「解」
2014年3月16日発行



<本文中より一部抜粋>

及川が笑わなくなると、俺にとってのバレーボールはあまりにもかんたんにつらいものになるということをあの年の六月初めて知った。

スパイクは全然噛みあわなくなった。及川は俺のせいでゴメンと言う。俺が打てないことで、及川はよけいに追いつめられていく。自分の不調よりもむしろそんな及川を見ているのがつらかった。

幼いころから及川とはずっと一緒だった。仲良しのトオルが風邪を引くと弱った顔を見るのはたまらなく悲しかったし、虫歯をつくって処置室で大泣きしているあいだ、俺はその横の廊下で拳を握りしめて神様に祈ってた。トオルの痛みをどうか俺にくださいって、今思うとばかげたことを祈ってた。

及川の体調にはそれからひどく気をつけるようになったから以来あいつは大きな病気も虫歯もしていないけれど、でもそのときの悩みだけはどうにもしてやれなかった。身体を壊すからいい加減練習をやめろと叱るのに、及川の耳にはこれっぽっちも届かないのだ。

俺はとうとう練習をズル休みした。苛立ち荒れる及川をこれ以上見ているのに耐えられなかった。及川に何もできない自分が歯がゆかった。

風邪を引いたからと言って土曜の練習をまるまるサボった。サボって当時のクラスメイトと遊びに行った。水泳部の胸の大きい子でぶっちゃけタイプだった。以前から教室ではよく喋る方だったから、その日もたまたま誘われていたのだ。

夏っぽいピチTと下着ギリギリのデニムに目を奪われながら一日その子と遊んだ。
めちゃくちゃ楽しかった。カラオケもボーリングも面白かったし、ふにっとした二の腕が俺の肘に絡んでくるたび素直にコーフンもした。バレー部のほかでこんなふうに遊ぶのもいいのかもしれないと揺らぎもした。

でも、結局一瞬のことだった。
その日の帰り、俺は彼女と別れてたまたま中学の横を通りすがったのだ。夜もずいぶん遅い時間だった。さすがにもうバレー部の練習も終わってるだろうってなにげなく体育館の横を過ぎようとして、しかし足を止めた。

体育館からは、明かりがもれていた。
ぞくりと予感が、背筋を走った。

(まさか、だって、もう夜の……十時も過ぎているじゃないか、)

きっと誰かが電気を消し忘れたにちがいないと、俺はそう思い込もうとした。脳裏をよぎる考えはけれど消えなかった。

この先をのぞいたらいけないような、しかしここで目をそらしてはいけないような気がして束の間迷って、悩んだ末に小さくドアを開けた。ドアを開けて固まりついた。

及川が立っていた。
自主練のため、ただひとつ残されたコートの前に及川が立っていた。
見慣れた一番の背中は予備動作のためにゆっくりと屈み、ボールを高くかかげ、踏み込み、飛び、――そして打つ。

それは、数秒にも満たないモーションだった。何百、何千、あるいは夢にまで見るくらいに見慣れていたはずの背中だった。それでも俺にはたまらなくうつくしいものに感じられた。

及川のバレーは、きれいだった。
(そうだ、俺は最初からあのサーブに魅せられていたんだ)
そんな根源のことまでも掘り返される一打だった。

小学生のころテレビのバレーボールを真似てサーブを失敗していたあいつを最初は笑っていたはずなのに、初めてそれが成功した瞬間が、俺にはあんまり鮮烈で、だから、そうだ、――俺のバレーは、はじめから及川徹で始まっていたのだ。

レフトを選んだのだってきっと、誰より及川の近くでそのプレーを触れていられるからだった。頭の悪い俺はそのときになってようやくそのことに気づかされた。
同時に今日一日分の時間をむだにした、及川と練習の溝をあけられた自分が悔しくてひどく情けなくて、その日は黙って体育館の扉を閉めてひとりで家に帰った。

帰り道はどうしようもなくこみ上げる感情で泣いていた。及川のバレーを好きだと思った。及川とするバレーが好きだと思った。

それを守るためにはこの先何があっても及川のことを支えようと、強く、強くそう思った。
及川のことを力いっぱいぶん殴ってオーバーワークをやめさせたのは、その次の日のことである。