「懺夏」
2013年7月15日発行




【本文より一部抜粋】


岩ちゃんが彼女を好きだといったのは、中学二年の夏のことだった。

その夏は猛暑で、だから部活の終わりはいつも近くの駄菓子屋でアイスを買って二人でくわえながらあぜ道を帰っていたのを覚えている。俺はいつもメロンバー、岩ちゃんはお気に入りのみかんバーで、けれど注意がそれた隙にパクッとひとくちやられることもしょっちゅうだったから、結局は二人でメロンとみかんを分け合っていた。(おかげで家に帰るころはいつも右手がべたべただった)

じっとりと暑さの残る夕暮れの中、いつものように棒からたれてくる水滴とたたかう俺に岩ちゃんはふと言った。

「オレ、好きな子できた」

理解するのに、たっぷり数分はかかっただろう。気付いたときには「及川こぼれてる! こぼれてる!」と岩ちゃんに自分の手の惨状を教えられていたから、たぶん数分だ。ぐちゃぐちゃになった手のひらを部活用のタオルでなんとか拭きながら、だれなの、ときいた。

広い田畑の真ん中でほかに人がいるわけもないのに岩ちゃんは周りをきょろりと見回して、それから彼のものとは思えないほどの小声でぼそりと、とあるクラスメイトの名前を言った。合唱部でピアノを弾く、上品な顔立ちをした黒髪の少女だった。

前回の席替えで俺のひとつ前の席になったから、そういえば夏休み前は岩ちゃんともよく話すようになっていた。俺はそのころいつもより岩ちゃんが話しかけにくるので、なんだか嬉しいなあなんてのほほんと考えていたが、まさかそんなことが起こっていたとは夢にも思わなかった。

誰にも言うなよという声にハッとうなずき、それから

「オウエンするよ、」

棒アイスの最後のひとくちをかじりながら棒読みにならないよう言ったら見事に「あたり」だった。

こんなあたりならいらなかった。そこらの田んぼにポイと捨てれば真面目な岩ちゃんにコツンと頭をたたかれた。このやさしい拳が自分以外のだれかを叱るところなんて、絶対に見たくなかった。

クラスの女子から夏祭りの誘いがきたのは、それから数日後のことだ。自由参加で集まって、近くの大社に行くという。正直言ってあまり興味はなかった。その祭りには毎年岩ちゃんと二人で行っているからだ。だから岩ちゃんもてっきり断るのだとそう思っていた。

しかしその晩部屋にいくと、岩ちゃんあっさり行くよと言う。理由をきけば彼女がくるからと答えるので、なんだか裏切られたような気がして悲しかった。

悲しかったけれど主催には参加の返事を返しておいた。行って、岩ちゃんと彼女の邪魔をしたいとまでは思わなかったけれど、自分のあずかり知らないところで二人が一緒にいるのはゆるせなかったのだった。


夏の大祭は、このあたりではおそらく最も規模の大きい催し物である。毎年の夏至をすこし過ぎたころ、山道の途中にある神社を使って二晩開催される。

小さいころは岩ちゃんとここに来るのが楽しみでしかたなかったのに。まさかこんなどんよりとした気分でここに来ることになるとは考えてもみなかった。

甚平のポケットに両手をつっこみ、ハアとため息をつく。

「俺今日告白するから」

と、さっき石段登りながら岩ちゃんは言った。

正直かなりショックだった。俺が自分に構うのを岩ちゃんは単に幼馴染に対する執着と思っていたようだが、それは誤解である。

俺は岩ちゃんが好きだ。出会ったころからずっとそうだ。小さいころ世界には岩ちゃんと自分の二人だけだった。両親は経営する旅館の切り盛りでいつも忙しかったし、大女将の祖母は家族には厳格で怖かった。

近所に年の近い子どももなく、だから習い事のない日はいつもひとりであやとりをしたり、庭先でかたちのいい白石をさがしたりして遊んでいた。

そんなとき岩ちゃんに出会った。初めは庭の生垣の向こうからのぞきこんでいる目と目が合って思わずきゃあと叫んだが、よくよく話をしてみればそれは怪しい人影ではなく、旅館にお酒を納める父親に連れられやってきた子どもだった。

「お酒屋さんて、どこどこのおじいさんところじゃなかったっけ?」

俺がたずねると、

「じいさんギックリゴシだからしばらくはうちの酒屋になるんだって」

と岩ちゃんは言った。岩ちゃんの家は、最近ちかくに引っ越して開業した酒屋なのだという。場所をきいたら本当に目と鼻の先なのでびっくりした。

それから岩ちゃんがねえ遊ぼうよと言うので、俺はますます驚いた。そのころ幼稚園にはまだ行っていなかったし、従妹は盆と正月に来るくらい、だから年近い子どもと遊んだことなんて、俺にはほとんどなかったのだ。

「遊ぶって、どうやって?」

首を傾げると、ちょっと待ってなといって岩ちゃんは庭の向こうに消えた。そうしてもどってきたときにはサッカーボールを片手に持っている。バレーをやろうと岩ちゃんは言った。

「バレー?」
「そう、昨日テレビで見たんだ。こうやって、こう……!」

そういって岩ちゃんの放ったサーブのようなものは一撃で離れの窓を粉砕した。バリン! パラパラ、それから小さい沈黙のあと、逃げろ、と岩ちゃんがいうので言われたまま走って、野山をふたり風のように駆けて、俺は笑ってそして言った。

「いわちゃんバレーって、疲れるけど、すっごく楽しいねえ」

岩ちゃんはへんな顔をして、

「これはバレーじゃなくて、逃げてるだけだぞ」

と言ったが俺にはなんだってよかった。岩ちゃんと一緒にいるのは楽しいと思った。

そのあと結局ガラスを壊したことは家族に知れてしたたか祖母にお説教されたが、となりで正座を我慢する岩ちゃんの顔がおかしかったのでいつもの半分ほども怖くなかった。

それからはどこに行くのもなにをするのも一緒だ。あやとりも、小石をさがすのも、それからバレーも、岩ちゃんと二人でやったほうがずっと楽しかった。毎日岩ちゃんと遊んで、夕方になると家に帰らないといけないからさびしくて、それでもまた次の日になるとうれしくて、今思えば幸せな日々だった。

あのころ岩ちゃんは俺だけのものだったけれど、でもそれは幼稚園に上がって変わってしまった。岩ちゃんはみんなの岩ちゃんになってしまったのだ。俺は岩ちゃんがほかの子と遊んでいるだけで悲しくって最初はよく泣いていたが、そうすると岩ちゃんがぎゅうと手を握ってこまった顔をするので、そのうちしなくなった。

そうしてかわりに、他の女の子と遊んでみるようになった。俺が遊ぼうというと女の子はみんな嬉しそうな顔をして、おままごとだとか、お店屋さんごっこだとかをする。

そうしてしばらくやっていると、それを遠くで見ていた岩ちゃんがのしのしとやってきて俺をちがう遊びに誘ってくれるのだ。俺ほどではないけれど岩ちゃんも、俺がほかの相手と遊ぶのはそれなりに思うところがあるらしかった。

遊んでいるところを自分だけ呼ばれてひっぱられていくのは嬉しかったから、幼稚園のころは女の子とよく遊んでいたような覚えがある。

小学校、中学校に上がるとクラス替えがあるので厄介だったが、三月の終わるころ担任の先生のところにいって、

「せんせい、これ、オセワになったお礼です」

となにがしかのお菓子をわたしてすこし世間話をするとなぜか次の年岩ちゃんと同じクラスになれた。おかげでクラスの離れたことは今まで一度もない。クラスメイトも俺が「黒板見えないの」というと席を替わってくれるやさしい子ばかりだった。

二人の世界に他の誰かがはいってきても俺はそうやっていつも岩ちゃんのとなりの席に座りつづけてきたけれど、けれど今回ばかりはどうにもそれができそうになかった。

だってまさか岩ちゃんが誰かを好きになることなんて、俺は考えてもみなかったのだ。

「はあ……、」

思わず深くため息をつくと、

「及川くん、どうしたの?」
「っ!」

横から不意に声をかけられ、俺はびくりと飛び上がった。それからああ、きてたんだ、ゆっくりとぎこちない笑顔をつくる。

そこにいたのは黒髪を頭のうしろに結い、朝顔柄の浴衣に身を包んだ少女――岩ちゃんの片思いの相手だった。いつもならかわいいねとか声をかけただろうけれど、今日はとてもそんな気分になれはしない。思わず岩ちゃんの方をうかがうと、夕闇にもわかる赤い顔が押し黙っていてやっぱり見るんじゃなかったと思った。

クラスの参加者はだいたいが集まったのか、集合場所の広場からぞろぞろと移動を始めてゆく。岩ちゃんの方に行こうとしたが、彼女にねえと話しかけられたのでそちらにつかまった。

「及川くん甚平なんだね、かわいい」

いたいけな少女はそう言って笑う。私はお母さんの浴衣とおばあちゃんの下駄を借りてきたんだ、少女の話にてきとうにうなずきながら、むこうの視線がすこし痛かった。

境内に近づくとだんだん人の波が混み合って、クラスメイトは思い思いのグループに別れたようだ。野球部の男子と話していた岩ちゃんもこちらにすっとやってくる。岩ちゃんと少女と、それから少女の友人数人と連れ立って祭囃子と煙の中をあるく。

そちらこちらでいい匂いがするので思わず目移りすると、岩ちゃんにふと腕をつかまれた。

「おい、はぐれんぞ」
「わ、ごめん岩ちゃん、」

それを見ていた少女はふふと笑う。首をかしげれば、平気だよ、及川くんのことちゃんと待ってるものと彼女は言った。

「あ、……うん、そっか、」

いつになく口調の硬い岩ちゃんはぶっきらぼうに俺の腕を離す。手首に残った熱をつかの間ながめて、それから俺はあとを追った。

境内は広く、左右二つの道に別れた屋台は最奥のやぐらの方まで続いて、出店も定番のたこ焼きから金魚すくい、あるいは外国の変わった料理までさまざまだった。

時折クラスの誰それとすれちがいながら、露店のものをちまちまつまむ。焼きそばにお好み焼き、大きなものはいつも岩ちゃんと二人で分けた。そうすると俺の苦手な紅ショウガも岩ちゃんが持って行ってくれるからちょうどいい。

今日もそうして食べていると、それをながめていた少女は羨むようにいいなあと言った。

「ひとりで回っているとすぐお腹いっぱいになっちゃうから、いつもあんまり食べられないの」

ふうんと思いながら聞いていると、岩ちゃんが不意に口をはさむ。

「あれ、食べたいのか?」

そう言って指さしたのは真っ赤なりんごをでかでかと並べた、りんご飴の屋台だった。少女はえっと驚いた顔をする。

「やだ、岩泉くん、なんでわかったの?」
「……べつに、なんとなくだけど」

岩ちゃんはそう言うと、「買ってくるからちょっと待ってて」と屋台に歩いていく。やさしいね、ぽつりと漏らした少女のつぶやきにきつく唇を噛んだ。

岩ちゃんはやさしい。やさしすぎるくらいだ。となりでそれに甘えつづけてきた俺が一番よく知ってる。

なんとなくなんてそんなのは嘘だ。ずっと見つめていたに決まってる。彼女の仕草やことば、表情のひとつひとつを岩ちゃんはきっと見つめていたのだ。(考えただけで吐きそうになる)

そんなこともわからないくせにと、思わずいいそうになった瞬間買い物を終えた岩ちゃんが帰ってきてくれてよかった。すこしだけ残念なような、そんな気もしていた。仲良くりんご飴を分ける二人の姿はなるべく視界にいれないように、俺は露店の売り物をながめるふりをしていた。

そうして境内の奥に近づくにつれ囃子はにぎやかになり、それと比例するように俺の不安は大きくなった。

あれから近くにいたクラスの男子と合流したから岩ちゃんはそっちとつるんですこし前を歩き始めたけれど、ときおりこちらを振り返っては俺のとなりにいる彼女を気にしている。

告白のタイミングをうかがっているにちがいなかった。振りかえる岩ちゃんとかるく目が合うたび、焦燥はますます俺を堰きたてる。

(岩ちゃんは、いつこの子に告白するんだろう、……やっぱり、花火のあがったとき? それとも、)

考え込む俺を呼び戻したのは、となりを歩いていた少女のキャッという小さな悲鳴だった。前のめりに倒れこんだ彼女の手をあわててつかみ、「大丈夫?」声をかければ、鼻緒が切れちゃった、と彼女はいう。

「ね、及川くん、あっちで直すからいっしょに来て」
「あ、うん…」

ちらりと前方の岩ちゃんたちを見やったが、人ごみに押し流されすすんでいくその背を呼び止めるのはむずかしそうだった。あとで合流した時に説明すればいいやと思って、ひょこひょこ歩く彼女についていく。

少女の足はひとごみを避けて、今日は使われていないやしろの方に向かっていった。そうしてにぎやかな祭囃子がじょじょに遠ざかり、夏の草木ばかりに囲まれた小さな参道に出ると、彼女はくるりとふりかえる。

目と目が合って、あ、と足元に視線をおろした。

「足、へいき?」
「うん、さっきは、ちょっと転んじゃっただけだから」
「そっか、」

俺直すよと言ってしゃがむ。下駄の直し方なら幼いころ祖母に教わったから知っていた。そうして手を伸ばし朱色の鼻緒に触れて、けれど、あれ? と首をかしげる。

鼻緒は湿っていた。自然な濡れ方にはどうにも思えない。水を吸った麻は切れやすいのだと話す祖母の声を思い出した。その鼻緒を初めて直した日もたしか雨だった。

思わず見上げると、彼女はごめんねと言っておなじ目線にしゃがみ、そうして袂の汚れないようにそっと、俺の背に細い手をまわした。

「ズルしちゃったの。こうしないと、及川くんとふたりになれないって思ったから」
「……なんで、」

たずねれば少女はふふと笑って、そしてささやいた。

“わたし、及川くんが好き ”

そのとき身のうちに湧いた感情を、俺は今でも嫌悪する。

――悦びだ。それはまぎれもない歓喜だった。矮小な俺は安堵したのだ。この子が自分を好きなら、岩ちゃんの恋はかなわない。

気づいたときには目の前の小さな身体を抱きしめている。かわいそうな少女はそれを許容の抱擁と信じて身をふるわせていたが、俺にはとてもそれどころではなかった。

(岩ちゃんは、この子のものにならないんだ――!)

そう思った瞬間むこうから俺たちをさがしにやってきた岩ちゃんと目が合った。

醜い悦びが絶望に変わるのはわずかに一瞬だった。その瞳に映る失望を目にしたときすべては終わった。自分はとりかえしのつかないことをしてしまったのだとどうしようもないほどわかった。

岩ちゃんは束の間こちらをぼんやりと眺めていたが、やがて無言のまま立ち去った。呼び止める資格は俺にはなかった。

ひくりと喉をふるわせる俺を、なにも知らない少女が気遣う。及川くん、だいじょうぶ? そう言ってハンカチをさしだすやさしい彼女にはせめてもの笑顔をつくり、

「うれしくてびっくりしちゃったんだ」

とびきりの嘘を吐いた。遠くではドオンと花火が上がって、やわらかな彼女の体温は俺の腕のなかで震えていた。

祭りの帰りみち岩ちゃんはぽつりと、

「おまえもそうだったんなら言えよな」

といって、それからくしゃりと笑っていた。暗かったけれど、すこし前まで泣いていたのは隠せない顔だった。

神社を出て家に帰るまでのあいだ岩ちゃんはときおり思い出したように祭りの話をしていたが、俺もろくな返事をしないのでやがてやめた。

いっそ罵ってくれたら、あるいはいつものようにパカパカと頭を殴ってくれたらよかった。けれど岩ちゃんはそうしないどころか、その日俺を責めるようなことは何一つとして言わなかった。

悪さをすればいつも怒ってくれた岩ちゃんが自分を叱ってくれないのは逆にそれだけのことをしたのだと思い知らされてつらかった。本当につらいのは岩ちゃんの方なのにと思うとよけいにいたたまれなかった。

岩ちゃんの家の前に着いて別れるまぎわ俺は、岩ちゃんあのねとすがるように声をかけたが、振り返った岩ちゃんはやはり笑って、「おやすみ」と玄関のむこうに消えた。

悲しいくらいにやさしい声だった。

彼女とはそれからすこしの間付き合ったが、やはり上手くはいかなかった。むしろ彼女の顔を見れば見るほど罪悪感は大きくなったし、傷つけてしまった岩ちゃんへの思いはただ募るばかりだ。

デートの最中にそれとなく指先が触れたり、彼女がなにか求める表情をみせたりすることはあったが俺には結局キスのひとつもできなかった。

休みの日彼女に会うとどこかで岩ちゃんに会うんじゃないかという気がしてうしろめたく、二人で会っているときはいつも岩ちゃんのことを考えた。

そうしてそれが彼女にも伝わったのだろう、俺たちは秋の終わりに結局別れた。

「このつぎは本当に好きな人と付き合えるといいね」

赤い目をした彼女はそう言って笑っていた。

別れたことを話すと岩ちゃんはうんそうかと言って俺のはなしを聞いてくれた。そんなときまで岩ちゃんはやさしかった。そのやさしさをますます好きになって俺が泣くと、かんちがいした岩ちゃんは一緒に泣いてくれた。

やさしいゴツゴツした手のひらに頭をぽんぽんとたたかれながら、彼女の言ったことばを思い出していた。本当に好きな相手と付き合える資格は自分にはとてもないと、そう思って俺はまた泣いた。

「岩ちゃん俺、別れちゃったよ」

十月の夜部屋にやってきた及川はふいにそう言った。
俺はいつものようにゲームをやっていて、及川はいつになくぼんやり俺のベッドに座ってそれをながめていたときのことだ。思わずコントローラ握る手を止めて及川を見上げ、それからはっとして、またテレビの画面に向き直った。

バク、バク、とうるさい心臓を隠すように「それで」と続きをうながすと、彼女と上手くいかなかったこと、昨日彼女から別れを切り出されたことを及川は話した。

ときおり相づちを打ってそれを聞きながら俺は、ほんの一瞬浮かんでしまった喜びを及川に見られなかったかどうか、内心気が気ではなかった。


親友が別れたと聞いて喜ぶなんて、どうかしているだろうか。それでもたまらなく嬉しかった。「及川が」誰かのものでなくなったことが、俺はとほうもなく嬉しかったのだ。

夏のおわりに、及川が自分の初恋の相手と付き合い始めたときは悲しかった。初めは彼女を及川にとられたからこんなに苦しいのだとそう思っていたが本当はそうではなかった。

なによりきつかったのは、及川を彼女にとられたことだ。人間に対して物みたいに、とったとか、とられたとか、そんなふうに考えるのはよくないと思うけれど、でも俺にとってはたしかにそうだった。

昼休み一緒に弁当を食べる権利も、休み時間のたびくだらない話をして笑う権利も、休日どこかに出かける権利もみんなみんなあの子のものになってしまった。

及川と俺はあいかわらず幼馴染で親友で、その事実が変わることはなかったけれど、それでも及川に彼女ができたことで二人過ごす時間はおどろくほどに減ってしまった。

同じバレー部の友だちと昼ご飯を食べながら話していて、及川にふと話を振ろうとしたのにしかしとなりにいなかったときのあの孤独感を後にも先にも俺は知らない。

及川がとなりにいることは俺にとって、あまりにも当たり前すぎた。いざいなくなって初めて及川が欲しくなった。たまらなく欲しくなった。

彼女と一緒にいるところを見ると何度もとってかわりたいと思ったし、自分があるいは女だったらなんてバカな妄想もしたし、あるいは、そうだ、――早く別れたらいいのにとさえ、悪辣な俺は思っていたのだ。

とうとつに涙があふれ出た。別れた彼女を思ってやはり泣いていた及川は「岩ちゃん泣かないでよ」といったが、どうしようもなかった。

腹の底からせりあがる歓喜と、自己嫌悪と、それでも抗いきれない安堵に俺は泣いた。同じように身を震わせる及川の頭にそっと触れると、ひどく幸せな気分になれた。

及川がなにも言わないのをいいことにその身体を抱きしめると、胸がぎゅっとして、湧き上がるいとおしさに胸が詰まった。

遠くでゲームオーバーの音楽が流れる部屋で、及川はようやく自分のところに帰ってきたのだと、そう思っていた。