「はだしの」
2013年10月27日発行
27歳及岩捏造本。大学の終わりに1回寝たあと岩ちゃんがいなくなって、数年後にまた再会する話です。



【冒頭より一部抜粋】



木曜深夜、二十二時。
薄暗い御徒町オフィスの一室、パソコンの青色光の前に座ってキーボードを打ち続ける。雑然としたデスクの上に置かれたマグカップは染みついたコーヒーの色で元々の白をなくし、かわりにモニタに向かう俺の顏はかすかに青白い。

ときおり見回りにやってくる守衛には
「及川さん、遅くまで頑張ってますね」
つまるところ、
「早く帰ればいいのになア」
と遠回しな催促をされたが、できれば今日区切りのいいところまで保険適用の書類をまとめて、明日のうち顧客に送ってしまいたかった。

味のしないコーヒーをひとくち口に含み、首を回して画面に向き直る。
おととし営業職を辞めて内勤の仕事に転職してからというもの肩の凝りはいつしか慢性化し、初めのうちはたしかに覚えていた肩の痛みも今はもう石になったかのように何も感じない。視力と体重はこの二、三年で驚くほど落ちた。モニタを眺めつづける目は疲労を通り越してかすかな頭痛すら訴えているが、それでも残業に対する嫌気はない。

むしろ、会社に残ってただ黙々と仕事を続けている方が俺にはずっと楽だった。家に帰ってもそこには家族も恋人もいないし、大学入学時に上京した俺には東京の友だちもそう多くない。否、たしかに大学に在籍していた頃は多かったのだろう。けれど卒業してからというものそのどれも皆疎遠になった。

学生時代、輝いていたあの頃とくらべて今の俺はひどく無感動な人間だ。
仕事の資料を開こうとしたモニタはソフトの起動のために一度暗くなって、ローディングの画面に切り替わる。薄暗い画面にはくたびれた二十七歳の男の、すっかり張りを失った顔が映っている。

重たい瞼をつかのま落として俺はふと、あの日のことを思い出す。
五年前のあの日から俺はきっと、身体の半分が死んでいるのだ。

   ***

年の瀬も近づいた十二月、大学のバレー部の忘年会は若さに任せて三次会まで続いて、酒にはそう弱くないはずの俺もさすがにその日は出来上がっていた。俺たち四回生の卒業決定を祝う場も兼ねていたせいで、後輩にはよけいにたくさん注がれていたのだ。

当時一緒に暮らしていた幼馴染、岩ちゃんもやはりその夜はかなり飲んでいて、俺たちはお互いの肩を杖のように支えにして二DKの狭いマンションにようやっと帰りついた。

東京のフローリングは都会のくせに冷たくて身体はふるふると生理的に震えて、寒いねって言いながら俺と岩ちゃんはベッドの上で身を寄せ合って丸くなる。

シングルサイズの岩ちゃんのベッドにもぐりこむと普段は狭いって怒られるのだけれど、その日はあたたかいはずの布団すらも冷え切っていたから岩ちゃんは俺になにも言わなかった。

そのことに俺は気を良くして、骨ばった岩ちゃんの身体を抱きしめる。酒と飲み屋の煙草と、それからアルコールにすこし汗をかいた幼馴染の匂いがする。すん、とうなじに鼻をよせて、それからぺろりと舐め上げる。

「っぁ、」

もらした声は不意の行為に驚いたせいかいつになく甘かった。振り返った岩ちゃんは薄闇の中赤い目でぎろりと俺をにらむ。俺は笑ってキスをした。ん、ん、と上手に息の継げない岩ちゃんの拳が俺の胸をたたく。窒息する前に身体を離して見下ろすと、岩ちゃんは酒のせいだけでなく赤い顔で、やめろよと首を振った。

「岩ちゃん、いや?」
「っ……、」

ずるい質問だ。だってこう聞いたら岩ちゃんはうんて言えないの俺は知っている。(岩ちゃんは俺に絶対嘘をつかない)にやっと笑ってその頬に手を伸ばすと、しかし岩ちゃんは苦し紛れ最後の抵抗するように、

「チームメイトなんだぞ」
いつになく力のない声でそう言った。笑ってしまうほど無意味な抵抗だった。

「もう、チームメイトじゃないよ岩ちゃん」
だってバレーは今日で引退で、俺たちはもう来年から社会人になるんだから。

この日が来て嬉しいような、寂しいような、切ないような気持ちでそっと告げてまたその唇を奪う。目を見ながら舌を入れると岩ちゃんはすこし困ったような顔をして、けれどそれ以上の拒絶の言葉は思い浮かばないみたいだった。俺は静かに岩ちゃんの肩を押して、その上に身を重ねる。


二十二年間、ずっとこの人が欲しかった。
生まれたときからとなりにいた、俺の半身みたいな人だ。

きっと初めから好きだった。はっきりと自覚したのは中学一年の朝岩ちゃんの夢を見て初めて吐精したときだけれどそれより前から岩ちゃんを人にとられるのはいやだったから多分そうだ。本能的に岩ちゃんが欲しいって思ってた。俺は岩ちゃんを抱いてひとつになって、そうして愛したかった。

高校に上がったころからは折にふれてそういう気持ちを伝えたけれど、でも結果はいつもだめだった。

「俺たちはチームメイトなんだから」
岩ちゃんはかならずその台詞で俺を振った。ぎりぎりのところで予防線を張っているみたいな顔だった。俺はその顔を見るたび悲しくなって、反面同じチームに岩ちゃんがいるっていうことが嬉しくなって、それからいつもとても切ない気持ちになった。

でもそれも今日で終わりの話。
ベルトに手をかけバックルを外して、グレーのボクサーの上からそっと撫ぜる。岩ちゃんははっと息を詰めてその身を強張らせる。

この人が他人にこんなとこ触られるのはこれが初めて。彼女はこれまでいなかったし童貞なのは俺が誰より知っている。(ついでにいうと処女なのも確か)もうすぐ自分がそれを奪えるのだと思うとたまらなく興奮する。百七十九センチの男に俺は呆れるほど勃起している。

岩ちゃんをよくしてやりながら辛抱ならなくなって数度擦りつけると、そのたび岩ちゃんは大げさに肩を震わせてかわいかった。

耳を犯して理性を奪って、泣いて善がるまでその胸をいたぶってそうして脚を開かせる。
経験のない岩ちゃんはとろとろにとろけてその頃にはもうほとんどされるがままだったけれど、薄く伸びた脛の毛に頬をよせれば裏返った声を上げていやいやをするように俺の顔をぎゅうっと両脚で挟んだ。ちくちくしてちょっと痛い。でもすごくいとしい。

「岩ちゃん顏、真っ赤だよ」
「っあ、あし、きもちわりいんだよ、」
「えへへ」

ごめんねこれからもっときもちわるいことしちゃうね。ささやきながら岩ちゃんのお尻を撫でた。がっちりと筋肉のついたスポーツマンのお尻。他の男のなんて見たくもないけれど岩ちゃんのだと思うと興奮する。

きゅっと締まったそこを弄るたび岩ちゃんは引き攣れたような声を上げる。仰け反る顎にちゅっちゅっとキスをしておねだりする岩ちゃんの前を触る。何度も何度もくりかえす。最初はぎこちない声で喘いでいた岩ちゃんの声がだんだんと甘いものに変わっていく。

おいかわ、おいかわ。
最後にはそれしか言えなくなった岩ちゃんの唇にやわらかなキスを落として、そうして俺たちはとうとうひとつになった。求め続けた岩ちゃんの身体は狭くて熱く、それまで慰めに寝た女の誰よりも気持ちが善い。ついに岩ちゃんを手に入れた喜びに俺は咽び泣き、夢中で腰を振って何度となく追いつめて、途中からはゴムをつけるのすら億劫になって生々しく抱き合った。

延々つながり合った俺たちの境目はあいまいでぼやけていて、たまらなく幸福で、そうして最後は岩ちゃんを抱いたまま気を失うように眠りに落ちる。

この夜が終わってしまうのはすこし残念で、けれど朝起きて岩ちゃんの恥ずかしがるぶっきらぼうな顔を見るのはとても楽しみで、だからそうしたらごめんねってキスをしてやろうって、そう思いながらいとしい身体を抱き締めた。朝起きたら岩ちゃんはかわらずそこにいるって、俺はばかみたいに信じていたのだ。


でもそれは愚かな幻想だった。
次の朝目を覚ましたとき、岩ちゃんはもうそこにいなかった。

最初のうちは、きっとどこかに行ったんだろう、たとえば俺を驚かそうとして朝食を買いに行ったとか、そんなところだろうって思ってた。でも三十分経っても、一時間経っても岩ちゃんは帰ってこなかった。携帯に電話しても出なかった。

俺はそこでとうとう一人きりのベッドに耐え切れなくなって裸足のままマンションを飛び出した。なりふり構わず近所を探しまわって、大学はお休みで入れなくて、靴を履かずに来たから足の裏はもう傷だらけで、冷たいアスファルトを踏むたびじくじくと痛くて、そうして、岩ちゃんは結局見つからなかった。

昇る朝日はまぶしいはずなのに俺にはどこか色を失ったように感じられて、その日、絶望とともに俺の世界は灰色になった。


あれから、岩ちゃんには会っていない。
卒業はもう決まっていたから大学で顔を合わせることもなかったし、卒業式すら岩ちゃんは来なかった。故郷の仙台には何度か帰って幼馴染の親に息子の行方を聞いたが

「一は全然帰ってこないのよ」
嘘の下手なおばさんはそう言って気の毒そうに眉を寄せるだけだった。おそらく岩ちゃんに何らかの口止めをされているのだろう、心底辛そうなおばさんの顔を見るとそれ以上を問い詰めることは俺にはできなかった。

バイト先も友人のところも回って、学校の就職部にもたずねたがそのどこにも消息につながる手がかりは見つからず、岩ちゃんは卒業は決まっていたものの就職はまだ探しているところだったから会社さえもわからない。

そうこうしているうち俺は大学を卒業して外資の営業に進み、そうして外回りのあいだにもその姿を探すようになった。

顧客と顧客の家を移動する最中にもこの街のどこかに岩ちゃんがいるんじゃないか、そう思っては立ち止まりそのたび見間違いに絶望し、規定のノルマをこなしてからも夜中、ひたすらに東京中を歩き回る日々が続く。時には空が白むまで裏路地を探して始発の電車で眠ることすらもあった。

日、一日、すり減る革靴の底とともに俺はだんだん摩耗していった。顧客に見せる笑顔はどんどんぎこちないものになり、しまいにはろくな笑い方すらも忘れ、そうしてとうとう絶望することにも疲れ切ったその日に前の会社を辞めた。

同時に岩ちゃんの面影をこれ以上追い求めることもやめた。二十五歳の俺はもう夢や幻ばかりを一筋に追いかけられるほど、幼くはなくなっていたのだ。

次の仕事にはオフィスを一歩も出ないで済む今の業種を選んで没頭した。会社で一日の大半を過ごし、家には夜ただ眠りにだけ帰る。機械的で単調な毎日。けれどそれだけをこなしていれば街角に彼の姿をつい探してまた同じ絶望をつきつけられることもない。

平坦な日々に自分の心が枯渇していくのは自覚していても、だから俺は終電ぎりぎりまで会社に残る生活をやめられずにいた。


「……さん、及川さん」
「!」

うしろから声をかけられハッと振り返る。いつのまにかうつらうつらしてしまっていたらしい。白髪まじりの守衛さんがくたびれた顔でオフィスの入り口に立っていた。

「最終退社時刻です。鍵、もうかけますよ」
「あ。すみません、今出ますので、」
「はー、まったく毎日真面目なんだから。たまにはちょっとくらい休んだっていいじゃないですか、せっかくいい顔してるんだから、彼女のひとりやふたり、いるんでしょ?」
「……いませんよ」

お手数おかけしてすみません。もう一度頭を下げて急いでパソコンを落とし、上着のコートを引っつかんで部屋を出る。初老のおじいさんはため息交じりに小さく笑い、風邪引きなさんなよと俺の肩をたたいた。

たしかに会社を出ると御徒町のビル街は冬風がびゅうびゅうと吹いて、上着を着ても寒々しい夜だった。東京の夜は師走がすぐそこまで近づいて、このところ驚くほどに冷え込んでいる。

「ねえお兄さんあったまっていってよ」
通勤の上野まで歩く道すがら、気合のミニスカートで素足をさらした商売女は何人もそう言って声をかけてきたが言葉を返す気すらも起きずに通り過ぎる。

あの日から女には勃たなくなった。岩ちゃんの身体を知ってしまってからは押し付けられる女の谷間ものぞかせる太腿も、そのすべてが色褪せて見える。

身体が性欲を訴えたときはしようがないから岩ちゃんを思い出して抜いて、そうしてまた虚しさに襲われた。俺は五年が経った今でも記憶の中の岩ちゃんだけを抱いて生きている。まったくなんと未練がましい、みじめったらしいことだろう。

空虚な俺を十一月の夜風が笑う。俺はくたびれた上着の前をぎゅっと握り締め、亀のように首をすくめて上野駅へ歩く。普段なら徒歩十分ほどの距離なのに、今日は風が強くてなかなか思うよう前に進めない。

(ああ、もう、いやだな)
冬は嫌いだ。それまでは得意料理の少ない岩ちゃんがおなべを作ってくれるから好きだったけれど、岩ちゃんがいなくなったのはこの時節だから嫌いになった。

岩ちゃん、岩ちゃん。俺の行動原理なんてたいがいは岩ちゃんだ。まったくばかみたいだ。でも、それでも、

(……岩ちゃんに、会いたいな)

そう思って向かい風に目を瞑った瞬間、対面から歩いてきた誰かに肩をぶつけてよろめいた。二、三、下がってすみません、顔を上げたところで、しかし俺の動きは止まる。

「……うそ、」

すみませんと同じように言いかけて固まったスーツ姿のその人は、――岩ちゃんだった。