわかった。下着を脱がせるのはきっとこんなふうに戸惑うはずだから、だから腰をすこしだけ持ち上げて助けてやってと、頭の中で岩泉をなぞるのはひどく興奮した。焦らすような遅さで下着を膝までずらしたときにはもう震えるほど勃っていてめまいがする。

自分が女だったら、これから先のことも考えられたのにと、及川は残念に思った。脚のあいだの未知にそっと触れる手も、それから岩泉とひとつになることだって想像できたのに、そこにあるのはただ膨れあがった欲望だけだ。それでも岩ちゃん、岩ちゃん、と呼びながら擦るとあっけなく及川は達してしまった。

手のひらに吐き出した温度がすっかり冷えて気持ち悪くなるころ、ああ自分はどうしようもなく岩泉が好きなのだとようやく気がついた。


+++


『おやすみ』

それだけ書いて送信ボタンを押そうとして、しかし止まる。すこし迷ってネコの絵文字をひとつ付け足し、それを送った。メールが届いたのを確認して、岩泉はハアとベッドに倒れこむ。

ひどく疲れていた。今日は学校に行って授業を受けて部活をやって帰ってきた、ただ普通の一日なのに、そこに彼女が加わるだけでこんなにもちがうのかと思う。

数日前に告白されて付き合うことになった彼女のことは、たぶん、それなりに好きなはずだった。(失礼な言い方かもしれないが、岩泉はそのときまで彼女のことをそういうふうに見たことはなかったから、好きだと断じるにはまだすこし時間がかかるのだ)

お昼にと作ってくれた弁当は素直に嬉しかったし、一緒にいないときはキラキラしたメールが送られてくるのも女の子らしくてかわいかった。初めての彼女ということもあって、すこし浮かれていたのも確かだ。けれど同時に、ひどく疲れた。そっと目をつむってそこに浮かぶのは、彼女ではなく、及川の顔だった。

どうしようもなく及川に会いたかった。会ってなにがしたいとか、そういうこともない。ただ顔を見て、他愛もない話ができればそれでよかった。及川と一緒にいるのはひどく楽で、居心地のいいことなのだと、一日距離を置いただけで嫌というほど痛感した。彼女といるのは楽しかったが、及川のとなりはそれよりもっと、ずっとよかった。へんに気を張る必要もないし、メールだって一言でいい。相手の表情ひとつでだいたいの言いたいことはわかるし、それに、――岩泉はずっと、及川のことが好きだった。

初めて自覚したのは、小学校二年生のときだ。及川が好きになった女の子を自分に打ち明けたとき気がついた。言いようもない感情だった。自分にだけその名前を教えてくれたという優越感と同時に、その名前が自分のものではないという絶望がごちゃまぜになって岩泉を打ちのめしたのだ。

そのあと一週間くらいうんうんと知恵熱で学校を休んだが、心配してお見舞いにきた及川の顔を見たときにああやっぱり好きなんだからしょうがないやと諦めた。そうしてその初恋を打ち明けられないままずっと引きずって、岩泉は及川のとなりにいる。

及川はもてるから、いつだってすぐに彼女ができた。そして今日はなにをしたとかどこに行ったとかそういう話も、岩泉にはなんだって包み隠さず及川は話した。へえとかふうんとか無関心を装いながら本当は気が狂うほど嫉妬して、そのあと別れたという話を聞くとたまらなくほっとした。その後は自分と付き合えばいいのにといつも思うが、それを口にする前にはもう次の彼女がいたから、いつだってそのくりかえしだった。

そうして、こんなに頻繁に別れる及川なら、今のままずっととなりにいる方がいいのだろうかと思い始めた矢先に告白してきたのが彼女だった。岩泉にとっては委員会で話す程度の仲だったが、彼女にとってはそうでなかったらしい。部活を頑張っている姿なども見られていて、そこが好きになったのだと彼女は言った。気がついたときにはうなずいていた。及川をただ好きでいるのは思っているよりずっと苦しくて、しんどかった。

諦めるのにはきっとちょうどいい頃合いだとも思った。そうだ、あのときたしかにそう思ったはずなのに、それでも沈みゆく意識の中、ただ及川に会いたかった。







(2013.0307)