「ぼくらのお薬手帳」
2013年7月15日発行
不安症、夢遊病、共依存3本の短編集です
(及川に普通に彼女がいる話を含みます)



【不安症より一部抜粋】






「トオルくん、」
廊下から名前を呼ぶかわいらしい声に顔を上げてから自分は「トオル」じゃないのだと気がついた。

俺の前の席に座ってトランプをしていたトオルは自分の手札を机に伏せて教室の入り口に歩いていく。あーあ、及川の手番待ちだったのにと、俺は自分の手札をぽいと放る。二人でやっていたポーカーは相手がいなくなってすっかり止まってしまった。

及川は自分を呼んだ女となにか話しこんでいる。名前がマ行のどれかから始まることしか覚えていないが、長い茶髪を二つに結んだ微妙にまゆゆ似の女は及川の今の彼女だった。(もうめんどくさいからまゆゆでいいや)

まゆゆは及川の言葉をきくとなにか甘えるような、ねだるような目をしてその腕にからみついた。及川はそれにまんざらでもない顔をしてまた何か答えている。

そうして教室でなごやかに弁当をつついていたはずの女子のうち数人はそれをにらみつけている。及川と付き合ったことのあるやつもいたし、そうでないやつもいた。

そんなくだらない相関よりゲームの続きがしたい俺は窓際の席からぼんやりとそれをながめている。

まゆゆはしばらく名残惜しそうに恋人の制服をつまんだり背伸びをして頭を撫でたりしていたがやがて及川の耳元になにごとかささやいて廊下の向こうに消えた。

教室の前の壁掛け時計を見れば五限目が始まるまではあとほんの数分、さっき始まったばかりのトランプはまるで終わりそうにない。

「岩ちゃんごめんね、」
もどってきた及川は慌てて自分の手札をとったが俺は首を横に振った。

「次移動だし、また今度にしようぜ」
「え、でも、」
「いーよ」

そういって机に広がっていたカードを片付けると及川がひどく傷ついたような顔をするのはわかっていたが、俺はさっさと五十四枚の紙束に輪ゴムを引っかけてまとめてしまった。

机の中にトランプをしまってかわりに化学の教科書と資料集をとりだし、及川の背中をほらとたたく。

及川は小さくうなずいて自分も次の移動教室の準備をはじめたが、化学実験室にむかう途中の廊下でミサキが長話するからとぽつりつぶやいた。ああ、そうか。(ミサキだったっけ、)

やっぱりマ行で合ってたなと思いながら階段を下りる及川をちらりと見やれば、その表情はまだすこし暗い。

「なんだよいつまでもじめっとすんな、……今日俺の家来てもいいから、」
「! ほんと?」
「ほんとだよ」
「えっへへ、」

単純なやつめ。そう思ったが自分の一言であまりにかんたんに笑う顔を見ればわるい気はしなかった。


そうして放課後部活の終わったあと俺の家にくると、及川は待ちきれないとでも言わんばかり俺をベッドに押し倒した。さすがに俺も背中が痛かったし、とつぜん百八十近い男二人分を乗せられた俺のベッドがかわいそうだ、

「おいアホ川ちょっと落ち着けよ、」

そう言って及川の制服を引っ張ったのに及川はやだやだと言って俺の首に噛み付いてくる。(クソ、見えるところはやめろって言ってんのに、)

「だいたい家に来ていいっつっただけでやっていいとは俺言ってねえぞ!」
「だって岩ちゃんいつもやらせてくれるじゃん」
「ッ〜〜、っまえ今、一応彼女がいるんだろうが!」

ぴくり。彼女という言葉に反応して及川は動きを止めたがそれも一瞬のことだった。すでに熱を持った唇が俺の酸素を奪うようにぐっと押し当てられる。

「ね、終わったら別れるから、」

だから岩ちゃんお願い、そう言って俺を見下ろす表情にちくしょう俺はなにより弱かった。じっさい中学二年で初めてやらせてと言われたときだってこの顔にほだされたのだ。以来その懇願に勝てたためしはない。(ちくしょう、この甘ったれめ、)

好きにしろよ、吐き捨てれば及川は部活で汗だくになった俺の身体にそれは嬉しそうに鼻先をすりつける。いつになく慌てた指先にシャツを脱がされながら、俺は及川の切羽詰った顔をぼんやりと見上げていた。


こうなることは実際、半分くらいはわかっていた。昼休み俺とのトランプを邪魔されたとき及川は一瞬ひどく面倒くさそうな顔をしたから、(ああ、今の彼女ももうすぐなんだな)とそう思ったのだ。

だって及川はすこしでも何か気に入らないことがあればあっさりと女を捨てるクズだ。特に俺となにかしているとき横から口をはさんだ相手はおどろくほど一瞬で振ってしまう。

ひどいときには「岩ちゃんと喋っているとき電話をかけてきたから」という理由で俺の目の前でその相手と別れたこともあったくらいである。

いつか夜道で刺されないかまったく心配だ。(及川ではなくもちろん俺がである)

及川はそうして相手にいらついて別れるとその後はたいてい俺に当たる。八つ当たりもたとえば文句をいうとか、不機嫌になるとかそんなものならまだ可愛げがあったが及川の場合はこういう風に俺を抱くのがほとんどだった。

岩ちゃん岩ちゃん、名前を呼ばないとまるで死んでしまうかのように、及川は何度も俺を呼んでその激昂を押しつける。

こういうときの及川は、まるで抑えを知らない子どものようだった。ろくに慣らしもしないし、ゴムをつけるひまもなく突っ込んでくるし、その後だって結局は自分の好き勝手に揺さぶるだけだ。

まさか女子にも同じようにしてるんじゃないかと不安になって以前きいたらそんなことしないよと笑っていたのでほっとしたが、そういえば俺がほっとしたところで及川の行為がマシになるわけでもない。

だからせめて次の日練習のないときにこうして及川を家に呼ぶくらいしか、俺にのこされた選択肢はないのだった。

「――っ、ぅあ、」
とうとつに奥を突かれて意識は行為に呼び戻される。慌てて及川を見上げれば及川はへらりと笑って
「岩ちゃんようやくこっち見てくれたね、」
いいながら俺の膝裏を抱えてさらにぐりぐりと押し付けてきた。腹の中まで圧迫されるような感覚はいつまで経っても慣れずにただただ息がくるしい。

「おいかわ、も、ちょっ、おちつ、……っ!」
「は……いわちゃん、きもちい、だいすき」

大好き、大好き。それしか言葉を知らないみたいにくりかえして及川は俺の中に吐精した。俺は慌てて抜けと言ったのに、それなのに腹の中に吐き出される感覚に絶望する。

俺の上で恍惚とした表情のまま震えている及川に、というよりそれは、同性にいいようにされて体内まで汚されているのにどこかで及川ならいいかとそんなふうに諦めている、自分に対する諦念だった。


「はー、やっぱり岩ちゃんが一番いいなあ」
行為が終わると、及川はいつもそう言った。
「ね、岩ちゃんも俺が一番いいでしょ?」
ともたずねてくるが、俺は及川以外としたことはないからハイハイそうですねとてきとうに流してはかわいそうな自分の腰をさすっている。及川はそうするといつもご機嫌だった。(まあさんざん人の身体を好き勝手して自分は満足してるんだからそうだろうよ、)

先にひとり身を起こしてさっさと服を着始める身勝手な背中をにらんだが自分の目に力が入っているとはそれほど思えなかった。ベッドの上で身をまるめて、及川の言葉をふとくりかえす。

岩ちゃんが一番いい。
半ばもう決まった文句のようなものだからそれが及川の本音なのかどうかはわからないが、それでも悪い気はしなかった。女は他と比べられるのを嫌がる反対男は前の相手と比べられて優越を覚えるものだとなにかで読んだ。あながち間違ってもいないと思う。

「本当は今日俺の家来たいって言われたけど、めんどうだから断ったところだったんだ」

ベッドの端に座った及川はなにげなくそう言って別れのメールを打っている。今日岩ちゃんとしたかったし。続けられた言葉の醜い優越感が俺の背中をぞくりとさせる。

だからきいた。

「なあ、おまえ、俺と付き合うか?」